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新撰讃美歌 [書籍紹介・リスト]

『新撰讃美歌』岩波文庫.JPG

岩波文庫から2017年に『新撰讃美歌』が出たのを機に、『新撰讃美歌』の覆刻、翻刻などの情報のまとめ。

『新撰讃美歌』は

  • 出版年:1890年(明治23年)。
  • 植村正久、奥野昌綱、松山高吉編。
  • 出版社は原本に明記されていないが、ほぼ確実に警醒社と考えられている。
  • 歌詞のみのもの、楽譜付きのもの、ソルファ譜(階名をアルファベットで記すなどによる文字譜)などの種類がある。
  • 全289曲。ただし、264~274は頌栄、275~286は詩編など、287~289は十戒、主の祈り、使徒信経。

1.写 真

国立国会図書館デジタルコレクション『新撰讃美歌』(明治23年12月)で、楽譜付きの原本を見ることが出来る。

2.覆刻・影印

(1)秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』、新教出版社、1978年。

この中に譜附版が収録されている。解説:齋藤勇、原恵、辻橋三郎、茂洋、高道基。

(2)手代木俊一監修、『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻、大空社。

  • 第22巻(1996年発行):『新撰讃美歌』明治23年
  • 第23巻(1996年発行):『Shinsen sambika』明治23年
  • 第24巻(1996年発行):『新撰讃美歌』[トニック・ソルファー譜附]明治24年

3.翻 刻

(3)尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』、教文館,1982年。

この中のpp.313-422が讃美歌委員編『新撰讃美歌』1890(明治23)年12月。

  • 歌詞のみ。
  • 序、目次および末尾の英文による序、目次、Index of Subject、Index of Tunesなどは省略。

(4)『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)、岩波書店、2001年。

この中の「讃美歌集」が『新撰讃美歌』(明治23年12月)。

  • 楽譜は19曲のみを抜粋:4、15、21、38、41、60、63、68、74、81、97、132、160、169、172、208、214、219、274。
  • 英語の目次や各種のindexは省略。
  • 下山嬢子校注、解説。
  • p.538-552に補注あり。
  • p.585-598に解説あり。

(5)植村正久、奥野昌綱、松山高吉編、『新撰讃美歌』(岩波文庫青116-2)、岩波書店、2017年、270頁、780円+税。

「新 日本古典文学大系 明治編12」との異同:

  • 英語の目次・各種indexの省略は同じ。
  • 収録されている楽譜は異なる。文庫版に収録されているのは30曲:1、4、7、8、10、12、15、19、21、31、38、41、60、63、68、74、81、97、115、126、132、152、160、163、169、172、177、206、208、243。 (「新 日本古典文学大系 明治編12」に収録されていた19曲のうち、文庫版に収録されていないのは214、219、274の3曲。)
  • 注は全面的に簡略に書き改められて、巻末に置かれている。
  • 解説も新たに記されている。

というわけで、(1)~(4)が図書館でお目にかかるような本であるのに対し、岩波文庫版は、注も解説もしっかりしているし、何と言っても、活字になっているのでちゃんと読めるし、廉価なので、賛美歌集の歴史を学んだり、歌詞の変遷を調べたりするのに、必須アイテムである。

4.その他の情報

(1)『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』(岩波書店、2001年)の中の「聖書」とは

「旧約聖書――詩篇(抄)・雅歌」となっている。これは、山梨英和短期大学図書館山脇文庫所蔵の『舊約全書』(1888年(明治21年)、米国聖書会社)の復刻版『近代邦訳聖書集成7,8』(ゆまに書房、1996年)から、詩篇の抜粋54編と雅歌全文である。

  • 松田伊作校注、解説。
  • 篇・章、節は、『新共同訳聖書』に合わせられている。
  • 適宜区切りや改行を入れ、引用文は括弧で括られている。
  • 雅歌では単元ごとに一行空けられている。
  • p.537-538に補注あり。
  • p.578-584に解説あり。

(2)下山嬢子について

『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』、及び、岩波文庫版の、校注・解説の下山嬢子(しもやま・じょうこ)について。

著書の『島崎藤村――人と文学』(日本の作家100人)(勉誠出版、2004年)の奥付によると、

  • 1948年秋田県生まれ。
  • 東京女子大学文理学部卒、同大学院修士課程修了。
  • 現在、大東文化大学文学部教授。
  • 日本近代文学専攻。
  • 著書:『島崎藤村』、宝文館出版、1997年。
  • 編著:『日本文学研究論文集成30 島崎藤村』、若草書房、1999年。
  • 共著:『文学者の日記4 星野天知』(翻刻・解説)、博文館新社、1999年。

(3)国会図書館所蔵の讃美歌の目録

栁澤健太郎、「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」、国立国会図書館主題情報部編『参考書誌研究』第71号(2009.11)。(pdf)

  • 五十音順のリスト
  • 上の秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』(新教出版社、1978年)は281番。収録されている内容も列挙されている。
  • 上の手代木俊一監修『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻(大空社)は、239~280番。
  • この目録が、復刻版については、活字化した「翻刻」は原則として収録しないという方針のため、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館)と岩波の『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)は含まれていないが、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館,1982年)は、281番のところで触れられている。

詩編のアルファベット歌 [聖書と釈義]

詩編のアルファベット詩とかアルファベット歌と呼ばれる作品の特徴と詩編の中での意味について。

1.旧約聖書のどこにアルファベット歌があるか

詩編9~10、25、34、37、111、112、119、145、
哀歌1、2、3、4、
箴言31:10~31。
  • 詩編9と10は、あわせて一つのアルファベット歌。
  • 新共同訳聖書の古い版では、詩編112のところに(アルファベットによる詩)と入っていないが、後に訂正された。111編と112編はそれぞれがアレフからタウまで揃ったアルファベット詩である。
  • ナホム1章もアルファベット詩っぽいが、ダーレトがないしカフで終わっちゃってる。ナホム、がんばっぺ!
  • ちなみに、哀歌5章は、アルファベット歌になっていないのに、節の数だけ22にあわせている。哀歌、どうしたんだ?

2.アルファベット歌の意義

  • 文字自体が力を持っていると考えられていた。
  • 暗記を助けるため。
  • 思想的な全体性を表現している。

などの諸説がある。

詩編のアルファベット歌の内容から、信仰生活と律法の教育のためと考えられる。

文 献:
太田道子「詩編 序論」、『新共同訳旧約聖書注解Ⅱ』p.91。

3.完全なアルファベット順か?

詩編のアルファベット歌も全部が完全であるわけではなく、途中、抜けがあったり、順番が入れ替わっていたりする。

  • 詩編9~10編:ダーレトがない。メーム、ヌン、サーメクもない。アインとペーが逆。ツァーデーもない。
  • 詩編25編:ベートが節の頭にない。ワウがない。コフもない。
  • 詩編34編:ワウがない。
  • 詩編37編:アインがない。
  • 詩編111編:完璧。
  • 詩編112編:完璧。
  • 詩編119編:完璧。
  • 詩編145編:ヌンがない。

4.詩編の中の特徴

特徴(1)

  • 詩編の中のアルファベット歌は、五部に分けられる詩編の第一部(1~41編)と第五部(107~150編)に出てくる。間の第2~4部にはない。
  • 詩編が5部に分けられるのは、律法(モーセ五書)にちなんでいる。
  • ということは、詩編の最初の部と最後の部にアルファベット歌が出てくるのは、律法や神の御業の完全さを印象づけるためと考えられる。

特徴(2)

  • 詩編第一部に含まれるアルファベット歌はどれも不完全である。
  • それに対し、詩編第五部に含まれるアルファベット歌は、ほぼ完璧である。

5.詩編第五部の中で

  • 111と112のアルファベット歌の後に、113~117編のハレルヤ詩編が続いている。
  • 119編の長大なアルファベット歌の後、120~134編の長い「都に上る歌」で都に上ってゆき、135編のハレルヤ詩編に至る。
  • 145編のアルファベット歌の後に、146~150編のハレルヤ詩編が続いている。

というわけで、アルファベット歌は、律法や神の御業の完全さを印象づけて、ハレルヤという賛美を導いている。

参考文献:
大住雄一「『詩篇研究』への補遺――アルファベットうたをめぐって」、『果てなき探究 旧約聖書の深みへ――左近淑記念論文集』、教文館、2002年、pp.186-206。

佐々木潤 Blessing Life [音楽]

佐々木潤のCDの紹介とデボーション用のCD・音楽について。

CIMG1680_640.JPG

"Blessing Life : Devotion Music vol.1"、RMJ Records、RMJ0008?。

レインボーミュージックジャパンRainbow Music Japanの佐々木潤による、静まって、聖書を読み祈るデボーション・タイムのためのインストロメンタル・ピアノ曲集の第一弾。全7曲。

  1. Prologue 「詩篇62編5、6節」 5:10
  2. はじめに Genesis「創世記」 4:05
  3. ともに Judges「士師記」 5:01
  4. いのり Samuel「サムエル記」 2:55
  5. ことば Micah「ミカ書」 3:35
  6. 約束 Joshua「ヨシュア記」 3:58
  7. Epilogue 3:14

全部で28分ということはジャケットに記されているが、各曲の時間は記されていない。

メロディ・ラインがややはっきりしている面があるが、全体をリピートし続けても十分、聖書や祈りに集中できる。

個人的には、メロディ・ラインをもっと抑制して、連続1時間くらいの黙想・静思の時間に使えるCDがあったらと感じる。

ところで、レインボーミュージックジャパンのCDの品番は、どうもめちゃくちゃ。大丈夫か、RMJ。

既に2009年に発売されたJun Sasaki, "Gentle Breeze: piano instrumental"の品番がRMJ-0008とCDのレーベル面に書いてある。今回の"Blessing Life"は同じ番号になっちゃってる。

さらに、2009年のRainbow Music Japan, "Over the Rainbow"は、CDとケースの背はRMJ0007なのに、ケース裏ジャケットはRMJ-0006になっている。RMJ0006は、SIZUKA, "フォロー・ユー すべてをゆだね"が2006年にRMJ0006で出ているので、"Over the Rainbow"は0007が正解。

ということなので、"Blessing Life"はRMJ-0009になるはず

Rainbow Music Japanのサイト

アルファトラックスの中のプロフィール・ページ

PBA太平洋放送協会のWeb番組What The Pastors!!に、最近、佐々木潤が出演した回:

わたしがRMJのCDを紹介した前回のブログ記事は、「オーバー・ザ・レインボー」(2010年4月2日付)

ワーシップソングのピアノ・インストCDなら、これまでにもいくつかあった。

  • 『ミクタム・インストルメンタル・ワーシップⅡ ピアノプレイズ』(ピアノは柳瀬佐和子)
  • 『ピアノリビングプレイズ1 I Will Praise』(ピアノは澤崎真理)
  • 『リビングプレイズインストゥルメンタルシリーズ 朝ごとに新しく』(ピアノの他にクラリネットやホルン、サックスなどが入る)
  • 『In His Hands: Acoustic Piano for Healing Moments (Piano Living Praise 2)』(ピアノはJeff Nelson)

など。しかし、やはり知っているメロディなので、音楽の方が主になって黙想を導くという感じになってしまう。

デボーション用ピアノインストCDには、次のものがある。

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Jeff Nelson, "Prayer Songs vol.1&2," Wholehearted Worship, 1999.

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"Prayer Songs vol.3&4," 2005.

しかし、メロディラインがはっきりしすぎており、テンポも速め、音数も多く、時々盛り上がりすぎ。

通常の音楽では聞く人をいかに惹きつけかが大切だと思うが、デボーション用の音楽は、人を音楽に向かわせるのではなく、神へと向かわせ、御言葉と祈りに集中させなければならない。じゃまをしてはならないので難しい。

というわけで、レインボーミュージックジャパンの今後に大いに期待する。

なお、YouTubeでsoaking worshipなどのキーワードで検索すると、1時間とか3時間のデボーションミュージックがいろいろ出てくる。

(2017.11.23,29、12.1加筆修正)


『礼拝と音楽』2016・2017 [音楽]

『礼拝と音楽』の2016~2017年に発行されたNo.168~175の8号分から、わたしにとって興味関心のある記事のメモ。

No.168、2016年冬号

(特集・礼拝の中の説教)
  • 「説教塾や神学校で若い人と触れる機会がありますが、最初に「好きな説教者は誰ですか」と訊きます。そうすると、ほとんど挙がらないんです。でも、好きな画家のいない美大生はいないはず。好きな作曲家のいない音大生はいないはず。好きなギタープレイヤーのいないバンドはないはず。」
    平野克己(平野克己と荒瀬牧彦の対談「「説教」か「礼拝」か 説教学と礼拝学の共働をめざして」、p.4)
  • 「説教者と奏楽者――それぞれの立場から礼拝を考える」pp.34-39。特に、この中の末次かおりによる「奏楽者の立場から――理想と現実の狭間で」
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第7回 オランス・説教壇」、p.54-57。

No.169、2016年春号

(特集・礼拝とからだ)
  • 辻学「聖書の中の身体表現」、pp.4-8。按手と聖霊賦与の正統性に関する部分が興味深い。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体の「居場所」」、pp.22-26。平和の挨拶に関する記述あり。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第8回 按手・塗油」、p.54-57。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <3>」"God, Be the Love to Search and Keep Me" (詞・曲:Richard Bruxvoort Colligan) → YouTubeで検索

No.170、2016年夏号

(特集・後期ロマン派のオルガン音楽 19世紀はおもしろい!)
  • 橋本祐樹「現代ドイツ・プロテスタント教会礼拝事情――種々の新しい試みと『プロテスタント礼拝式文』(UEK/VELKD, 1999)に触れて」、pp.44-47。UEKとVELKDの紹介と、"Evangelisches Gottesdienstbuch," UEK/VELKD, 1999の紹介あり。

No.171、2016年秋号

(特集・ライフサイクルにおける祝福)
  • 宮越俊光「子どもの祝福――祝福式に基づく七五三の祝いの可能性」、pp.10-13。p.11に、子どもへの祝福の祈りの例が2つあり。
  • 岩田昌路「祝福を受け継ぎ、祝福を告げる教会」、pp.20-23。高齢教会員の牧会に関する取り組みの紹介。小見出し:狛江教会の創立と特徴、信仰宣言、具体的改革のための心得、三回の主日礼拝、平日の聖餐礼拝、送迎システム、第一礼拝における聖餐執行。
  • 「「堅信礼」をどうとらえるか――カトリック、聖公会、ルター派、改革派、メソジストの例から」、pp.28-37。カトリック:アンドレ・ヴァン・カンペンハウド、聖公会:吉田雅人、ルーテル教会:乾和雄、アメリカ改革派教会:ウェイン・ジャンセン、メソジスト:林牧人。

No.172、2017年冬号

(特集・初期バロックの教会音楽)
  • 特になし。

No.173、2017年春号

(特集・聖歌隊――礼拝のために、礼拝とともに)
  • 山本美紀「「共にうたうこと」から考える「うたの力」――キリスト教のうたう文化としての「賛美」と近代以来の日本の「合唱」」、pp.10ー14。1937年の日中戦争勃発を契機に、国民の不満を解消しつつ体制に組み込んでいくための厚生運動として、合唱運動が国家的規模で拡大した。合唱は職場をまとめ、戦争遂行のための生産力向上を目指すツールであった。 誰もが小学校や中学校で経験した合唱コンクールが発表会ではなくコンクールであるのは、合唱が、戦前から、所属する集団を意識させ、結束を固め、一つの目標に向かって教化し、望む方向に質を高めるものだったからだ。
  • 高橋牧、飯靖子「礼拝の中での聖歌隊の役割と可能性」、pp.28-34。
  • 志村拓生「『讃美歌21』刊行までのあゆみ――日本の賛美歌集編纂の歴史をふりかえる」、pp.46-49。
  • 「ブライアン・レンは、説教に合う賛美歌が既存の賛美歌集に見つからなかったために、よく知られた曲で歌える新しい詞を書いた」。
    p.53。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第12回 座る・沈黙」、pp.54-57。

