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並木浩一『「ヨブ記」論集成』 [書籍紹介・リスト]


並木浩一、『「ヨブ記」論集成』、教文館、2003年、373頁、3000円+税。

これに収録されている七つの論文・講演録についてのメモ。

「岩波訳」で「ヨブ記」を担当した並木浩一がその準備作業として発表した一連の論文をまとめた『「ヨブ記」論集成』は、現代の「ヨブ記」研究の最前線を示している。

山我哲雄「旧約聖書研究史・文献紹介」、『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社、2012年、p.333。

序――ヨブ記の射程はわれわれに及ぶ

「ヨブ記は独立したイデーたちがぶつかり合い、対話し、対立し、葛藤の中に置かれ、影響を与え合う「多声的」世界として構築されている。」

p.13

19:26新共同訳「身をもって」(口語訳「肉を離れて」)は、応報思想に立つ友人たちへの批判として直前に語った22節口語訳「肉をもって」の相互テクストとして見るならば、「ヨブはここでは敢えて「肉」へのこだわりを破棄」して、「肉を離れて神を見るであろう」と言い切っているのである。(p.14)

1.ヨブ記における否定

原形は日本聖書学研究所編『聖書における否定の問題』(聖書学論集4)(山本書店、1967年)所収。加筆訂正して、並木浩一『古代イスラエルとその周辺』(新地書房、1979年)所収。これをさらに全面的に改稿したもの。

そういった経緯が「追記」として記されている。

題名を付け替えるとすれば、「ヨブ記における二つの思考軸」がよいかと思うとのこと(p.57)。

「本論文の着眼点の一つは、ヨブ記における救済史の重視である」(p.59)。

2.文学としてのヨブ記

並木浩一『旧約聖書における文化と人間』(聖書の研究シリーズ55)(教文館、1999年)所収。

<付論>として「24章―28章の読み方」。

『「ヨブ記」論集成』に収録に当たっての「追記」あり。

ヨブと登場人物(神を含む)との対話は、終始かみ合わない。ヨブ記はドラマではない。むしろ、異なる思想を対位法的に展開する思想劇である(p.66)。

ヨブ記のメタファーとメトニミーについて。

「ヨブの言葉は一つ一つが思想行為であり、彼の決意表明であった。」

p.92

「人は物語なしでは生きられない。」

p.95

「ヨブ記は人間の自由のための書物である。」

p.96

28章について、

「学説史的には、私見はこの章(29節を除く)〔春原注:これは28節の間違いだろう〕に友人批判の機能を認めるヴェスターマンの考え方の変形である。わたしは相互テクスト的にこの章が自己批判の役割をも持つと考える。」

p.110

3.神義論とヨブ記

関根清三、鈴木佳秀、並木浩一、『旧約聖書と現代』(教文館、2000年)所収。

神義論とは何か(ライプニッツ、カント、古代オリエント、ギリシア世界、古代教会、宗教改革者、バルト)、関根正雄の神義論、神義論としてのヨブ記。

『「ヨブ記」論集成』に収録に当たっての「追記」あり。

4.ヨブ記における相互テクスト性――二章4節および四二章6節の理解を目指して

大野惠正、大島力、大住雄一、小友聡編、『果てしなき探求 旧約聖書の深みへ 左近淑記念論文集』(教文館、2002年)所収。

枠物語と詩文部分の関係、ジュリア・クリステヴァの相互テクスト性、2:4前半のサタンの「皮には皮を」、42:6の訳し方。

「追記」はない。

5.神から叱責されて賞賛されたヨブの正しさについて

小友聡他編、『テレビンの木陰で 旧約聖書の研究と実践 大串元亮教授記念献呈論文集』(教文館、2002年)所収。

ヨブは正しく語ったのか、新共同訳「正しく」の原文「ネコーナー」について、38:2「経綸」(エーツァー)と40:8「わが権利」(ミシュパーティー)、神のミシュパートと人のミシュパート。

「追記」はない。

「第五論文では、神は人間の生活空間には属していない異次元の世界に生きる野生動物の自由を語ることで、人間の解放についての使信を送っているとの理解がなされている。ヨブ記におけるユーモアの働きが重視されなければならない。ユーモアは異質な次元の事柄を包摂し、それぞれを生かす自由な空間を提供する高度な精神の働きである。ヨブ記にはこの精神が全面的に浸透している。」

p.59

6.ヨブ記とユダヤ民族の精神

日本聖書学研究所編『聖書学論集』35、2003年所収を大幅に改訂増補。

20世紀におけるユダヤ民族の象徴としてのヨブ、『ヨブの遺訓』でのヨブ記、ラビ伝承、サラディアのヨブ論、マイモニデスのヨブ論、トマス・アクィナスのヨブ論、盛期中世のヨブ論の特色として、摂理への注目、ヨブの異邦人性の消滅、エリフの価値の上昇の三つを指摘。