No.174、2017年夏号

(特集・賛美歌とことば)
  • 「賛美歌は専門家によって教会の制度の外からもたらされるものでもない。また個人の敬虔が教会の賛美歌を生み出すのでもない。賛美歌を生み出すのは教会の礼拝の現実であり、神の現臨のリアリティーであり、礼拝共同体の応答ではないのか。」
    深井智朗「1717年から2017年へ――神学と賛美歌について」、p.8。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <8>」"Love divine, all loves excelling" 詞:Charles Wesley、曲:W.P.Rowlands(tune name:BLAENWERN)詞は「あめなるよろこび」(『讃美歌21』475、476)。日本語の「あめなるよろこび」とBLAENWERNとの組み合わせは『教会福音讃美歌』328にある。ウィリアム王子とキャサリンの結婚式で歌われた讃美歌。→ YouTube

No.175、2017年秋号

(特集・礼拝改革者ルター)
  • 伊藤節彦「ルター周辺の改革者たち――礼拝における影響」この中に、ローマ・カトリック、フォーミュラ・ミサ(1523年)、ミュンツァーのドイツ語ミサ(1523年)、ルターのドイツ語ミサ(1526年)、ブツァー(1539年)、カルヴァン(1545年)の比較一覧表あり(p.18)
  • 井上義「”コンテンポラリー”を識る」連載1(pp.57-54、横書き) ついに『礼拝と音楽』もプレイズ&ワーシップに関心を持ち始めたのか。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <9>」"O Thousand Tongues to Sing" 詞:Charles Wesley、曲:Mark A. Miller 『讃美歌21』4番をコンテンポラリーな8ビートで歌う。→ YouTubeで検索
  • "O God, You Search Me" 詞・曲:Bernadette Farrell 詩編139編をモチーフにした賛美歌。→ YouTubeで検索

ルターの礼拝から学ぶこと [礼拝]

ルターの礼拝の要点

  1. 礼拝は人間の業ではなく神の奉仕であり、神の御業の現れるところであるから、聖書に反する部分を取り除き、神の言葉を強調。(説教の重視、二つに限定されたサクラメント、実体変化や犠牲奉献を取り除き、制定の言葉を重視など)
  2. 全信徒祭司性による会衆の参与。(自国語の使用、二種陪餐、会衆賛美など)

ルターの礼拝改革の進め方

  1. 人々への配慮から、急進的な改革はしない。特に弊害のない事柄は、廃れる時や取り除くにふさわしい時が来るのを待つ。
  2. 一つの形が絶対化されてはならない。どのような礼拝順序を取るかについて自由を尊重する。

ルターの礼拝改革に学ぶこと

  1. 御言葉の強調。神の言葉の説教と、聖餐における制定語の重視。(パンのかたまりを裂く行為などは、「見せ物的ミサ」への逆戻りである。)
  2. 礼拝への信徒の参加や会衆の参加を、様々に工夫する。(読み交わす部分を多くするとか、聖書朗読も教会員が当番で行うなど。賛美の伴奏もオルガンだけで行うのではなく、合奏にしたりコーラス隊を入れたり。)
  3. 自国語で賛美歌を歌う。(キリエ・エレイソンとかグロリア・インエクセウシス・デオとかの伝統的典礼的に定着している言葉は別として、「アラル・アラメ」(21-272)、「サレナム、サレナム」(21-508)、「バーニング・ハート」(21-555)などとは歌わない。そうすると、「ノエル、ノエル」(21-258)も微妙。クリスマスに歌わないわけにはいかないけけど。)(聖歌隊も、気取ってラテン語などで歌うことはしない。)
  4. ふさわしい賛美歌がなければ、作る。(個人で賛美の詞を書いてます、曲を作ってますという人もたくさんいるけど、教会として礼拝のために。教会オリジナルの讃美歌を作っていると聞いたことがあるのは、阿佐ヶ谷教会、西千葉教会(合唱曲?)、鎌倉雪ノ下教会(いまでも?)、行人坂教会などなど。)
  5. よりよく礼拝するために信仰を理解する学びも重要。(三要文(さんようもん)すなわち、十戒、使徒信条、主の祈りの学び。「この三篇には、キリスト者が知る必要のあるほとんど全てが、簡潔に短く示されている。」(ルター「ドイツミサと礼拝の順序」『ルター著作集 第1集第6巻』p.424))(『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』を用いた学びを教会全体で行うことも、宗教改革500周年の記念として意味がある。)
  6. 従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちに配慮し、また、目新しいものにすぐに飛びつく人たちがいることに注意し、急進的な改革はしない。
  7. 礼拝の順序自体が絶対化されてはならない。ただし、ころころ変えるのは混乱するのですべきでなく、一方、弊害があればすぐに変更すべき。

ルターの礼拝 [礼拝]

ルターの礼拝についての基本的な著作は、
 「会衆の礼拝式について」(1523年)
 「フォーミュラ・ミサ」(1523年)
 「ドイツミサ」(1526年)
の三つ。
礼拝順序が示されているのは「フォーミュラ・ミサ」と「ドイツミサ」。しかしいずれも、いわゆる式文ではない。


1.Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine


1523年の聖霊降臨日。ドイツ語で書かれた。

邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。

礼拝順序を示しているわけではないが、礼拝から不純物を取り除き、御言葉による礼拝の回復と、神の言葉が説教されることを訴えている。


2.Formula missae et communionis


1523年末。ラテン語で書かれた。

一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。あるいはこれをもとに鈴木浩、湯川郁子によって改訂されたものが『ルター著作選集』(教文館、2005)のpp.437-460。

特徴は、
  • ①他の考え方をするのは自由であり、ルターはこれが強制されることを望んでいない。
  • ②ラテン語であり伝統的な様式を踏襲しているのは、従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちへの配慮であり、また、目新しいものにばかり飛びつく連中がいるため。
  • ③伝統に沿いつつも、人間が犠牲を献げることにつながる要素を徹底して排除。具体的には、奉納と奉献文を否定して実体変化と犠牲奉献に関わる言葉や所作を取り除いた。かわりに制定語を重視。
  • ④自国語による説教を勧め、自国語の讃美歌の必要を述べている。


3.Deutsche Messe und ordnung Gottisdiensts


1526年元旦。ドイツ語で書かれた。

一般に「ドイツ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)。

特徴は、
  • ①自国語による礼拝。
    (ただし、
    • a) 自国語による礼拝の実践はすでにカールシュタットらが行っていた。
    • b) 賛美歌をドイツ語で会衆も歌うが、ドイツ語の讃美歌が十分に揃うまではラテン語も許容。
    • c) 目的は信徒の信仰理解のためと、異教徒や未信者、若者・子ども、召し使いへの伝道・教育のため。)
  • ②礼拝の順序も言語もそれ自体が絶対化されたり強制されてはならず、各人の自由であることを強調
    (ただし、ころころ変えるのは民衆が混乱するのですべきでない。また、弊害があればすぐに変更すること。)。
  • ③信徒の信仰理解、異教徒への伝道、子どもへの教育のために、教理問答を重視。
  • ④急進的な改革をせず、時が来るのを待つ。祭服などは、廃れるか、廃止したいと思うようになるまでそのままにしておく。
  • ⑤標準説教集(説教範例)の必要を提起。

ドイツミサは、フォーミュラ・ミサを廃止したり変更したりするものではない。必要に応じて用いる自由がある(『ルター著作集 第一集第六巻』P.421-422)。結果として、ドイツミサよりもフォーミュラ・ミサがドイツ語の形で定着し、また、宗教改革の広がりに伴って各国語で行われることになった(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』p.437)


文 献(順不同)


見たもの


  • 前田貞一「ルター派の礼拝」、『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)pp.369-373。
  • W.ナーゲル(松山與志雄訳)『キリスト教礼拝史』(教文館、1998年)のpp.158-169。
  • J.F.ホワイト(越川弘英監訳)『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』(日本基督教団出版局、2005年)のpp.63-85。
  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)の「礼拝の系譜」の項目の中の徳善義和「ルター派」、pp.436-438。「礼拝の歴史」の項目の中の出村彰「宗教改革時代」、pp.486-488。
  • 徳善義和「ルターと讃美歌2 信仰改革は礼拝改革へ具体化」、『礼拝と音楽』158号、2013夏、pp.52-56。

見たけど役立たなかったもの


  • 『ルターと宗教改革事典』(教文館、1995年)の「礼拝改革」の項目(徳善義和)。記述の分量が少なく、フォーミュラ・ミサやドイツミサの中身の話はない。
  • 『礼拝と音楽』No.175、2017年秋号。特集「礼拝改革者ルター」。ルターの礼拝改革に取り組む具体的な話はないし、フォーミュラ・ミサやドイツミサについても上の文献を補うような知見はなかった。カトリック、フォーミュラ・ミサ、ドイツミサ、ミュンツァーのドイツ語ミサ、ブツァー、カルヴァンの礼拝式順を比較できる一覧表(p.18)があるのは便利かも。

見ていないもの


  • V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969年。
  • ゴードン・W・レイスロップ(平岡仁子訳)、『21世紀の礼拝――文化との出会い』 、教文館、2014年、125頁、1500円+税。


補 足


前田貞一は『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977)の「ルター派の礼拝」の項目で、ルターの著作で礼拝順序に関わる基本的なものとして英語版ルター著作全集"Luther's Works"から、上記3つの他に、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"(1525)を挙げている。

これの原題は"Eyne Christliche vormanung von eusserlichem Gottis dienste vnde eyntracht, an die yn lieffland." WA18, 417-421. 現代ドイツ語では"Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland."

しかし、これは当時のバルト海沿岸のリボニアの町ドルパートでの宗教改革を励ますために送られた手紙で、ルターの礼拝観は表れているだろうが、ドイツでの話ではないので、基礎的な文献ではこの著作については全く触れられていない。邦訳もなし。



ルターと詩編 [聖書と釈義]

マルチン・ルターの生涯や信仰と特に関わりのある詩編の箇所。

● 2:4
「天を王座とする方は笑い、・・・」
ポールソン『はじめてのルター』、p.113。

● 18:3以下
激しい雷を伴った嵐が起こったので、ルターは次のように言った、「さあ、我々はこの体験から第18編の詩を理解し、解釈することを学ぶことができる」
コーイマン『ルターと聖書』p.220。

● 31:2c
(=71:2a)「神の義」(ただし新共同訳では「恵みの御業」)
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.45~。
植田訳『卓上語録』、p.34。

● 45
1532年の講義。
金子晴勇訳、『心からわき出た美しい言葉――詩編45編の講解』、教文館、2010年。

● 46
「神はわがやぐら/砦」(1529年)。
讃美歌1編267、21-377。

46:5の解釈と翻訳について、コーイマン『ルターと聖書』p.245以下。

● 51
ルターの罪理解。1532年の講義。
『ルターと宗教改革事典』p.209。ポールソン『はじめてのルター』、p.168-171。
金子晴勇訳、『主よ、あわれみたまえ――詩編51編の講解』、教文館、2008年。

詩編51:19について「わたしはこの節を金の文字で書きたいほどだ」
コーイマン『ルターと聖書』p.242。

● 71:2a
(=31:2c)

● 90
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.273~。
金子晴勇訳、『生と死について 詩篇90篇講義』、創文社、1978年。
金子晴勇訳、『生と死の講話』、知泉書館、2007年。

● 116:10
「わたしは信じた。それゆえ、わたしは激しい苦しみに襲われた。」
「ルターは、神に信頼することは、ただ一人の神をもつことによって問題を増すばかりであるということを理解していた」
ポールソン『はじめてのルター』、p.129。

● 118:17
「彼は、城の中で過ごした半年の間に多くのことをやり遂げた。詩編が彼の関心の大部分であった。信徒のために、彼は詩編を解説して小さな単行本としたが、そのうち最もよく知られているのは、かの貴重なConfitemini(われら告白せん)である。」
コーイマン『ルターと聖書』p.233。

父ハンスの死に際して、「死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう」
『ルターと宗教改革事典』p.122。

● 130
「深き悩みより」(1523年)。
讃美歌1編258、21-22、21-160。



ルターが「パウロ的詩編」と言っている詩編:
32、51、110、130、143。
植田訳『卓上語録』教文館、p.173。



見た文献:
  • ウィレム・J.コーイマン(岸千年訳)、『ルターと聖書』(ルター神学研究双書7)、聖文舎、1971年。
  • 日本ルーテル神学大学ルター研究所編、『ルターと宗教改革事典』、教文館、1995年。
  • ルター(植田兼義訳)、『卓上語録』、教文館、2003年。
  • S.ポールソン(湯川郁子訳)、『はじめてのルター』、教文館、2008年。
  • 徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』、教文館、2007年初版、2012年第2版。



どの詩編を学ぶか [聖書と釈義]

教会の祈祷会や○○会で詩編を学ぼうというとき、

詩編の150編全部を学ぶのは大変。

では、厳選する場合、どれを取り上げたらいいのか。

B.W.アンダーソン『深き淵より――現代に語りかける詩篇』


中村健三訳、新教出版社、1989年。

この付録Aに、「様式による詩篇の区分」があり、特に読むべき詩編に☆印が付されている。
☆印が付けられたものを番号順にすると、

1、2、3、4、6、8、12、13、18、19、22、23、27、31、32、33、34、37、38、39、42~43、44、46、47、49、51、57、69、71、73、77、78、80、81、84、85、88、89、90、91、92、94、95、96、98、99、100、102、103、104、105、107、110、114、116、118、121、122、124、130、132、136、138、139、143、145、146、147、148。



C.ヴェスターマン『詩編選釈』


大串肇訳、教文館、2006年。

11の類型にそって代表的な詩編を選んで、私訳、本文について、構成、釈義。「詩編選釈」でありながら、哀歌5章も入っている。結びとして「詩編とイエス・キリスト」。

取り上げられているものを目次から拾って番号順に挙げると、

1、4、6、8、13、19、22、23、24、27前半、29、30、31(部分)、33、40前半、46、51、62、66(前半と後半別々に)、72、73、77、80、90、102、103、104、113、116、118、119、121、122、123、124、126、130、138、139、145、148。



J.F.D.クリーチ『詩編』


飯謙訳、現代聖書注解スタディ版、日本基督教団出版局、2011年。

イントロダクションで詩編という名称、祈りの言葉としての特徴、表題があることや5区分、主こそ王というテーマについて簡単に説明。第1章で、第3編を例にして構造や技法、文体などの基礎を知り、第2章で文学類型をざっと解説。その後8編を取り上げる:

1、8、22、23、51、99、121、137。



R.ヘステネス『グループで聖書を学ぶABC』


朴憲郁・上田好春訳、日本基督教団出版局、2014年。

このp.85で挙げられている、小グループで聖書研究を行うために適しているとして例示されている詩編の箇所は、

1、8、19、23、25、32、34、37、42、51、62、73、107、121。


また、p.154では、聖書を学ぶグループの参加者が体験し、感じることができそうな「感情豊かな詩編」として次の箇所が例として挙げられている。

32、38、51、55、56、71、73、77、139、143、147。



『讃美歌 第一編』交読文


ところどころ省略があるが。

1、2、8、16、19、23、24、27、29、32、40、42、46、50、51、57、65、67、84、90、91、95、96、100、103、104、118、119(抜粋)、121、127-128、130、139、146。



『こどもさんびか改訂版』交読詩編


巻末の交読詩編は、全体的によく知られている部分だけの抜粋になっている。

1、8、19、23、24、27、42、46、51、72、85、95、96、100、121、130、133、136、139、150。



まとめ:厳選10箇所


以上を参考に、

  • 類型論の解説では類型として代表的な作品が選ばれているので、学びの箇所としては必ずしもふさわしいわけではない。
  • よく知られている箇所を取り上げたい。

といった観点から、10箇所に厳選すると:

1、8、19、23、46、51、100、121、130、139。


もう少し増やすとすると、『讃美歌 第一編』の交読文と『こどもさんびか改訂版』に載っている交読詩編で、共通するもの15箇所:

1、8、19、23、24、27、42、46、51、95、96、100、121、130、139。



(2017.11.19 ヘステネスのp.154の紹介を追加)



積ん読 バックナンバー1 [まとめ]

読んでいるかどうかは別にして、机の上に積まれている本10冊。2010年秋~2015秋 (9回分)

2010.9.30

  • 宮田光雄『平和のハトとリヴァイアサン
  • 徳善&百瀬『カトリックとプロテスタント』
  • 古屋安雄『宗教の神学』
  • 『桑田秀延全集第三巻』
  • 近藤勝彦『礼拝と教会形成の神学』
  • 森本あんり『現代に語りかけるキリスト教』
  • 加藤常昭『改訂新版 雪ノ下カテキズム』
  • 古屋安雄『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』
  • 『ブルンナー著作集第2巻』
  • ニーバー『光の子と闇の子』

2011.3.3

  • ポールソン『はじめてのルター』
  • ベノア『ジァン・カルヴァン』
  • 『イエスと共に歩む生活 はじめの一歩Q&A』
  • ヘイゲマン『礼拝を新たに』
  • 『神学』72号「愛と法――教会を建てるために」
  • 大串眞『開拓伝道物語』
  • 森井眞『ジャン・カルヴァン ある運命』
  • 保科隆『葬儀』
  • 疋田博『キリスト教葬儀』
  • TOMOセレクト『慰めと希望の葬儀』

2012.10.8

  • ブルンナー『信仰・希望・愛』
  • 奥田知志『もう、ひとりにさせない』
  • 竹森満佐一『わが主よ、わが神よⅠ』
  • 富岡幸一郎『使徒的人間カール・バルト』
  • クーピッシュ『カール・バルト』
  • ボンヘッファー『ボンヘッファー選集9聖書研究』
  • バルト『和解論Ⅲ/1』
  • ボーレン『祝福を告げる言葉』
  • ハンター『山上の説教講解』
  • シュトレッカー『「山上の説教」註解』

2013.4.3

  • 聖(セイント)☆おにいさん1,2
  • 鈴木有郷『ラインホルド・ニーバーとアメリカ』
  • 平野克己『主の祈り イエスと歩む旅』』
  • ネストレ第28版
  • ホワイト『キリスト教の礼拝』
  • 田川建三『新約聖書 訳と註 マタイ/マルコ』
  • ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間』
  • 川島貞雄『ペトロ』清水書院
  • 『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社
  • 越川弘英編『宣教ってなんだ?』

2013.10.10

  • 浅野順一『モーセ』(岩波新書)
  • フォン・ラート『モーセ』
  • ギューティング『新約聖書の「本文」とは何か
  • ナウエン『いま、ここに生きる』
  • 『どちりな きりしたん』(岩波文庫)
  • 『ロマン・ロラン全集18 政治論1』
  • ヴェスターマン『聖書の基礎知識 旧約編』改訂新版
  • 越川弘英『信仰生活の手引き 礼拝』
  • 山中正雄『心の診察室』
  • 『渡辺総一 いのりの造形 共に歩むキリスト』

2014.4.2

  • ◆渋谷・赤坂『憲法1人権』第5版有斐閣アルマ(とても読みやすく諸説が簡潔に紹介されている)
  • ◆西谷幸介『十字架の七つの言葉』ヨルダン社(いまでも入手可能、在庫僅少)
  • ◆加藤常昭『黙想 十字架上の七つの言葉』(この時期の定番)
  • ◆バルト『和解論Ⅱ/4』(「教団の秩序」とか)
  • ◆八木谷『もっと教会を行きやすくする本』(なかなかそうはできなくてすいません)
  • ◆『10代と歩む洗礼・堅信への道』(使ってみてます)
  • ◆丸山真男『日本の思想』岩波新書(古書店で50円でゲット)
  • ◆三浦綾子『夕あり朝あり』(白洋舎クリーニング)
  • ◆クラウス『力ある説教とは何か』(「樽が非常に良く響き、反響するときは、たいして中身が入っていない」p.94)
  • ◆カトリック『YOUCAT』(すごいね!)

2014.10.1

  • ◆スタインベック『怒りの葡萄』(主人公に同行する説教師が気になる)
  • ◆『謙堂・植村正久・物語』(植村の伝記は他にあまりない)
  • ◆『教会アーカイブス入門』(教会史編纂の手引き)
  • ◆セイヤーズ『ドグマこそドラマ』(「地上最大のドラマ」はバルトも絶賛)
  • ◆パネンベルク『組織神学入門』(キリスト論は教会と伝道の基盤)
  • ◆近藤勝彦『癒しと信仰』(ずいぶん前の説教・講演集)
  • ◆藤掛明『一六時四〇分』(付録に中年期のメンタルヘルスの講演概要あり)
  • ◆『洗礼を受けずに亡くなった幼児の救いの希望』(神の限りない憐れみが第一にある)
  • ◆ナッシュ『幼子の救い』(これも洗礼を受けずに亡くなった幼子の救い)
  • ◆ロイドジョンズ『説教と説教者』(御言葉を語る恵みと注意を再確認)

2015.4.1

  • ◆ミルトン『言論・出版の自由』(岩波文庫、原田純訳。表現の自由。)
  • ◆稲垣久和『改憲問題とキリスト教』(公共の福祉、市民社会の形成)
  • ◆『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(永井清彦編訳、岩波。)
  • ◆『国権と良心 種谷牧師裁判の軌跡』(この中に中平健吉「教会闘争としての種谷牧師裁判」)
  • ◆日本平和学会編『平和を考えるための100冊+α』(見出しは75冊)
  • ◆ヘスラム『近代主義とキリスト教』(カイパーのカルビニズム講義)
  • ◆ヘッセリンク『改革派とは何か』(RCAは「改革派」、CRCは「キリスト改革派」)
  • ◆デーヴィス『現代における宣教と礼拝』(邦訳1968年の古典。Missio Dei)
  • ◆永井春子『十戒と祈りの断想』(他に『青少年のためのキリスト教教理』も)
  • ◆渡辺和子『愛をこめて生きる』(他に『信じる「愛」を持っていますか』、『目には見えないけれど大切なもの』)

2015.10.1

  • ◆シュミート『旧約聖書文学史入門』(Schmidはスイスではシュミート)
  • ◆『新版総説旧約聖書』(五書は大住、歴史書は山我)
  • ◆ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』(100項目のつもりが数え間違えて105項目)
  • ◆大住雄一『神のみ前に立って』(なかなか十戒の各論に入らない)
  • ◆深井智朗『伝道』(漬け物販売のバイトの話)
  • ◆上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(弱者が弱者のまま尊重される思想)
  • ◆宇沢弘文他『格差社会を越えて』(新自由主義批判)
  • ◆ドレッシャー『若い夫婦のための10章』(結婚準備の学び)
  • ◆大嶋裕香『愛し合う二人のための結婚講座』(これも学びのためだが耳が痛い)
  • ◆三浦綾子『光あるうちに』(道ありき第三部)

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説教は説教者を越えていく [礼拝]

わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。
1テサロニケ2:13より
1.

説教者は、説教の準備において自ずと、その時の教会の課題や時代の状況の中で聖書を読むことになる。同じように、説教者の信仰の傾向やその時々の信仰的関心が説教に影響を与える。言わば、説教者の信仰が説教に表れ出る。それゆえ説教者は、自分の信仰を客観的に見つめ、それに囚われないように聖書を読むことを心がけなければならない。

2.

説教は、説教者の解釈を披瀝するものではなく、説教者が見出した真理を提示することでもない。説教の準備と語りに真摯に取り組むならば、説教者は、その中で自らの信仰が問い直され、理解が深められ、枠組みが変えられていく。説教を語っている最中や語り終えた後に、準備の時には気づかなかった恵みを見い出すこともある。自分の説教に自分自身が養われることがある。説教は、それまでの説教者を越えていく。

3.

さらに、会衆が説教を聞くとき、説教者が気づいていない恵み、説教者の意図を越えたものを聞き取ることがある。語られた説教の内容と聞かれた説教の内容とは同じではない。説教の言葉は、説教者を越えて会衆に聞かれる。そこで説教は、神の言葉として語られ、聞かれている。

4.

説教が神の言葉として語られ聞かれるとき、聖霊なる神が働いておられる。一人の人間である説教者が語る説教は、聖霊によって、神の言葉として語られ、聞かれる。そのとき、説教の言葉は、単に情報の伝達にとどまらず、会衆一人ひとりをそれまでとは異なる一人ひとりにし、教会全体をそれまでとは異なる教会にする。神の言葉の説教が語られるとき、そこに新しい何かが引き起こされる。説教が語られるところでは、わたしたちが気づかなくても、そこで新しい何かが生じている。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
イザヤ43:19より

マルコのサンドイッチ [聖書と釈義]

マルコによる福音書の特徴のひとつとして、「サンドイッチ構造」が随所に見られることは、よく知られている。

「たとえば彼は、一つの物語を二つに割って、その間に他の伝承をおき、そこに時間の流れを示すという手法をよくとるのであるが、5:25-34とその前後、などに見られるいわばサンドウィッチ式の手法は・・・」
橋本滋男「共観福音書」、
『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年、p.115。


1.もうちょっと学問的な言い方はないのか


『新版 総説 新約聖書』では、「挿入法intercalation」という言葉が紹介されている。
廣石望「マルコによる福音書」、
『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年、p.74。


その箇所で注に挙げられている文献:
James R. Edwards, "Markan Sandwiches: The Significance of Interpolations in Markan Narratives," Novum Testamentum XXXI, 3 (1989) pp.193-216.(リンクはpdf)

この文献を見てみると
  • サンドイッチという言葉がそのまま論文のタイトルに使われている
  • intercalationとかinterpolationとかinsertionとかframingとか、いろいろな言い方が使われているようだ。

framing(枠付け、囲い込み法、囲い構造など)以外はみな日本語にすると「挿入法」か。

というわけで、「挿入法」という用語もあるが、「サンドイッチ構造」と言っても学問的に全然問題なさそうだ。

「学問的文献ではこのような語り方に対して「サンドウィッチ」物語という語を見い出した人たちもいる。」
C.J.デン・ヘイヤール(伊藤勝啓訳)『マルコによる福音書I』
(コンパクト聖書注解)、
教文館、1996年、p.153。


2.いつ頃から?


Edwardsは、sandwich techniqueという言い方についての、たぶん代表的な文献を挙げているが、その中で一番古いのは、
Earnest Best, "The Temptation and the Passion: the Markan Soteriology," SNTSMS 2; Cambridge: The University Press, 1965.
である。

別に、E.Bestが最初に言い出したというわけではないだろう。

しかし、このあたりから、学術的な文章の中でも「サンドイッチ」という言葉が使われるようになっていったのだろうか。

ちなみに、アーネスト・ベストは、「現代聖書注解」の第二コリントを書いている(山田耕太訳、1989年)。


3.サンドイッチ構造が見られる箇所


一般的には、次の5箇所が挙げられる:
3:20-35、5:21-43、6:7-30、11:12-21、14:1-11。
(Edward, p.203。
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、
日本基督教団出版局、2010年、p.154。)


(1)Edwards

Edwards はさらに、4:1-20、14:17-31、14:53-72、15:40-16:8の4箇所を加えている。

しかし、4:1-20では、1-9節の種を蒔く人のたとえの語りが中断している感じはなく、時間的にも10節で「イエスがひとりになられたとき」と、少し隔たっている。

14:17-31も、最初はユダの裏切り、最後はペトロの離反であって、サンドイッチのパンの種類が上と下で異なる。

14:53-72は、確かに、54節のペトロが大祭司の屋敷の中庭まで入ってきたことが66節以降に続くが、54節は事態がまだ始まっておらず、状況設定の段階であるので、むしろ、伏線に過ぎない。

15:40以降では、40節で婦人たちが遠くから見守っていたことが、イエスの埋葬後も、47節で婦人たちが墓を見つめていたことにつながっているが、ヨセフによるイエスの埋葬によって事態が大きく変化したわけではなく、変わらない。むしろ、このことが16章につながっていくので、15:40-41、47は、16章への伏線と見た方がよい。 

(2)川島貞雄

川島貞雄は、他に、2:1-12、7:1-23を挙げている。
あるいは、「なお、4:1-20、7:1-23、8:1-21参照」と記している。
川島貞雄『マルコによる福音書――十字架への道イエス』
(福音書のイエス・キリスト2)、
日本基督教団出版局、1996年、p.86,111。


2:1-12は、律法学者が心の中でイエスを非難したことによって、中風の人の癒しが中断される。これによって、中風の人を連れてきた四人の男の信仰を見たことによって癒しがなされることに加えて、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることが明確に示される。したがって、この箇所は「サンドイッチ構造」と言ってよさそうだ。

4:1-20は(1)で述べた。

7:1-23は、手を洗わないで食事をすることの話題が、まず、人間の言い伝えの問題として捉えられ、続いて、食物規定の問題に変わっていく。それゆえサンドイッチ構造ではない。

8:1-21では、四千人の供食の話はひとまず一件落着しており、14節以降は、別な機会にパンを一つしか持ち合わせていない話と、五千人の供食と四千人の供食の経験の両方の想起であるので、これもいわゆるサンドイッチ構造とは言い難い。

(3)廣石望

廣石は、6:32~8:10も、二つの供食奇跡の間に、清浄規定論争を含むイエスの異邦人への働きに関する諸エピソードが配置されていると見ている。

廣石はさらに、14:3以降の受難物語全体が、イエスに従い仕える女性たちのエピソードに枠づけられて、男性の弟子たちがイエスを裏切り見捨てる話が置かれていると見る。
『新版 総説 新約聖書』p.75。

しかし、6:32~8:10も14:3~16:8も、具が分厚く何段もの層をなしているアメリカン・バーガーなので、いっぺんには口に入らず、崩して食べるしかない。

(4)結 論

結局、サンドイッチ構造としては、一般的に言われる5箇所:
  • 3:20-35(イエスの身内とベルゼブル論争)
  • 5:21-43(ヤイロの娘と長血の女)
  • 6:7-30(弟子の派遣と洗礼者ヨハネ殺害)
  • 11:12-21(いちじくの木と宮清め)
  • 14:1-11(イエス殺害計画とナルドの香油)
に、
  • 2:1-12(中風の人のいやしと律法学者の非難)
を加えた6箇所を挙げるのがよい。