「追記」はない。

「今日のヨブ記理解に意味を持つ神学的姿勢は二つの聖書〔旧約と新約〕の内容的な直結を排して、ヨブ記特有の神理解を尊重し、その上で神に差し向かう人間の姿勢において新約聖書的な神理解のあり方を準備するものを見出すような間接的な結び付け方である。・・・カール・バルトが『教会教義学』の「和解論」第三部において展開したヨブ論は、神の自由なる恵みと行動に対する「真の証人」としての側面からヨブの苦悩・発言・神への信頼を見直したものであり、貴重な神学的貢献である。

p.240-241

7.マルガレーテ・ズースマンとヨブ記

書き下ろし。

ドイツのユダヤ人女性思想家・批評家・詩人、マルガレーテ・ズースマンの紹介とヨブ記論。

ヨブ記に関する他の記事:


並木浩一著作集のヨブ記論2 [読書メモ]


前回、『並木浩一著作集1』の中のヨブ記論を取り上げたので、今回は、並木浩一、『並木浩一著作集2 批評としての旧約学』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。

この中のヨブ記論は2つ。

「ヨブ記からの問いかけ」

  • pp.168-176。
  • 初出は『福音と世界』2011年8月号(特集「ヨブ記と神議論」)。
  • 『アエラ』2011.4.11号で、東日本大震災の惨状の写真とそれに付された文章が神の虚妄性を訴えるものであったことに対して、神が幻想に過ぎないのなら、幻想に過ぎない神が人を殺すのは論理矛盾ではないかと厳しく批判することから、震災後の状況の中でヨブ記に耳を傾ける。

「ヨブ詩人の後継者、マルガレーテ・ズースマン」

  • pp.177-182。
  • 初出は内村鑑三研究所『所報』第17号、2012年。

並木浩一『並木浩一著作集3 旧約聖書の水脈』(日本基督教団出版局、2014年)には、特別にヨブ記をテーマにした論文はない。目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。


並木浩一著作集のヨブ記論 [読書メモ]


並木浩一、『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』の目次

  • まえがき
  • 第一部 ヨブ記の全体像を求めて
  • 1 ヨブ記 緒論
  • 2 神の弁論は何を意味するか
  • 3 対話のドラマトゥルギー ヨブと神
  • 第二部 ヨブ記の主張と表現の特色
  • 1 ヨブ記のレトリック
  • 2 ヨブ記とヤハウィスト
  • 3 神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性
  • 第三部 ヨブ記と取り組んだ人々
  • 1 ヨブ記と内村鑑三
  • 付論 ヨブ記における契約──創造と契約
  • 2 ヨブ記と賀川豊彦

メ モ

ざっと目を通しただけだけど。

「まえがき」

「ヨブはなぜ、これほどまでに友人たちが説く従順の勧めを拒み続け、神に対する執拗な抗議を続けたのであろうか。それは神に対する信頼を失わなかったからではなかろうか。神への深い信頼なしに神の厳しい叱責を心からの感謝をもって聞くことができたであろうか。・・・神はヨブが「確かなこと」を語ったことを宣言した。それはヨブが神への信頼に基づいて、神の正義を問い続けたからにほかならない・・・。」

(p.9-10)

「「終曲」をヨブ記にとっては余計なものだと見なす判断は、今日なお根強いものがある。一般に納得されるようなかたちでこの問題に解答することはできないだろう。「終曲」をヨブ記に不可欠だと見なす根拠は、神学的な感覚に基づく判断である。それは残念ながら万人に共有されることはない。」

(p.11)

1.ヨブ記 緒論

  • 『旧約聖書ⅩⅡ ヨブ記 箴言』、岩波書店、2004年の巻末の「解説」。
  • 参考文献(日本における近年の文献からの抜粋)には、2011年のフランシスコ会訳聖書や佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館)まで記されている。

2.神の弁論は何を意味するか

  • 日本旧約学会『旧約学研究』No.1(2004年)所収の「神の弁論(ヨブ記38-41章)は何を意味するか」に、導入部分を加筆して収録(p.326の「初出一覧」では『旧約学論集』になっちゃってる)。
  • 「読みの多様性を紹介するものであり、「概説」(本書の第一論文「ヨブ記 緒論」のこと)を補完する意味を持つ」とのこと。(p.14)
  • C.G.ユング『ヨブへの答え』について、佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館、2011)の中で適切な紹介と批判がなされているとのこと。(p.86)
「ヨブ記は「応報思想」を批判したが、「応報原理」は正義の基本であるゆえに、これを否定してはいない。ただ、人は個人的、社会的な視野を越えて、創造世界における秩序と世界の隅々にまで行き届く神の配慮を視野に収める必要がある。個人的、共同体的な正義だけが正しさのすべてではない。ヨブ記は読者に、この世界における共同体的な正義の特殊な意味づけを知るようにと訴えている。
 創造世界はさまざまな悪を含みつつ生の秩序を維持する。・・・人間も神の保護なしには生を維持できないが、・・・最初の夫婦がエデンの園を出て以来、人類は自己の生を配慮しなければならないという運命を背負った。人は・・・社会を形成し、自律的に秩序を形成しなければ生存できない。・・・モラルは社会生活を維持するための人間の条件であり、・・・社会生活の悲惨と不正義を防ぐのは人間の責任である。この責任を担って生きることが神と人間との関わりの基盤である。」