4.サンドイッチの味わい方


「実際のサンドウィッチでも、挟んでいる両側のパンと、挟まれている具とは一体である。好き好きだから、バラバラにして食べてももちろん構わないが、製作者の意図に従えば、一体として食すのが前提である。パンと具の間に調和があったり、緊張があったりする。バラバラにして食べたときには味わえない味を、一体として食べて味わうのである。」
徳善義和「マルコによる福音書 五章二一~四三節」、
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、日本基督教団出版局、2010年、p.154。


5.「サンドイッチ」か「サンドウィッチ」か


わたしの周りにある辞書の見出しに載っているのは基本、「サンドイッチ」のようだ。

まあ、「マルチン・ルター」と「マルティン・ルター」との違いと同じようなものか。



鈴木崇巨『礼拝の祈り 手引きと例文』 [読書メモ]

鈴木崇巨『礼拝の祈り』.JPG鈴木崇巨(すずき・たかひろ)、『礼拝の祈り 手引きと例文』、教文館、2014年、164頁、1400円+税。

特 徴

  • 祈祷や祝祷の「祷」の字はすべて、異体字であるunicode:U+79B1(示偏に壽)が用いられている。
  • 著者は、礼拝の中で司式者が聖霊の導きのままに即席の祈りをすべきであるという伝統の中で育ってきた。(p.3)
  • しかし、礼拝をより豊かにするために、祈祷文の準備をしておくことも決して悪いことではないと思っている。(p.3)
  • 牧会祈祷の例文も招詞の聖句箇所も、教会暦にしたがって掲載されているが、この本での教会暦は、
    • 待降節
    • 降誕節
    • 顕現節
    • 受難節
    • 復活節
    • 聖霊降臨節
    • 王国節(8月最終主日から待降節前)
    という区分である。(p.24)
  • 「日本的な祈りからの決別」を訴えている。(p.10,13-14など)
  • イエス、キリスト、聖霊に「さま」を付ける場合と付けない場合とがある。慣れ親しんでいない表現には違和感を覚えるかもしれないが、「日本の教会の現状を考慮して、両方の表現を採用しました」とのこと(p.23)。

内 容

1.「礼拝の祈りについて」

礼拝での祈りについて、8~24ページで解説。

  • 「聖霊に向かって祈ることはあり得ますが、聖霊は祈りの対象というよりも、むしろ私たちが受けて満たされるべきお方、また私たちを祈らしめる神の力ととらえるべきだ」。(p.9)
  • 「日本語の特性から言って、「神がたたえられよ」というような表現はまれですから、日本人クリスチャンの祈りは賛美が少なくなり、感謝が多くなります」。(p.13)
  • 願いが祈りの中心になっていることについて、「日本人特有の神社的な「祈願」」が祈りになっているからだ。「キリスト教の祈りは、神中心の信仰ですから、「賛美」が中心を占めるべきです。」(p.13)
  • 近年は、讃美歌(当然祈りの一種)の終わりに「アーメン」をつけていない歌があったり・・・しています。これは現代の「不確かな時代」「世俗化の時代」の反映ではないかと思われます」。(p.16)

2.「牧会祈祷の例文」

  • 教会暦にしたがった53例
  • ひとつひとつが1見開きに収めてられている。
  • ここでの牧会祈祷とは、「プロテスタント教会の礼拝の中で牧師や長老、執事、役員、信徒などが、会衆を代表して祈る祈祷」のこと。
  • おおむね、賛美(感謝)、懺悔、信仰の表明、祈願の順に構成されている。(p.13)

3.「献金祈祷の例文」

  • 15例
  • 「献金祈祷は、その目的である献身の表明の祈りに絞った方が礼拝そのものを引き締まったものにしてくれる」。(p.134)

4.「招詞の聖句」

  • 教会暦の区分ごとに掲載。それぞれで聖書の順になっている
  • 聖書箇所だけでなくて、聖句の最初の部分とか途中の部分が記されていて、「ああ、この聖句ね」と分かるような配慮がなされている。

招詞と祝祷の理解について

  • ※祝祷を「祈りではない」という理解(p.16~19)はわたしと同じだが、では何であるかというと、「牧師から会衆に発せられる挨拶の言葉」とする点は、わたしと礼拝観を異にする。わたしは、会衆への神の祝福を牧師が取り次いで、会衆を世に送り出すのが祝祷だと理解している。
  • ※招詞についても同様で、著者は「司式者からの挨拶」と記し(p.19)、神が招いているのではなく、司式者が招いているとするが、これはわたしの理解と異なる。わたしは、神が礼拝に招いている言葉が招詞だと考えている。
  • 招詞は聖書朗読ではないので短い聖句がよいという指摘(p.20)は、同感である。なお、著者は触れていないが、説教と関連させて招詞の聖句が選択されることがよくあり、そのような方法は、その日の御言葉への招きのつもりだろうが、礼拝への招きにはなっていない。

関連のわたしのブログ記事

わたしが招詞のリストを洗い出したブログ記事「招詞のリスト4(総集編)」

そのうち、「神が、わたしたちを、礼拝に、呼び集め招く」意味合いがよりはっきりしていると感じられる30箇所ピックアップしたブログ記事「11の使える招詞」


ルターの評伝 [書籍紹介・リスト]

2017年は宗教改革500年ということで、マルティン・ルターの評伝を読んでおこう。

基本は、次の3つ。

徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』.JPG

1.徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』

  • 岩波新書1372、岩波書店、2012年、183頁、720円+税。
  • 現代の日本におけるルター研究の第一人者によるルターの評伝の決定版。
  • → このブログでの読書メモ

『ルター』清水書院人と思想.JPG

2.小牧治・泉谷周三郎、『ルター』

  • 人と思想9、清水書院、1970、214頁。
  • 徳善義和の岩波新書が出るまでは、日本人による簡便な評伝は、これしかなかったが、今でも重要。
  • 今は1000円+税。
  • 清水書院の人と思想シリーズは、緑っぽいカバーだったが、順次、赤い新装版になっている。)

徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』.JPG

3.徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』

  • 教文館、2007、336頁、2500円+税。
  • これは、徳善義和がラジオで語ったのをまとめた全12話。とても読みやすい。
  • 巻末にしっかりした略年譜、日本語で読めるルターの著作(第2版2012年では徳善の『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012)まで掲載)、詳細な索引もあり。

その他、最近の翻訳として次の3つがあるが、いずれも、わざわざ読むほどのものではない。

リュシアン・フェーヴル、『マルティン・ルター――ひとつの運命』

  • 濱崎史朗訳、キリスト新聞社、2001年(原著1988年版からの翻訳、初版は1928年)、356頁、2000円+税。
  • 歴史学の分野のアナール学派の祖と言われるフェーヴルによる、政治、経済、社会、文化といった歴史的状況全体の中で描かれたルター像のようだ。宗教改革者であるルターの評伝という関心からはちょっとずれるかも。

S. ポールソン『はじめてのルター』

  • 湯川郁子訳、教文館、2008年(原著2004年)、302+8頁、1900円+税。
  • 評伝というよりもっと、律法と福音とか、信仰義認とか、聖書解釈とか、悔悛の秘蹟の方向転換とか、自由意志の問題といった、ルターが取り組んだ神学的な展開を紹介したものだが、全体的取っつきにくい感じ。

T.カウフマン、『ルター――異端から改革者へ』

  • 宮谷尚実訳、教文館、2010年(原著2006年)、188頁、1600円+税。
  • 原著2006年初版からの翻訳だが、2010年に出た改訂版の修正・変更はすべて盛り込まれているとのこと。
  • ワイマール版ルター全集を縦横に引用しながら、ルターの生涯とその意味を解き明かしている。ルターの生涯についてすでによく親しんでいる教養人向けという感じなので、上記の岩波新書と清水書院でルターの生涯を頭に入れている人向け。分量は多くない。
  • 最初は入っていきにくいので、40ページのルターの生涯が始まるところから読む(80ページまで)。
  • 81ページ以降はルターの生涯のいくつかの面を取り上げる。多くの出版物を刊行したことについて、聖書翻訳への取り組み、学者としてのルターと説教者としてのルター、この世のこと(国家、他の学問、科学技術など)との関わり方、結婚の自由や自由の平等性に基づく全信徒祭司性、ユダヤ人観・トルコ人観など。

新約聖書の各書の学び [書籍紹介・リスト]

新約聖書を
・通読などで、聖書の順に読み進めていく上で、
・各書ごとに
・ポイントや特徴などを
・専門的にではないが、ある程度学問的に裏付けられた知識として、
・信徒と共に
学ぶための本。


なお、旧約聖書については、2015年10月19日のブログ記事「旧約聖書の各書の学び」


1.まず、小型の辞典で各書の名の項目を調べる。
基本の三つを教会員に勧める。
・秋山憲兄監修、『新共同訳聖書辞典』、新教出版社、2001年。

・木田献一、和田幹男監修、『小型版新共同訳聖書辞典』キリスト新聞社、1997年。

・木田献一、山内眞監修、『新共同訳聖書事典』、日本基督教団出版局、2004年。


2.次に、各書ごとの解説の付いた聖書を見る。
フランシスコ会訳の『聖書』

・いわゆる岩波訳の『新約聖書』

これらは教会の図書室に入れておく。

3.簡便な解説書を読む。
次の二つは信徒必携。
土戸清、『現代新約聖書入門』、日本基督教団出版局、1979年。
現在、オンデマンド出版

『はじめて読む人のための聖書ガイド』、日本聖書協会、2011年。
旧約から新約まで66書それぞれについて、特徴、執筆目的、背景、構成を、一書につき2~3ページで解説


以上は信徒向けにも勧められる。旧約聖書についてもだいたい同じ(土戸清のが浅見定雄のになるだけの違い)。


4.少し専門的だが簡潔に記されているもの

・原口尚彰、『新約聖書概説』、教文館、2004年。
一人の著者によるので観点がばらけず、ぐだぐだとした議論もないので牧師としても重宝する。

・『新共同訳新約聖書注解』(1、2)、日本基督教団出版局、1991年。
各書の緒論部分を見る。


5.専門的な辞事典
次の二つの辞典・事典は、新約各書が項目として挙げられている。
・東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、『新約聖書神学事典』、教文館、1991年。

・荒井献、石田友雄編、『旧約新約聖書大辞典』、教文館、1989年。


6.比較的各書ごとに記述された、一応学問的なもの。
新しいもの順。
・『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年。

・E.シュヴァイツァー(小原克博訳)、『新約聖書の神学的入門』(NTD補遺2)、日本基督教団出版局、1999年。

・W.マルクスセン(渡辺康麿訳)、『新約聖書緒論――緒論の諸問題への手引』、教文館、1984年。

・『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年。




聖書の植物事典・図鑑 [書籍紹介・リスト]

聖書に出て来る植物の事典や図鑑の紹介。

1.何よりも
廣部千恵子『新聖書植物図鑑』.JPG
● 廣部千恵子(横山匡:写真)、『新聖書植物図鑑』、教文館、1999年、166頁、B5判、上製、4500円+税。

写真はすべてカラー。

聖書に出て来る植物を網羅。

新共同訳聖書での訳語で見出し。

和名、学名、ヘブライ語やギリシア語表記も明記。必要に応じて英語名も。

20回に渡る現地調査をもとに解説。

野の花、茨とあざみ、樹木、水辺の植物、畑の産物、香料と野草、砂漠の植物の7つに分類して配列。

それゆえ「事典」ではなく「図鑑」だが、日本語索引、外国語索引、聖句索引と、索引も充実。

最低限、これだけでも、教会の図書室に入れておく。


廣部千恵子のホームページにも聖書の植物その他の情報があったのだが、清泉女子大学を退官されたためか、なくなってしまった。


2.副文献として
モルデンケ『聖書の植物事典』.JPG
● H.&A.モルデンケ(奥本裕昭編訳)、『聖書の植物事典』、八坂書房、2014年、260頁、A5判、上製、2800円+税。

原著は、Harold N. Moldenke & Alma L. Moldenke, "Plants of the Bible," 1952.

原著が取り上げている230種の内、同定が確実なものなどを採用した全81項目だが、一つの項目の中で関連する植物も扱っている。

各項目の説明文で、原著では研究者によって異なる見解も紹介されていたりするらしいが、翻訳では省略。

巻頭に、編訳者による「聖書植物の研究」として、聖書の成り立ち、聖地の概要、聖書植物研究小史が置かれている(pp.25-36)。

引用聖句は新改訳。

索引は和名索引のみ。

最初は、『聖書の植物』として植物と文化双書の一つとして1981年に出された(1991年に新装版)。今回、巻頭にカラー口絵(pp.9-24)を付し、項目に挙げている81種の写真を掲載、本文中の図版なども新しくされた。植物の科名も新分類体系に従って変更された。


3.読み物的なもの
中島路可『聖書の植物物語』.JPG
● 中島路可、『聖書の植物物語』、ミルトス、2000年、253頁、B6判、1600円+税。

著者(なかしま・るか)は、天然物有機化学を専門とする理学博士。聖書に登場する植物を五十音順で紹介。「アーモンド」から始まる全54項目には「クリスマス・ツリー」、「ナルドの香油」「没薬」も含む。植物索引、聖書索引あり。


伊藤宏一『聖書の植物散歩』.JPG
● 伊藤宏一、『聖書の植物散歩』、キリスト新聞社、2017年。4+211頁、A5判、1200円+税。

いとう・ひろし。日本国内で探して自分で撮影したカラー写真がほぼすべてに添えられている(「ナルド」だけはイラスト)。それゆえ、プロの写真ではないが、どこの植物園で撮影したか文章中に記されている。言及される聖書箇所を丹念に挙げ、ギリシア神話や江戸時代の『本草綱目啓蒙』などでの記述を紹介している。47項目。


4.一時代も二時代も前の文献

● 大槻虎男(善養寺康之、大槻虎男:写真)『聖書植物図鑑 カラー版』、教文館、1992年。

以前、教文館から出ていたものだが、上の廣部千恵子のものに取って代わった。


● ウイリアム・スミス編(藤本時男編訳)、『聖書植物大事典』、国書刊行会、2006年、526頁、A5判、9000円+税。

これは、1863年にイギリスで刊行されたSmith's Bible Dictionaryとして知られる"A Dictionary of the Bible"(3巻本、後に4巻本)から植物に関する項目を抜き出して翻訳したもの。原著は既にパブリックドメインになっている



5.その他
西南学院大学に「聖書植物園」あり。ホームページも充実。約100種の聖書関連の植物がキャンパス内のあちこちに植えられているようだ。



[追 記]
以上の記事を書いたのは2017.5.31であった。
後に、なんと同日付で、次の本が出ているのを知った。

西南学院大学聖書植物園書籍出版委員会編、『聖書植物園図鑑――聖書で出会った植物たちと、出会う。』、丸善プラネット、2017、119頁、1200円+税。

西南学院大学の聖書植物園は、1999年に開学50周年記念事業として開園された。この本は、ぴったり100種の聖書関連の植物を、1ページに一つずつフルカラーで紹介している。入手方法や栽培方法まで記されているようだ。
出版社のページ

(2017.11.5)




NGな教会の外看板 [伝道]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社、2013年)を参考に(というか、ほとんどそのまんま)、教会の外看板のNGをまとめた。必要に応じて、コメントあり。

わたしの見たところでは、教会の外看板には、
  固定的な内容を記した「案内看板」
と、
  頻繁に中身を張り替える「外掲示板」
とがある。

案内看板は、昔はペンキ、今はカッティングシートで作成されていて、集会案内と牧師名、電話番号などが記されているもの。

外掲示板は、前面がガラス窓になっていて、磁石か画びょうでプリントを張るタイプが普通か。


● NGな案内看板

・傷んだ看板に、はがれかけた文字
・ガムテープで修正、しかもそれがボロボロ
牧師名が前任者のまま
・現在とは時刻等が異なる集会案内
・電話番号に市外局番がない

※ガムテープは劣化が激しいので、ガムテでの修正は絶対やってはいけません。今は、カッティング文字で一文字単位で修正できるので、業者に頼みましょう。

※携帯電話やスマホで電話する人が多いので、掲示板に限らずチラシ等でも、市外局番は必須。


● NGな外掲示板
・ガラスケースの掲示板が、砂ぼこりだらけ
・とっくに終了したイベントのポスター
・文字や紙の色あせ
・日に焼けてぼろぼろの磁石 (2017.5.29追加)


● 共通のNG
・掲示板本体のサビや亀裂、蜘蛛の巣
・下が雑草だらけ
・字が小さすぎ
・誤字脱字
礼拝は誰でも参加OKということが書かれていない



もっと教会を行きやすくする本 [書籍紹介・リスト]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本』縮小.jpg八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』、キリスト新聞社、2013年。


帯が、
「雑誌「Ministry」の人気連載「新来者が行く」を単行本化!」
「初めて来た人には、こう見える。」
「全国100以上の教会を訪ねてきた”プロ”の目で総点検!」

教会へのアクセスから礼拝が終わるまでの全ての関門について、新来者がつまずく箇所を総点検し、新来者への配慮に満ちた教会を提言する、大変耳の痛い指摘に満ちた、全5章。「Ministry」連載記事を元に大幅に加筆。

2014年キリスト教本屋大賞受賞。

著者のサイト「くりホン キリスト教教派の森」は、情報満載!(たぶん昨年(2016年)にURLが変わった)




大まかな内容

1.教会に行くまで
 外掲示板
 会堂内外の立て看板
 地図に載っているか
 電話応対など

※電話のガチャ切りについて

「電話をガチャ切りされた教会にぜひ行きたいと思う人はあまりいないでしょう。・・・電話ガチャ切りが身についた牧師の説教は聞きたいとは思いません。」

ガチャ切りする牧師が多いとは、わたしも以前から感じている。電話ガチャ切りの牧師の説教は聞かなくていい。

ただ、フックを指で押して電話を切る作法を知らない人は、牧師以外にも多い。(押す時間が短すぎると「保留」になってしまうということもある。)

もっとも、今後、固定電話でも親機のコードレス化が進むのか分からないが、そうなれば、「切」ボタンを押して電話を切るようになっていくんじゃないかな。

それとも、「じゃあね」とか「失礼します」などのキーワードで受話器を耳から離すと自動的に電話が切れるというヤツが、固定電話にまで広まったりして。


2.初めて礼拝に出てみる
 入り口の場所のわかりやすさ
 入りやすさ
 遅れてきた新来者への配慮
 受付での応対と動線
 名札
 新来者カードと紹介タイム
 新来者に何を渡すか
 どこに着席するかなど

3.礼拝の難しさ
 礼拝についていけない(何を参照していいのかわからない、とっかえひっかえの頻度が多すぎ。)
 使徒信条や週報にふりがなを
 献金用封筒
 献金や聖餐式の説明を
 身体的な困難(室温、照明、椅子が硬い、音響など)
 平和の挨拶
 礼拝の終了時刻を明確になど

※この章の中で、「新来者にもやさしいOHP礼拝」は第2刷から「新来者にもやさしいハイテク礼拝」に変更されたらしい。

※とっかえひっかえの頻度について

確かに、多くの教会の礼拝では、見るべきものが多すぎる。讃美歌、交読詩編、聖書は旧約聖書何ページをお開きください、次は新約聖書何ページをお開きください、主の祈りのプリント、使徒信条のプリント、週報に記された報告をご覧くださいなどなど。

牧師であっても、初めての教会に行ったときは目が回る。

ということは、この「とっかえひっかえの頻度」問題は、かなり重大である。

もっとも、新来会者に対しては、初日からついて行こうとしなくてもいいという見解は目から鱗。



4.教会とインターネット
 基本情報をわかりやすく
 困ったサイト
 再訪したくないサイト
 音声配信・動画配信での注意
 弛緩した礼拝になっていないか

※基本情報とは、住所、アクセス方法、分かりやすい地図、礼拝時間、終了予定時刻も、電話番号かメールアドレス。


5.後奏
 お葬式のこと
 超教派の教会マップの事例
 名刺サイズの教会案内カードのあれこれなど。



結論としては、

すべての牧師と役員は一度は目を通すべき本
ただし、現実には5年や10年では変えられない点も多い。
少しずつできるところから変えていく。
日頃から、新来者への配慮を心に掛けていることが、何よりも大切。




これまでに私が書いたブログ記事:
「林家三平、八木谷涼子」(2012.01.23)
「『ミニストリー』の八木谷(1)」(2012.02.14)
「『ミニストリー』の八木谷(2)」(2012.02.15)
「『ミニストリー』の八木谷(3)」(2012.03.07)
「『ミニストリー』の八木谷(4)」(2012.05.09)
「『ミニストリー』の八木谷(5)」(2012.05.10)
「『ミニストリー』の八木谷(6)」(2012.05.11)
「『ミニストリー』の八木谷(7)」(2012.07.21)
「『ミニストリー』の八木谷(8)」(2012.07.22)




石井錦一『教会生活を始める』2 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。
前回のブログの続き。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。



奉仕について

1.不満や愚痴のあるところ、奉仕なし
奉仕というものは、自発性が基本であり、神のためにせずにはおられないという気持ちから出発する。その思いなしに奉仕をするときに、必ず不満や愚痴が出てくる。不満や愚痴のあるところに、まことの奉仕はない。(p.55)

2.まことに救われた者こそ
まことの救いを体験した者は、どうしても、主の十字架の道を共に歩まずにはおれなくなる。まことの奉仕の生き方は、何よりもまず、わたし自身のまことの救いから始まる。(p.145)

3.忙しい人こそ
様々な奉仕や伝道活動に参加をして、忠実な教会生活をしている人は、家でも仕事でもヒマのある人がしているかというと、逆である。職場や家庭で責任をもって活動している人が、教会の中でも重要な働きの担い手となる。忙しい生活であればあるほど、教会生活から充実した信仰が与えられる。(p.199)



信仰の継承

1.子どもも一緒に礼拝
日本の教会は説教中心の礼拝になっているため、説教を理解できる大人だけが礼拝に出て、説教が分からない子どもは説教を邪魔する存在と見なされてしまっている。しかし、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、御言葉語られている、その中に、分かっても分からなくても置かれるということ、子どもと共に礼拝の場にいるということが大事である。このことは、教会教育の大事さとは別のことである。(p.66-67)

2.信仰の継承と子育て
子どもにも信仰の自由があるという美名のもとに、結局何もしないことは、無責任である。(p.185)

子どもを育てるということは、親が親として、共に育っていくことだ。(p.195)

3.教育とは忍耐である
教育とは忍耐である。この忍耐には二つのことがある。一つは他人に対する忍耐、もう一つは、自分自身に対する忍耐である。この、自分自身に対する忍耐が、一番難しい。一人の人間が成長していく道筋は、長い時間を待つ心と忍耐、そして、自分自身に失望しない忍耐が大事である。神は、数千年の間、絶えず忍耐をして、旧約の民を教え、導き、ついに、イエス・キリストを遣わして、人間の救いを成就された。この忍耐と希望の神を、わたしたちは信じている。(p.209)

4.家族の救いを求める信仰
自分だけ信じていればという考え方は、間違っている。日本の教会がいつまでも、家庭から孤立して逃げ出してきた信仰者の集団であるかぎり、一代限りのキリスト者で終わり、教会の成長発展は望めない。(p.170)

5.家族の救いのために
たとえ見える現実は不可能であろうとも、神、もし許し給わば、必ず家族のすべての者が救われると確信しなければならない。信仰を趣味のように考えて、自分の都合で出たり出なかったりの教会生活をしていて、どうして家族を信仰に導けるか。(p.170-171)



その他

●まことの聖霊信仰
わたしたちがキリストを信じ、キリストに従い、教会の中に生きることは、聖霊の導きなしには起こりえない。そして聖霊は、御言葉の説教と聖礼典を通してわたしたちに力強く働いていてくださる。この聖霊を信じて生きることが、まことの聖霊信仰である。(p.31)

●霊の結ぶ実
霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22-23)は、わたしたちがキリスト者として成長、成熟することであり、キリストにしっかりとつながっているなら、キリストの命がわたしたちの中に流れて、わたしたちは霊的に成長して実を結ぶようになる(ヨハネ15:4)。キリスト者が結ぶ実は、わたしたちの隣人に福音を伝え、伝道することである。(p.232-233)

●信仰生活と教会の法
わたしたちは洗礼を受けたとき、「日本基督教団の教憲・教規に従い、・・・」という誓約をしてキリスト者となった。教会の法のもとに教会生活をすることを決意したのである。しかし実際には、教会の雰囲気とか、あの信徒・この牧師が気に入らないからしばらく礼拝を休むなどと、非常に感覚的、情緒的な教会生活を送っていないだろうか。
(p.115)

●出発点としての洗礼
洗礼を受けるとは、神に信頼すること、すべてをまかせることである。「神さま、あなたを信頼して洗礼を受けます。これから幾度つまずき倒れるかもしれませんが、何度でもあなたから洗礼を受けた出発点を忘れずに生きていきます。よろしくお願いします。」ということである。(p.119)

洗礼を受けてキリスト者となるということは、冠婚葬祭をすべてキリスト教ですると決意することだ。様々な抵抗や問題があるかもしれない。結果として、やむを得ずキリスト教でできないようなことがあっても、できるかぎり、このような生活のあり方をしていきたいという努力をすることが必要である。(p.130)

●すべての信仰者に求められている献身
献身は、神が求めておられる人間の生き方である。神を信じて生きることは、献身して生きることである。献身とは、あらためて何かをすることではなく、信仰に忠実に生きることである。(p.154-155)

●緊張味のある役員会を
役員会は、教会員の転出入や財政に関することの事務的なことを協議しているだけでは、緊張味を欠いている。こんなことでは、教会をして堅実ならしめていくことはむずかしい。(p.160)

●己の死を正しく見つめる
キリストの福音は、十字架の死より復活の生を、喜びをもって信じることである。キリスト者こそ、己の死を正しく見つめて、その死に至るまで本当に生きることを知っているものだ。(p.179)

●救いとは
救いは、苦痛や刑罰からわたしを解放することではない。神は、苦しみに耐えうる聖霊を与えることによって、わたしを救いたもうたのだ。(p.191)

●自分を愛するように
自分の心を見せられたら卒倒しかねないわたし自身だが、その自分自身を本当の意味で大切にできる人が、また、人を愛し、人を大切にしていくことができる。(p.193)

●この世のもの以上に
教会生活の中で、いつしか、はじめのころの喜びと感謝が消えていく。イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロと同じように信仰以前の自分の生活に帰っていくより他ないと思っているわたしたちに、復活の主は問いかけておられる。「あなたは、キリスト者の少ない社会の中で、未信者の家庭の中で、誘惑の多い学校の中で、そして、自分の趣味や、もっと自分がしなければならないと思っている勉強や仕事の中で、・・・それらのもの以上に、わたしを愛するか」と。(p.203)

●悔い改めとは
悔い改めとは、どれだけ悪いことをしたか、どんなでたらめな生活をしてきたかということではなく、生き方そのものの方向転換である。自分を絶対化していた者が、神を絶対とする生活をすることである。真の悔い改めのために、第一に罪の自覚をすること、第二に罪を捨てることである。自分の罪を告白し、赦しを求めるだけでなく、自分が今までよしとしてきた生き方を全部捨てるのである。間違った罪の生き方から、すべて離れて生きる決心である。イザヤ書55:7。(p.220-221)

神は、人が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。具体的には、日曜日ごとに神の家なる教会に帰ることである。真に悔い改め続ける者は、いつも教会に帰るべきところを見いだしている人である。(p.221)

●慎むべきときと、逃げ出してはならないとき
教会の中で問題を感じ批判をもったときに、安易に自分の正しさを主張することは慎まねばならない。しかし、福音の本質、聖書の基本的な原理がないがしろにされていく現実に対しては、わたしたちは逃げ出してはならない。(p.235)




石井錦一『教会生活を始める』1 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。


信仰の甘えを克服して成長する

1.主の鍛錬
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。」(ヘブライ12:5)
神は、父なる神であるゆえに、わたしたちを真実な信仰者とするために、訓練される。これまでの人生で一度もこのような痛みを経験したことがないならば、その人は本当に神の子であるかどうか疑わしい。(p.14-15)

2.凝り固まった自分が変えられる修養会
教会生活を続けていると、いつの間にか、自分の理性や生活の中でキリスト教や教会生活をとらえてしまい、一つの固定観念によって自分の信仰をよしとしてしまう。それが変えられるのが、修養会だ。
数日の修養会は、自分の信仰と生活が徹底的に変えられることを求める時だ。修養会に参加していながら、礼拝は月一度しか出られないとか、わたしはこの程度の信者なのだなどと、居直ったおしゃべりををしていては、何の信仰の前進も生まれない。(p.60)

3.自分の信仰に満足しない
もし、わたしたちがほんとうに生けるまことの神を信じるなら、自分をごまかして、まあこのくらいでいい、これでも一応信じているのだという自己満足に我慢ができなくなるはずだ。(p.139)

4.「隠れキリシタン」のような生活では信仰は滅びる
教会の中でどんなに熱心に活動し伝道していても、教会の外で「隠れキリシタン」のように生活していたら、なし崩し的に信仰は滅んでいく。自分の信仰をはっきり言い表して、信仰について恐れず語ることができる信徒でありたい。このように決心して信仰に生きるとき、必ずあなたのすべての問題に希望と喜びと感謝が与えられる。(p.159)

5.甘ったれた信仰
今のわたしたちの教会生活は、甘えの教会生活である。牧師には自分の都合と要求を満たしてくれることを期待し、信徒同士では、自分の信仰はだめだが、相手に対しては完全なキリスト者像を要求する。少しでも期待に反すれば、あれでも牧師か、これでもキリスト者かと言っている。 甘ったれた信仰、甘ったれた教会生活がある。信仰の訓練を受けるということが、今日のキリスト者に最も大切な事柄である。訓練はつらいし、きびしい。逃げ出したくなるが、その訓練に汗を流し、涙をぬぐってやっていくときに、本当の自立したキリスト者が成長してくる。(p.161)

6.自分自身を問われているか
説教を通して、御言葉に厳しくせめられ、自分自身を問われる時、それを一番強く共感し、自らの痛みとして受け取る人たちは、もっとも誠実に信仰に生きている人たちである。ほんとうに聞いて従わなければならない人たちは、しばしば、それは自分のことではないと考えている。(p.201)

7.厳しさを通しての成長
人が成長していくには、様々な蹉跌に会うし、挫折に出会う。蹉跌や挫折に会うごとに、今まで知らなかった自分に出会っていく。(p.217)