(p.85-86)

3.対話のドラマトゥルギー ヨブと神

  • 旧約聖書翻訳委員会編、『聖書を読む 旧約篇』、岩波書店、2005年に所収。
  • 「付記」あり。「ヨブ記」を理解する基礎としての「相互テクスト性」については『「ヨブ記」論集成』の中の「ヨブ記における相互テクスト性・・・」と「神義論とヨブ記」を参照せよとのこと。
  • 42:2の動詞を子音字本文に従って「あなたは知っている」と訳す試みは、ジャンセン(飯謙訳)『現代聖書注解 ヨブ記』(日本基督教団出版局、1989)(原著1985年)によってすでになされていたことを記している。

4.ヨブ記のレトリック

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。アンティフラシスについての部分は、『旧約学研究』No.9(2012年)、『旧約聖書と説教』(日本基督教団出版局、2013年)収録のものから専門的な叙述を省き、説明文には細かく手を入れたとのこと。

5.ヨブ記とヤハウィスト

  • 『国際基督教大学学報Ⅳ-B 人文科学研究 キリスト教と文化』No.42、2011年に所収。
  • 山我哲雄『海の奇蹟 モーセ五書論集』(聖公会出版、2012年)について、第1章「モーセ五書の成立」は「従来の資料説を要領よく紹介し、第11章でモーセ五書の最終形態を論じている。・・・五書に関心を持つ者には必読の書である。」(p.205)。
「ヤハウィストは・・・人類全体を視野に入れて、人類と民族を導く神の恵みを叙述した。」一方、ヨブ記は「一人の例外的に正しい人間に下る未曾有の苦難を取り上げ・・・、神の正義と被造世界の統治の問題を論ずる。両者はその視角と内容においてまったく違う。それにもかかわらず、・・・両者における思考方法と人間らしい生の条件の設定には、著しい構造的な類似性が認められる。」

(P.203)

6.神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性

  • 『回顧即感謝 清水護先生百歳記念論文集』、2008年に所収。
  • 「付記」あり。清水護の簡単な紹介。

7.ヨブ記と内村鑑三

  • 内村鑑三研究所『所報』No.17、2012年に所収。

付論 ヨブ記における契約――創造と救済

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。

8.ヨブ記と賀川豊彦


左近淑『詩編を読む』 [読書メモ]


左近淑『詩編を読む』(旧約聖書3)(筑摩書房、1990年)の紹介とメモ。

詩編の類型について知る入門としてとてもよい。もっとはやくこれを読んでいればよかった。

目 次

※まえがきもあとがきもない。

  • 序 説 詩編をどう読み解くか
  • 第一章 嘆きの詩編
  • 第二章 感謝 報告的ほめ歌
  • 第三章 賛美 描写的ほめ歌
  • 第四章 典礼歌 王の歌とシオンの歌
  • 第五章 知恵の詩編とトーラー詩編

「序説」

「序説 詩編をどう読み解くか」は、マソラと七十人訳の番号の異同、五巻の分類、表題、小歌集の存在と編集、詩的技巧などを取り上げた、詩編全体についての概説。

詩編の分類について

  • 「深い淵の底」という極と主なる神というもう一方の極との間に置かれて、そこから生まれる祈りを綴ったのが詩編だ。
  • 人間の宗教的生の基本的な在り方に即応して、「懇願」から「ほめたたえ」への動的な動きがある。
  • 人間の懇願に発する詩は「嘆きの歌」と呼ばれ、その懇願が聞き届けられたなら、「ほめたたえ」という宗教的生の基本的な在り方の他方の極へと移行する。
  • 「ほめたたえ」には、「主は・・・してくださった」という感謝の報告と、「主は・・・(のような)かたである」という賛美を綴った描写とがある。