8.実際の生活の上で信じているか
理屈としては、主イエスはどんなことでも可能であるお方だと信じている(ヨハネ11:22)。しかし、実際の生活においては、その信仰とはまったくかけ離れた生活をしていないだろうか(ヨハネ11:39)。今ここにいる主イエスが復活であり、命である(ヨハネ11:25)。わたしたちは、マルタと共に、死人のよみがえりを現在のこととして示すイエスの前に立って生きる。(p.229)



祈りについて

1.己の無力さを知る
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)。このことが分からないと、祈り求めても、自分で少しはできるという気持ちになってしまう。しかし、どんなにすばらしい知恵も力も、神の前には無力である。わたしには何もないという無力を自覚したとき、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という偉大な全知全能の神のすばらしさを知る。(p.34-35)

2.できる限り大きな夢を持て
どうしたらすばらしい信仰生活ができるか、どうしたら自分の家庭をしあわせにできるか、どうしたら仕事や勉強をよりよくしていくことができるか、という夢を毎日、新しく持つ。すると、これを実現するための具体的な祈りをすることができるようになる。そのように、神のために、主イエスのために、教会のために、たくさんの大きな夢を持て。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・」(1ヨハネ5:14-15)。この御言葉に信頼して、できる限りの大きな夢を持つことが大切である。(p.36-37)

3.祈りのはじめに神を賛美する
神を礼拝し賛美するときに、中心は自分から神へと変えられていく。自分中心のままで神を賛美することはできない。神への賛美が祈りのはじめに出てくるとき、わたしたちはまことの祈りの場所に立っている。(p.38)

4.神にすべてを打ち明ける
神にすべてを打ち明けることは、祈りの中で一番つらく苦しいことである。しかし、まず自分の弱さと罪を率直に神に打ち明けるなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハ1:9)。それだから、神にすべてを打ち明けるために、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。・・・どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と祈るのである(詩編139:23-24)。(p.39-41)

5.聴かれない祈り
(内村鑑三「聞かれざる祈祷」(娘ルツ子の死の直後に語られたもの)から)
わたしたちは、ただひたすらに、神の御心に従順になり、イエス・キリストによってのみ、祈りのすべてが聴かれることを確信しなければならない。聞かれない祈りは、神が御自身へとわたしを引きつけようとして設けられた、恵みの手段である。祈りが聞かれるかどうかを神に対してためすのではなく、むしろ、恵みに与るため、恵みのもとにあることが明らかになるために、聞かれない祈りがある。霊自らが、わたしたちのために取りなしてくださる(ローマ8:26)。これを知っている者は、祈りが聴かれないことがあったとしても、ひたすら祈り求め続けることを忘れない。(p.126-127)



伝道について

1.証しの訓練
教会は、主を証しする訓練を教会員にしなければならない。そして、一人ひとりの信徒が証し人となって、他の人々をキリストのもとに導くのである。このことを忘れた教会は成長せず、この主の招きに答えない信徒は、自分ひとりの信仰にとどまってしまう。(p.49)

2.伝道的のための捧げ物
伝道のためには、時間も生活も、わたしたちが考えるよりはるかに多くのものを捧げなければならない。そうしなければ、一人の信仰者を得ることができない。(p.51)

3.伝道の困難
伝道には困難がある。仕事でも勉強でも、苦労しなくてできるものはない。まして、一人の人を導いて神を信じるに至らせるには、もっとも大きな苦労と困難がある。(p.162)

4.伝道的に生きる
伝道は、計算したり、損得を考えたりしたら何もできない。伝道するのだとかまえないで、日常的に伝道的に生きる生活をするほかない。自分の生きている姿勢を変えることだ。それは、いつも聖書をぶら下げ、人に会えばキリストの話をするということではない。いま、このときに、このわたしにだけできること、このわたしがしなければならない生き方を真実にし続けることによって、証しされるような伝道をすることはできないだろうか。(p.165)



続きは、「石井錦一『教会生活を始める』2」で。



エウセビオス『教会史』2 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)、講談社学術文庫、2010年。

前回のブログ「エウセビオス『教会史』1」で書誌的な面から紹介した。今回はわたしにとって関心のある箇所のメモ。

主な箇所
(特に、正典成立史への関心から)

● Ⅰ,3,8(p.43)
(キリストの三職)
「預言者たちの中にも聖油を受けて型においてキリストになった者がいる(列王紀上19:16参照)。この者たちはみな、全〔世界〕の唯一の大祭司、全被造物の唯一の王、父の預言者たちの中の唯一の主預言者である神的にして天のロゴス、真のキリストを予示するものにすぎない。」

「キリストの三職は、エウセビオス「教会史」第1巻第3章9節で言及されて以来、多くの人が論じて来た。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』、新教出版社、2007年、p.538。)


● Ⅱ,15,1~2(p.113-114)
(マルコ福音書の成立)
「神への敬虔の光は、ペテロの〔言葉〕を聞く者の精神〔の内奥〕をかくも〔深く〕照らした。そこで彼らは、神からの教えを一度聞くだけでは、あるいは書かれていないその教えだけでは満足せず、ペテロの同伴者だったマルコに――その福音書は現在残されている――、言葉を介して自分たちに伝えられたその教えの要約を文書にして残してくれるようあらゆる手だてを尽くして頼み、その嘆願をマルコが承知するまでやめなかった。・・・使徒〔ペテロ〕は、霊の啓示を受けて〔マルコの〕業を知るや、・・・その文書が教会で朗読されるのを承認したと言われる。クレメンスは『ヒュポテュポセイス』の第6巻でこの話を引き、そしてヒエラポリスびとの監督でパピアスという者も同じくそのことを証ししている。」

● Ⅱ,25,5~8(p.138-139)
(パウロとペトロの殉教)
「彼〔ネロ〕の時代にローマでパウロが斬首され、ペトロも同様に串刺しの刑にされたと言われる。・・・二人が同じときに殉教したことは、コリントびとの監督のディオニュシウスがローマ人に〔送った〕説教文書の次の一節によって知ることができる。・・・この二人は、・・・イタリアでも同じ所で一緒に教え、同じときに殉教した。」

● Ⅲ,2(p.143)
(第二代教皇リヌス)
「パウロとペテロの殉教の後、リヌスがローマ人の教会の監督職に任命された最初の者になった。」

「誰がペトロの後継者であるかについて、・・・或る者はリヌスだと言い、或る者はクレメンスだとする。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第4篇』、新教出版社、2009年、p.120。)


● Ⅲ,3,1~2(p.143)
(ペテロの第二の書簡)
「わたしたちは、第二の書簡と呼ばれるものが正典には含まれないと教えられてきた。だが、それは多くの人びとに有益であると思われたし、〔事実、〕他の文書とともに熱心に読まれてきた。」

(ペテロの他の文書)
「しかし、わたしたちは、彼の名を冠した『事蹟』や、ペテロによる福音書とされるもの、彼の作とされる『教え』、『黙示録』と呼ばれるものなどが公認された〔文書の〕中で伝えられてきたことを全く知らない。なぜならば、初代の教会著作家や現在の教会作家の中には、それらの証言を使用した者が一人もいないからである。」

● Ⅲ,23,1~2(p.176)
(使徒ヨハネ)
「この頃、イエスの愛した使徒であり福音伝道者だったヨハネは、アジアでまだ生きており、そこの教会を監督していた。・・・ヨハネがその頃まで生きていたことは、二人の証人の言葉によって十分に証明されるだろう。その二人とは他ならぬイレナイウスとアレクサンドリアびとのクレメンスである。」

● Ⅲ,24,2(p.181)
(ヨハネ福音書)
「『ヨハネによる福音書』を認められたものとしよう。なぜならば、それが天が下のすべての教会で読まれているからである。初代〔教会〕の人びとがそれを他の二つの〔福音書の〕後の四番目においたのは、それなりの理由があり、・・・。」

● Ⅲ,24,17(p.184)
(ヨハネの書簡)
「第一の書簡が、現在の人びとや初代〔教会〕の人びとによって、議論の余地なく彼の作とされているが、他の二つは否定されている。」

● Ⅲ,25,1~2(p.185)
(新約正典の文書と順序)
「四福音書の聖なる四つ組が最初におかれ、『使徒たちの事蹟』の文書がそれに続く。その後にパウロの書簡がおかれる。さらにその後に、ヨハネの第一〔の書簡〕と呼ばれるものが来るが、わたしたちは〔その次に〕ペテロの書簡を同じように認めねばならない。それらの後に、『ヨハネの黙示録』をおくのが望ましいと思われる・・・。」

● Ⅳ,25
(オリゲネスの旧約、新約正典の目録)
旧約正典目録はⅥ,25,2。新約正典のリストについてはⅥ,25,3~14。
中でも、ヘブライ書についての有名な「一体、この書簡の著者はだれか。真実を知るのは神である。」はⅥ,25,14。

● Ⅳ,26,14(p.272)
(サルディスの司教メリトの旧約正典目録)
エステル記が除外されていることで知られている。

メリトは、「どんな文書が旧約聖書に含まれていたかを知るためパレスチナに旅行し、そこで得た知識をもとにしてエステル記を聖書から除外した。」
(F.V.フィルソン(茂泉昭男訳)『聖書正典の研究――その歴史的・現代的理解』、日本基督教団出版局、1969年、p.7。)


● Ⅵ,14,1~2(p.42)
(クレメンスの正典への言及)
「彼は『ヒュポテュポセイス』の中で、すべての正典文書の内容を簡潔に語り、疑わしい〔文書〕、すなわち、ユダの書簡や他の公同書簡、バルナバ〔の書簡〕、ペテロの作とされる『黙示録』なども素通りしていない。彼は、『ヘブル人への手紙』について次のように言う。すなわち、それはパウロの作であるが、ヘブル人のためにヘブル語で書かれ、ルカが注意深く訳し、ギリシア人のために公刊した。そこで、翻訳の結果、この書簡と『事蹟』(『使徒行伝』)には〔文体上〕同一の色あいが認められる。」

● Ⅵ,25(p.58-64)
オリゲネスの旧約正典目録とヘブル人への書簡などの正典性についての発言。

● Ⅶ,18(p.127)
(長血をわずらった婦人の像)
「わたしたちが聖なる福音書〔の記述〕で知っている、長血をわずらい、わたしたちの救い主によってその苦しみから解き放たれた婦人はこの地の人(カエサリヤ・ピリピ)であったと言われる。そして、彼女の家はこの町にあるとされ、救い主が彼女にされたよき業のすばらしい記念碑がまだ残っている。・・・わたしたちはその市に滞在したときわたしたち自身の目でそれを見ている。」

● Ⅶ,25(p.140-148)
ディオニュシウスがネポスに反対してヨハネ黙示録の執筆者問題について論じた書からの紹介。

黙示録の正典性については、ディオニュシウスは、「わたしは多くの兄弟がこの小冊子を尊重しているので、それを斥けるような大胆なことはしません。ただし、わたしは自分の理解力の乏しさのためにそれに関しての考えを表明するには至らないことを認めます・・・。私は自分の理解できないものを価値のないものとして斥けたりはせず、・・・。」(Ⅶ,25,4-5)(p.140-141)

「わたしはこの二つ(『ヨハネによる福音書』と公同書簡)の性格や、言葉遣い、そしてその小冊子(『黙示録』)の一般的な傾向と呼ばれるものなどから、〔著者が〕同一人物ではない、と判断します。」(Ⅶ,25,8)(p.142)

● Ⅹ,5,2~14(p.289-292)
エウセビオスがラテン語からギリシア語に翻訳した「ミラノ勅令」


エウセビオス『教会史』1 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)(講談社学術文庫2024、2025)、講談社、2010年。
上:508頁、下:533頁。

元は、山本書店、1986~88年、三巻本。

文庫化にあたって、上に第1~5巻を収録、下に第6~10巻を収録と、二分冊になった。

また、人名や地名はギリシア語の原音表記から一般的な表記に変更、左註は本文中に小活字で組み込むなど。

巻はⅠ、Ⅱ、・・・、章は(1)、(2)、・・・、節は文中に〔一〕、〔二〕、・・・と表記。


巻末の解題、あとがきなど
上巻の巻末に、訳者による「エピレゴメナ〔解題〕」あり。エウセビオスの生涯についてと『教会史』について。エウセビオスのギリシア語のひどさについても。

エウセビオスが真正な資料とそうでない資料を吟味せずに引用しているとか、典拠としたものから自分に都合のよい結論を性急に引き出そうとしている点について、「エウセビオスは教会史のヘロドトスであって、ツキディデスではない。」(p.489)

下巻の巻末に、
  訳者あとがき
  学術文庫版へのあとがき
  ローマ帝国の皇帝一覧
  教会管区の一覧
  各管区の監督一覧
  殉教者の一覧
  異端の一覧
  引用されている文書の一覧
あり。どれも、『教会史』の中で言及されている箇所が明示されている。

さらに、聖書引用索引、事項索引、人名索引、地名索引あり。

「ヨセフスを読んだ者はまちがいなくエウセビオスに進み、そしてエウセビオスを読み終えた者は、ヨセフスを読み返すであろう。」(「訳者あとがき」p.414)


内容について

「わたしはこの物語の進行にしたがい、各時代の教会著作家のうちのだれが、〔真正性の〕疑わしい〔文書の〕中のどれを利用したか、また正典に含まれ〔教会で〕認められた文書について彼らが何と言っているか、そして、そのように扱われなかった〔文書〕についてどのように言っているかを、〔使徒の〕継承とともに示そうと思う。」
(Ⅲ,3,3)(p.143-144)

第6巻はオリゲネスの伝記的記述や著作とその時代の迫害・拷問・殉教、同時代の人物について。


続きは、「エウセビオス『教会史』2」で、わたしの関心のある箇所のメモ。



「折々のことば」653 [その他]

「折々のことば」653(鷲田清一、『朝日新聞』2017年1月31日)は、前田護郎訳「新約聖書」からローマ書の一節の紹介。
http://www.asahi.com/articles/ASK1W4CJXK1WUCVL00S.html

「折々のことば」には聖書中の箇所が記されていなかったが、8章24節後半~25節である。

新共同訳だと、
「見えるものに対する希望は希望ではありません。・・・わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」



前田護郎訳の新約

1.前田護郎責任編集、『世界の名著12 聖書』、中央公論社、1968年。
中沢洽樹による「旧約聖書」(部分訳)と前田護郎による「新約聖書」(部分訳)

中沢洽樹による部分訳「旧約聖書」は、創世記、出エジプト記、イザヤ書、伝道の書。
(ただし、創世記は20章、25:1~6、26:1~33などを欠く。
出エジプト記は3:18~22、4:8~9,21~23、35:1~40:33などを欠く。
イザヤ書は5:25を10:4と5の間へ移す他、4:2~6、5:26~30、7:18~25、8:19~9:1aなどを欠く。
伝道の書は7:1~14,19~22などを欠く。)

前田護郎による部分訳「新約聖書」は、ネストレ25版(1963年)を定本とし、
 マタイ福音書
 マルコ福音書
 ルカ福音書
 ヨハネ福音書
 ローマ書
 ピレモン書
の6書のみ。

後に、『世界の名著13 聖書』(中公バックス)、1978年。

1968年版で12巻目だったのが中公バックスで13巻目になった。それは、続編として出た「中国の科学」が中公バックス化に当たって12巻目に入れられたため。

2.新約の全訳が、中央公論社、1983年。

3.中央公論社版(1983年)が後に『前田護郎選集 別巻』として復刊。教文館、2009年。


前田護郎訳に対する批判

簡単に見つかるのは、
川村輝典「「聖書の翻訳」の検討 前田護郎編「聖書」(世界の名著12) 新約聖書(四福音書、ローマ、ピレモン)の批判」、日本キリスト教学会編『日本の神学』No.8、1969年、pp.20-27。


まあ今となっては、前田護郎訳は、特に参照すべき訳ではない。


関連する聖書箇所

ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

2コリント4:18「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。・・・」

ヨハネ20:29「・・・見ないのに信じる人は、幸いである。」
など。


星の王子さま

サン=テグジュペリの『星の王子さま』(Le Petit Prince)の中の有名な言葉は、
仏:Le plus important est invisible.
英:What is essencial is invisible to the eye.
内藤濯訳:「かんじんなことは、目には見えない。」
(『星の王子さま オリジナル版』、岩波書店、2000年、p.103。)


宮田光雄

「こころで見ることを知った≪子ども≫の目とは、信仰の目のことでしょう。神にたいする信頼において人間の不安や恐れに打ちかったもの、それゆえに、素直にこころの真実と優しさとにたいして感受性をもつ人は≪子ども≫です。自分の人生を父なる神の愛に全面的に委ねて生きることのできる人は≪神の子≫なのです。」

(宮田光雄、『大切なものは目に見えない――『星の王子さま』を読む』(岩波ブックレットNo.387)、岩波書店、1995年、p.48。)


ついでに、『星の王子さま』に出てくる砂漠や泉などについて、
「夜や砂漠、渇きや泉など『星の王子さま』に出てくるさまざまの象徴は、サン=テグジュペリの生い立ちに影響をあたえたキリスト教的背景なしには理解できないものです。この物語を語る作者の想像力は、これらの象徴の喚起する聖書的な追憶に深く養われたものだ、と言われています。」

(宮田光雄、同書、pp.35-36。)


ちなみにここで宮田は文献として、A.ドゥボォー(渡辺義愛訳)『サン=テグジュペリ』ヨルダン社、1973年を挙げている。


なお、宮田光雄の岩波ブックレットの中に、『新約聖書を読む 『放蕩息子』の精神史』(岩波ブックレットNo.337、岩波書店、1994年)がある。
これを紹介したわたしのブログは、「宮田光雄、放蕩息子の精神史」


イエスの十字架上の七言 [教会年間行事]

2016-02-26の記事「四旬節の定番」で、四旬節定番の本とCDを紹介した。

それと重複するが、今回は、主イエスの十字架上の七つの言葉に関する本とCDの紹介。

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1.
西谷幸介、『改訂新版 十字架の七つの言葉――キリスト教信仰入門』、ヨベル、2015年。
かつてはヨルダン社から出ていたものの新版。七つの言葉をそれぞれ学ぶのにおすすめ。

2.
加藤常昭、『黙想 十字架上の七つの言葉』、教文館、2006年。
学びのためと言うより、じっくり黙想している文章。

3.
W. H. ウィリモン(上田好春訳)、『十字架上の七つの言葉と出会う』、日本基督教団出版局、2017年。
十字架上の七つの言葉を一つひとつ取り上げた、アメリカでの説教なので、学びというより読み物的。

4.
CIMG1174 (640x530).jpgハイドン(Franz Joseph Haydn)「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」(Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze)作品51

最初のオーケストラ版、その後の弦楽四重奏版、ピアノ版、オラトリオ版と様々ある。

弦楽四重奏版は、教会で演奏される雰囲気があるので、礼拝前後のBGMに使ったり、黙想用にかけたりするのに適している。

弦楽四重奏版のCDは、ゲヴァントハウスとかクレーメルとかエマーソンとかいろいろあるが、

ベルギーのクイケン四重奏団(Kuijken Quartet)の演奏も有名で定評があり、モーツァルトの弦楽四重奏(弦楽五重奏では寺神戸亮が加わっている)などでもよく親しまれている。

この演奏は、1994年10月17~20日、オランダ、ハーレム、ドープスヘジンデ教会での録音。
このCD(COCO-70520)は、DENONのクレスト1000のシリーズのNo.109として2003年に発売されたもの(Limited Editionとはたぶんこのこと)。
これは、2001年にデンオンベストマスターズシリーズから発売された「COCQ-85128の原盤による再発売商品」と明記されている。
2010年に出たブルースペックCD版(COCO-73134)もたぶん同じ録音。

5.
シュッツ(Heinrich Schütz)のオラトリオ「十字架上のイエス・キリストの七つの言葉」(Die Sieben Worte Jesu Christi am Kreuz)SWV478もある。


よく知られている讃美歌 [音楽]

『讃美歌21』の中にある曲に限定して、

讃美歌であると認識されているかどうかは別にして、

教会に来たことのない人にも割と知られている(と思う)讃美歌10曲。

この曲は讃美歌になっているんです、とか、讃美歌なんですよ、というアプローチのために。


● 120 主はわが飼い主 The Lord's my shepherd
戦メリ

● 211 あさかぜ静かに吹きて Still, still with Thee
メンデルスゾーンの無言歌第2巻op.30の第3曲Consolation。

● 261 もろびとこぞりて Hark the glad sound! The Savior comes
クリスマス。ヘンデル。

● 264 きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht!
英語ではSilent night, holy night。クリスマス。最もおなじみ。

● 434 主よ、みもとに Nearer, my God, to Thee
タイタニック

● 451 くすしきみ恵み Amazing grace
『聖歌』では「おどろくばかりの」。本田美奈子.

● 471 勝利を望み We shall overcome
ニグロ・スピリチュアル、プロテストソング。

● 493 いつくしみ深き What a friend we have in Jesus
『讃美歌21』では「いつくしみ深い」。葬儀でも結婚式でも歌われる。
文部省唱歌「星の界」(ほしのよ)(杉谷代水作詞)、「星の世界」(川路柳虹作詞)。

● 504 主よ、御手もて Thy way, not mine, O Lord
ウェーバー、魔弾の射手

● 532 安かれ、わがこころよ Stille, mein Wille
英語ではBe still my soul。シベリウスのフィンランディア。


これらの中でもベスト3を選ぶとしたら、
  264 きよしこの夜
  451 くすしきみ恵み
  493 いつくしみ深き
だろう。




J-popのハレルヤ [音楽]

教会に来たことがない若い人たちに、

Jポップによく出てくる「ハレルヤ」ってどういう意味か知ってる?

・・・という展開に使うために、

タイトルに「ハレルヤ」が入っている最近のJ-Pop、10曲。
(主にYouTubeで「ハレルヤ」で検索)

『ごちそうさん』で毎日聞いてた年配の人もいる、ゆずの歌だけでいいのだが、せっかくなので調べてみた。

より以前の名曲には、黛ジュンの「恋のハレルヤ」(1967年、後に荻野目ちゃんがカバー、ちなみに荻野目洋子は柏市出身)とか泉谷しげる(1989年)とかある。



ゆず「雨のち晴レルヤ」 (NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』(2013年度下半期)の主題歌)

AAA (トリプル・エー)「ハレルヤ」 (エイベックスのダンス・ポップ、2006年)

GReeeeN「ハレルヤ!!!!」 (2009年のアルバム『塩、コショウ』に収録)

セカイイチとFoZZtone「ハレルヤ」 (『バンドマンは愛を叫ぶ』2014年に収録)

moumoon(ムームーン)「ハレルヤ」 (2011年のアルバムに収録)

普天間かおり「ハレルヤ」 (Leonard Cohenの'Hallelujah'を日本語でカバー!)

Bitter & Sweet「ハレルヤ」 (アイドルっぽい女性2人ユニット。2015/12/23発売のミニアルバム収録)

la la larks「ハレルヤ」  (2015年)

JOYSTICKK「ハレルヤ」 (ヒップホップ)

RAG FAIR「ハレルヤ」 (アカペラ男性グループ、2005年)

Mr.Children「Hallelujah」 (2000年のアルバム『Q』に収録)


ミスチルまで入れたら11曲になった。




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山内進編『正しい戦争という思想』 [読書メモ]

山内進編、『「正しい戦争」という思想』、勁草書房、2006年、14+270+32頁。

一橋大学21世紀COE「ヨーロッパの革新的研究拠点――衝突と和解」の研究成果。

これまで日本になかった、「正しい戦争」あるいは「正戦」に関する基本書としての位置づけで発行された。

第1部は歴史的視点から、ヨーロッパの内と外での正戦論を考察。
第2部は宗教的視点から、キリスト教とイスラム教の正しい戦争論を考察。
第3部は現代思想的論点から、ヨーロッパ(特にドイツ)とアメリカの知識人の議論と国際法理論とを検討。


目 次

はしがき――「正しい戦争」という思想 山内進

序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か 山内進

第1部 ヨーロッパの内外から見た「正しい戦争」

第1章 異教徒に権利はあるか――中世ヨーロッパの正戦論 山内進

第2章 ≪征服はなかった≫――インカ帝国征服戦争――正戦論に対する敗者の異議申し立て 染田秀藤

第2部 キリスト教とイスラームの「正しい戦争」

第3章 キリスト教の正戦論――アウグスティヌスの聖書解釈と自然法 荻野弘之

第4章 イスラームにおける正しい戦い――テロリズムはジハードか 奥田敦

第3部 現代の「正しい戦争」論――ヨーロッパとアメリカ

第5章 20世紀における正戦論の展開を考える――カール・シュミットからハーバーマスまで 権左武志

第6章 最近のアメリカが考える「正しい戦争」――保守とリベラル 阪口正二郎

第7章 国際法から見た「正しい戦争」とは何か――戦争規制の効力と限界 佐藤哲夫

結びにかえて――「正しい戦争」の道徳性 森村進


巻末に文献表(本文の章ごとには分けられていない)と事項索引、人名索引。



以下、「はしがき」と「序論」を読んでのメモ(p.41まで)。


はしがき

・ 戦争が良いか悪いかという判断とは別に、正しいか正しくないかという判断基準がありうる。

「正戦」(justum bellum, just war)は西洋精神史の中で培われてきた神学的・法学的概念である。これに対して、「正しい戦争」(justifiable warとかrighteous warとかgood war)はより一般的に、思想として戦争の是非を論じたり、他文明圏を含めて議論する場合の表現である。

・ 西洋は古代ギリシア・ローマ時代から正戦論を発達させてきたので、現代においても欧米的発想では正しい戦争と正戦が一体的に論じられることが多いが、これらは区別すべきである。正しい戦争がありうるとしても、それは西洋的正戦と同一のものとは限らない。



序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か

正しい戦争は、①神との関係で正当化される聖戦、②ヨーロッパ的観念である正戦、③国際法的な意味で合法とされる戦争に分けられる。

1.正しい戦争
・ 戦争に対する態度は、大きく①肯定派、②否定派、③条件派に分けられる。

・ 肯定派は戦争を賛美する立場、否定派はいかなる戦いも認めない立場である。「正しい戦争」論は、戦争は本来行うべきでないし、避けなければならないが、決して戦わないという選択は非現実的であるとして、条件付きで戦争を認める立場に含められる。

・ 「正しい戦争」の論点は、戦争を行うか行わないかではなく、それが正しい武力行使か否かである。そこでは、事情によっては許される戦争があるというという考えを前提としている。

・ 「正しい戦争」論は、自衛戦争すら認めないというわけではないが、すべての戦争を認めるのでもない。武力行使の必要な事態があることを認め、しかし、その原因と方法に「正しさ」という条件を付すものである。この点で、「正しい戦争」論は、時として「緩やかな平和主義」と重なり合う。


2.聖戦
・ James T. Johnson (1997) による分類:
①神の命令のもとに戦われる戦争――古代イスラエルやイスラームのジハード。これはまず武器への特殊な呼び掛けではなく、信仰への熱意に対する命令である。
②正しく権威づけられた神の代理人により、神のために戦われる戦争――十字軍、スンニ派の指導者の呼びかけによるものなど。
③神自身によって戦われる戦争――旧約聖書。
④内外の敵から宗教を守るための戦争――古代ユダヤ、ジハード。
⑤正しい宗教を宣伝するか神の権威と一致する社会秩序を打ち立てるために行われる戦争。
⑥宗教的一体性を強調し、かつ(あるいは)逸脱者を処罰するために行われる戦争――異端に対する戦い。ドナティウス派に対して、アルビ派・カタリ派への十字軍など。
⑦参加者自身が儀式的にかつ(あるいは)道徳的に「聖」的になる戦争。

・ 十字軍は正当な神の使い、代理人によって訴えられて遂行された聖戦(praelia sancta)である。宗教性を絶対的要因とする聖戦は、正戦そのものではない。

・ 20世紀後半から21世紀にかけて、再び十字軍的とも思える正戦論や聖戦的ジハードが語られることが多くなり始めたが、まず聖戦と正戦を論理的に区別しなければならない。


3.正戦――古代・中世
・ 正戦はあくまでヨーロッパ的な概念であり、聖戦が宗教的であることを決定的要素とするのに対し、正戦は、祖国の防衛など正当な理由を根拠とする戦争である。(ただし、正戦が根拠とする理由は多岐にわたり、そのなかに宗教的理由を含む場合もある。この場合は、聖戦は正戦の一部と言うことになる。)

・ ヨーロッパ中世においては、宗教的社会であるゆえに正戦と聖戦はしばしば重なり合っていた。しかし、近世初頭のヨーロッパの国際法学者たちによって、聖戦と正戦は切り分けられた。

・ アウグスティヌスは、「神の意思」「神の命令」を重視し、その意味で聖戦論を語ったが、言葉は正戦を用いた。ここから、ヨーロッパキリスト教世界に正戦という言葉が流布し、キリスト教といえども場合によっては武器をもって戦うことが許されるという思想が根付いた。

・ トマス・アクィナスの正戦論は、『神学大全』2.2.40「戦争について」に示されている。正戦であるには、①正当な権威、②正当な原因、③正当な意図の三つがすべて必要である。このいずれも、神の意思と関係づけられるわけではない。この点で、アクィナスの正当戦争論は後世に多大な影響を与えた。


※p.19「キケローの正戦論は世俗的なもので、キリスト教の教義とは何の関係もなかった」って、あったりまえじゃん。キケロは紀元前の人間だよ。


4.正戦――近世・近代
・ トマス・アクィナスは聖戦的要素を正戦論の基本的要素から排除し、異教徒との共存の可能性を認めていた。これは中世から近世に到る一つの重要な思想的系譜である。

・ グロティウス(「国際法の父」と呼ばれる)は、スペインの近世スコラ学者たちと同様に、宗教の違いを理由とした攻撃を認めず、自然法を論拠として、徹底して世俗的な正戦論を展開した。

・ ヨーロッパの拡大と理性的普遍主義の中で、人肉嗜食などの人道に反する行為に対して戦争を行使することは合法とされるという主張が出て来た。これは、自然法に基づく普遍的規範を根拠にした刑罰戦争であり、普遍的正義・権利のための正戦であった。

・ ヨーロッパが洗練された文明的存在として意識されるようになると、ヨーロッパは一個の共同体であって、諸国家はその一員と考えられるようになった。その中での主権国家間の争いは、バランス・オブ・パワーの回復の争いに過ぎず、相手もまた主権国家であると尊重されるとされた。

・ エメリッヒ・ヴァッテル(1714-67)は、主権国家は平等であるゆえ、一方が正しく他方が不正であると決めることはできないとした。したがってもはや正戦論ではない。すべての戦争は、主権国家がその最高の意思に基づいて推進するものであるから、主権国家が戦争をすると決断すれば、それを止めるものは何もない。しかし、ヨーロッパは諸国家間の諸関係と種々の利益とによって連結されている集団を形成しているので、主権国家は、相手の殲滅や吸収、奴隷化、植民地化を目指してはならないという一定のルールのもとに戦わなければならない。

・ 戦争は、単に紛争に決着を付ける最終手段に過ぎないものとなった。殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって戦争は終結する。戦争の正しさとは、フェアプレーを行うこととなった。そのルールを定める規則が戦時国際法である。


5.合法戦争
・ 二つのハーグ平和会議(1899、1907)で、戦時の国際法が成文化された。それは、文明国間の条約で定められたものだった。また、それは戦争の防止を図るものでも、戦争の正・不正を図るものでもなく、交戦方法や手段の規制、中立制度の確定を目指すものだった。

・ ヴォレンホーヴェンは、ヴァッテル以後の、主権国家による独断的な戦争の自由を批判して、そのような侵略行為は諸国家の連合軍で撃破すべきだとし、国際的な協力のもとで平和を構築することを主張した。これによって、「違法な戦争」という概念が国際法思想の中に取り入れられた。こうして、グロティウスの刑罰戦争論が再び浮上し、正戦論が復活した。

・ 現代における「正しい戦争」とは、個々の国家や集団が自らの判断で正当性を主張する聖戦や正戦ではなく、国際法に照らして正しいとされる戦争のことであり、国際社会が実定国際法または国際機関または国際世論によって合法とみなす戦争のことである。





以前のブログで関連の文献紹介記事:千葉眞編『平和の政治思想史』おうふう、2009年。




タグ:戦争と平和

辻学『偽名書簡の謎を解く』 [読書メモ]

辻学、『偽名書簡の謎を解く――パウロなき後のキリスト教』、新教出版社、2013年、233頁、2200円+税。

読書メモ、その他。

課題について
「第2パウロ書簡は、パウロの書き遺した内容をどう理解し、実践するべきなのかという課題の前に、パウロなき後のキリスト教徒たちが立たされた状況から生まれてきた文書である。・・・そうだとすれば、これは私たち現代のキリスト教徒が抱える課題と同じではないか。」
(pp.6-7)

先行研究について
「〔第2パウロ書簡は〕真正パウロ書簡と比較すると神学思想が希薄だとか、創造性に欠けるとか、パウロ思想をきちんと継承していないといった批判があちらこちらの注解書や神学書には見られる。」
として、土屋博『牧会書簡』(日本キリスト教団出版局、1990年)について、
「土屋(1990)の牧会書簡注解はその典型例である。」とし、具体例を挙げて「著者の主観が十分に反映していると思う」と記している。(pp.7-8)

内 容
第1章
「パウロ学派」なるものは想定できるのか?という問題について。

第2章
他人の名を語って書くことは古代においてもはばかれた。それで、不自然にならないように記述が工夫され、意図的に曖昧な状況設定になっている。このことを各書について示す。

そして、第3章~第6章で、各書ごとに、より詳細に、なぜ偽名だと判断できるのか、真筆らしく装っている工夫点や状況設定、執筆の意図や時期について論じる。

その際、第2パウロ書簡の取り上げる順序は、Ⅱテサ、コロサイ、エフェソ、牧会書簡の順になっている。コロサイを最初とする通例と異なりⅡテサから始めるのは、それが第2パウロ書簡の典型であり、また、もしかしたらⅡテサが第2パウロ書簡の中で最も早く作られた可能性も否定できないからとする。(p.63)

牧会書簡について、なぜ個人宛なのかについては、「もはや新たな教会宛書簡を造り出すには危険が大きすぎるので、個人宛書簡集が見つかったという体裁」がとられたとする。(p.189)

第7章は「まとめ」。
第2パウロ書簡は、パウロ思想の修正であり、しかし、これこそ正しいパウロ理解だと提示しようとしている。

では、新約正典として第2パウロ書簡をどう読むか? 福音書間に矛盾や対立があるのとおなじく、パウロ書簡についても、立体的に多様なパウロ理解を読み取ることができるはず。(p.206あたり)

書 評
・『本のひろば』(キリスト教文書センター、2013.12)に永田竹司による書評(pdf)あり。

・日本基督教学会編『日本の神学』53(2014)に前川裕による書評(pdf)あり。専門的な書評というよりも内容紹介的だが、このぐらいがわたしにはありがたい。

・『新約学研究』(43号、2015)に三浦望による書評あり。 日本新約学会のサイトには、現在第41号(2013年)までしか掲載されていない。



辻学による主な注解書や緒論
(広島大学の辻学研究室のサイトを参考)
1.『新共同訳 新約聖書略解』(日本基督教団出版局、1999年)の、ヤコブ、ⅠⅡペトロ、ユダを執筆している。

2.『ヤコブの手紙』(現代新約注解全書)、新教出版社、2002年。著者研究室のサイトによると、今となっては、修正を加えたい箇所もあるとのこと。

3.緒論的内容は、『新版 総説新約聖書』(日本基督教団出版局、2003年)で、牧会書簡とヤコブを担当している。

4.『福音と世界』2016年3月号から、Ⅰテモテの釈義の連載開始。

5.日本基督教団出版局から刊行予定の『NTJ ─新約聖書注解』のシリーズでは、ⅠⅡペトロとユダを担当。


というわけで、NTJでペトロとユダが出たら、あとは、『福音と世界』の連載がまとめられて牧会書簡の注解が出るのが期待される。


おまけ:辻学のブログあり




「クレタ人はいつも嘘つき」 [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」「新約でのギリシア文学の引用(2)」「新約でのギリシア文学の引用(3)」「新約でのギリシア文学の引用(4)」の続き。

テトス1:12に出てくる「クレタ人はいつもうそつき」について。

すでに、「新約でのギリシア文学の引用(2)」で、「ネストレ26版、27版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、ネストレ28版では記載がなくなった。」とか書いたが、もう少しいろいろ。


1.すでによく知られていた言葉

おそらく、テトス書が執筆された当時、すでに広く知られていた言葉。

古代においては、クレテ人に対してギリシア人が悪口を言うのは一種の慣例であった。
土屋博『牧会書簡』、日本基督教団出版局、1990年、p.142-3。


(1)カリマコス
紀元前3世紀のカリマコス(英:Callimachus)が作った賛歌のうちの"εἰς Δία"(『ゼウス賛歌』Hymn to Zeusとして知られている)の中に出てくる。

Perseus Digital LibraryのCallimachus, "Hymn to Zeus"の本文9行目。

Loeb Classical LibraryのCallimachus, Hymns 1. To Zeusは、ギリシア語と英訳対照(何回かアクセスしているとsubscribeしろと言われ、一部分しか見られなくなる)。

『世界名詩集大成1 古代・中世』平凡社, 1960に抄訳がある?

(2)タティアノス
タティアノス(羅:Tatianus)の"Oratio ad Graecos," 27.6

Internet ArchiveのOratio ad Graecos by Tatian, (Corpus Apologetarum Christianorum Saeculi Secundi, Vol.6, 1851) (当該箇所のあるページ)

(タティアノス「ギリシャ人に対する講話」(抄訳)『原典古代キリスト教思想史(1)初期キリスト教思想家』(教文館、1999)にこの部分が入っているかどうかは不明。)

(3)オリゲネス
オリゲネス(英:Origen)の『ケルソス駁論』(羅:Contra Celsum), 3.43

(出村みや子訳、『キリスト教教父著作集』第8,9巻(オリゲネス3,4)(教文館、1987、1997)に入っているか未確認)


(4)そのほか、Athenagoras, Suppl. 30など。


これらの情報は、例えば、I. Howard Marshall, "A Critical and Exegetical Commentary on The Pastoral Epistles," ICC, T&T Clark, 1999, p.199-201.


2.エピメニデスの作か?
(1)カリマコスがエピメニデスを引用?
『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989)のp.425「クレタ」の項には「エピメニデスの作としてカリマコスが引用している」と記されている。しかし、カリマコスの『讃歌』を見ると、そういうことではないようである。カリマコスはエピメニデスの言葉だと知っていて使ったかもしれないが、むしろ、当時よく知られていた言葉として引用した感じである。「エピメニデスが言ったごとく」などと、詩文の中でわざわざ言うことはしていない。

(2)アレクサンドリアのクレメンス
クレメンスは、『ストロマテイス』の第1巻14章(1.59.2)の中で、エピメニデスについて使徒パウロがテトス1:12で言及していると言っている。
英訳:
http://www.newadvent.org/fathers/02101.htm
or
英訳
http://www.earlychristianwritings.com/text/clement-stromata-book1.html

邦訳
秋山学、「アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』(『綴織』)第1巻─全訳」、筑波大学大学院人文社会系文芸・言語専攻紀要『文藝言語研究 言語篇』、vol.63(2013年3月)(pdf)。

(3)ヒエロニムス
ヒエロニムスのテトス書注解(Commentariorum in Epistolam ad Titum)でもエピメニデスに帰しているらしい。

ヒエロニムスのテトス書注解は、PL, 26.572f.とのこと。
http://www.documentacatholicaomnia.eu/02m/0347-0420,_Hieronymus,_Commentariorum_In_Epistolam_Beati_Pauli_Ad_Titum_Liber_Unus,_MLT.pdf
の572ページの途中からの707(PLが採用したVallarsiの版のページ数)の中らしい。ただでさえわからないラテン語なのに、文字がかすれてて余計わからない。

英訳があるようだ。Thomas P. Scheck, "St. Jerome's Commentaries on Galatians, Titus, and Philemon," University of Notre Dame Press, 2010.

(4)J.R. Harris
James Rendel Harris(1852-1941)は、9世紀のIsho'dadによるシリア語の使徒行伝注解を発見し、Expositor誌に発表した。

James Rendel Harris, "The Cretans Always Liars,"The Expositor," Series7, Vol.2, No.4, Oct. 1906, pp.305-317.

James Rendel Harris, "A Further Note on the Cretans,"The Expositor," Series7, Vol.3, No.4, Apr. 1907, pp.332-337.

James Rendel Harris, "St. Paul and Epimenides,"The Expositor," Series8, Vol.4, No.4, Oct. 1912, pp.348-353.

いちいち読んでいられないが、Isho'dadによる使徒行伝注解の中で、エピメニデスによるとされる4行の詩文の2行目に、「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」という言葉あるとされている。この詩文の4行目は「あなた〔ゼウス〕の中に、我らは生き、動き、存在する」となっている。これは使徒17:28に引用されている言葉。

しかし、I. H. Marshallによると、どうも怪しい(Isho'dad's accuracy has been questioned)ということであり、近年の多くの注解者も疑問を呈しているようだ。

まあ、一つの詩でもって、使徒17:28とテトス1:12という二つの出所不明箇所が解決するとは、なんともうますぎる話だったということか。


結 論

・ 前3世紀のカリマコスの作品の中に「クレタ人はいつも嘘つき」という言葉が出て来ることは確からしい。

・ それ以前では、アレクサンドリアのクレメンスらがエピメニデスとしているものの、エピメニデスが記したかどうかは確証がない。
(言語学的には、ギリシア語がアッティカ方言であってクレタのギリシア語になっていないから、エピメニデスではありえないという専門的な理由もあるようだ。)

・ そもそも、エピメニデスという人物が伝説的というか神話的な面がある。迷子の羊を探しに行って、洞穴で一休みしして昼寝をして、起きたら57年後だったとか。

・ そういうわけで、ネストレは28版から、この箇所の出所について何も記さなくなったのだろう(か?)。

・ 牧会書簡の緻密な注解書は、日本語ではまともなものはなく、I.H.MarshallによるICCがよい。

・ wikipediaは、日本語版も英語版もあてにしてはならない。



「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(4) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」「新約でのギリシア文学の引用(2)」、及び、「新約でのギリシア文学の引用(3)」の続き。

ジョン・ミルトン『アレオパジティカ』の中で、
「パウロは一人の悲劇詩人を含め、三人のギリシャ詩人の格言を聖書に入れるのは、神の冒涜ではないとしました。」
と記されている。
(原田純訳『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』、岩波書店、2008年、p.24。)

訳者の注によると、この3人とは、使徒17:28のアラトス、一コリント15:33のエウリピデス、テトス1:12のエピメニデスであるとあるが、これについて。


●使徒17:28
ここをアラトスとするのは、まったく問題ない。

●一コリント15:33
ここは、多くの注解書でメナンドロス(英語形はMenander)とされている。が、ネストレにはエウリピデスも記されているし、その他にもいろいろ出てくるらしい(たとえば、NIGTCのA. C. Thiseltonによる第一コリント注解のp.1254と、脚注249参照)。

そういうわけで、一コリント15:33をエウリピデスとするのは、間違いではない(メナンドロスも書いておいてほしいところだが)。

また、おそらくそういうわけで、岩波文庫の旧訳の上野・石田・吉田訳『言論の自由――アレオパヂティカ』(岩波文庫4943、1953年)の注は、「ユーリピディーズまたはメナンダーから」とされているのであろう(海外の『アレオパヂティカ』やその研究書を参考にしたのだろうが)。

●テトス1:12
ネストレ28版ではギリシア文学のどこに見られるかの記載がなくなったが、ネストレ26版、27版ではエピメニデスとされていた。
したがって、テトス1:12をエピメニデスとするのは間違っていない。

逆に、ネストレ28版しか見ていなかったら、パウロが引用したギリシア詩人の格言として、何でテトス1:12が挙げられるのか、もとになっているギリシア詩人は誰なのか、分からない。


というわけで、結論:
1.原田純訳『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫)のこの箇所の注は、まちがっているとは言えません。

2.ネストレは、古い版もちゃんととっておいて、参照しましょう。



なお、ミルトンの『アレオパジティカ』については、
 2015年5月13日のブログ記事
 2015年5月14日のブログ記事
を参照。


「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(3) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」、及び、「新約でのギリシア文学の引用(2)」の続き。

ネストレの巻末のLoci Citati vel Allegatiに記されている古代ギリシア文学からの引用箇所のうち、
ネストレ26版(27版も同一、28版ではなくなった)で出典不明とされている6箇所

  ヨハネ7:38
  一コリント9:10
  二コリント4:6
  エフェソ5:14
  一テモテ5:18
  ヤコブ4:5

についてのコメント。


● ヨハネ7:38
「・・・聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。ネストレ26~28版の本文も斜体にはしていない。

● 一コリント9:10
「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。」
ネストレ26~28版の本文は斜体にしているが、新共同訳では引用文になっていない。

● 二コリント4:6
「闇から光が輝き出よ」
ネストレ26~28版は斜体にしていない。直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。

● エフェソ5:14
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
ネストレ26~28版は、斜体にはしていないが、字下げして詩文にしている。
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。洗礼の際の賛歌か、他宗教やグノーシスの影響を受けた言葉が元にあるのか、諸説ある。

● 一テモテ5:18
前半の「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」は、申命記25:4。
後半の「働く者が報酬を受けるのは当然である」は、旧約には当てはまる箇所がないが、ルカ10:7(並行マタイ10:10)でいいんじゃないの?
すでに福音書が知られていたということか。

● ヤコブ4:5~6
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」
ネストレ26~28版は斜体にしていない。
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。
どこまでが引用句なのかについて諸説あり、「・・・妬むほどに深く愛している」までとするものもある(口語訳、フランシスコ会訳など)。


「新約でのギリシア文学の引用」
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