第1章「嘆きの詩編」

(1)分 類

  • 嘆きの詩編は、個人の嘆きと集団の嘆きとに分けられるが、その区別は明確ではなく、ほとんど多くの場合に相互流動的である。
  • 集団の嘆き 12、(14≒53)、25、44,(52)、58、60,74,79,80,83,85,89,90,94,123,126,129,137。
  • 個人の嘆き 3、4,5,6,7,9-10,(12)、13、(14)、17、22,25,26,27:7-14、28、31,35,36,38,39,41,42-43,51、(52)、(53)、54、55,56,57,59,61,63,64,69,70,71,77,86,88,102,109、120,130,139,140,141,142,143。
  • これらのうち、病の中での嘆き:6、13,28,35,38,39,41,88。(p.55)
  • 伝統的に悔い改めの詩編と言われているもの:6、32、38、51、102、130、143。これらのうち罪と赦しに集中しているのは51と130。(p.55、86)

(2)基本構造

  • 1(イ)神への呼びかけと導入の訴え
  • 1(ロ)過去の救いの御業の回顧
  • 2.嘆き
  • 3.信頼の告白
  • 4.訴え
  • 5.神の同情・行動を促す動機づけ
  • 6.祈りが聞かれたとの確信とほめたたえ(の誓い)

(3)敵を呪う意味

なぜ詩編では、激しい言葉で敵を呪い、自己の潔白を主張するのか。

それは、旧約の人々が、正義が踏みにじられ、正しい者が不利益を被り、社会的弱者が抑圧を受けているといった、現実の世界の矛盾の中に生きているからであり、義が確立されて正しい支配が成り立つことを激しく渇望しているからである。詩編ではしばしば敵への報復が訴えられるが、ヘブライ語の報復とは、崩れているバランスが正されて、正しい統治が回復することである。

(現実の支配者が神の意志に反しているとき、預言者は、この世が真の支配者によって統治されていることを宣言する。)

神は、御自身が義なる方であることを明らかにされる。神によって世に正義が貫徹される。そのためになされた神の御業が、キリストによる人間の救いである。キリストにおいて義が達成されている。

(4)信頼の詩編

  • 信頼の詩編(嘆きに由来する) (4)、11、16,23,27:1-6、62、63,91,121,125,131。
  • 信頼とは、「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」(詩編91:6)の中でも勇敢に堂々となされる生き方。

第2章「感謝 報告的ほめ歌」

(1)分 類

  • 感謝の歌は個人の感謝の歌と集団の感謝の歌に分類される。
  • 個人の感謝の歌 18, (21), 22:22ロ~32, 30, 32, 34, 40:1~12, 66:13~20, 103, 116, 118, 138. (このうち、戦いと勝利:18, 20, 118。病気:30, 116 人生の悩み:34, 40:1~12, 138, 22:22ロ~32, 32 救済史に関わるもの:66:13~20)
  • 集団の感謝の歌 65, 67, 68, 75, 107, 124, 129, 136. (このうち、勝利の歌:68, 124, 129)
  • 個人の感謝の歌も、人々が集まっている礼拝の中などを想定していることが多いので、個人の感謝の歌と集団の感謝の歌とを厳密に分類することは難しい。

(2)特 徴

  • 神がわたし(たち)を救ってくださったという報告的一文が、感謝を込めて告白される。
  • 歎きの歌と構造上、対応・対照関係がある。
  • 神の救いの御業に対して、「ほめたたえの誓い」がなされる。「満願の献げ物を主にささげよう」(詩編116)、「主の御業を語り伝えよう」(詩118)、「とこしえにあなたに感謝をささげます」(30:13)
  • 歎きの歌における現在の苦しみの歎きとそこからの神への救いの訴えと対照的に、感謝の歌においては、過去の苦しみの回顧とそれからの解放の報告がある。
  • 特に個人の感謝の歌の大きな特色として、死の力からの解放を報告する詩編がある。死の支配に対して神が立ち上がり、迫り、屈服させ、撃ち、助け出される。

第3章「賛美 描写的ほめ歌」

(1)特 徴

  • 「ほめたたえ」で始まる。
  • (あなたがたは)~せよ(喜び踊れ、喜びの声を上げよなど)という二人称複数命令形の場合と、「わたしは~します」(感謝をささげます、御名をほめ歌うなど)という一人称単数未完了形の場合(104、146など)とがある。二人称複数命令形の場合が圧倒的に多い。
  • 「ほめたたえ」で始まる導入部の後、賛美の理由を叙述する部分があり、神のほめたたえへの新たな勧めで結ばれる(145編など)。
  • 賛美の理由としては、創造主の御業やその偉大さをたたえるもの(いと高き神をたたえる)と、歴史の主あるいは救済の神のイスラエルに対する慈しみやまことをたたえるもの(低きに降りたもう神をたたえる)とがある。
  • 旧約聖書では、いと高き神が歴史の中に降ってくださったというダイナミックな神の業に対して、民の側もさまざまな楽器を用いたり、踊りや手を打ち鳴らすなどによって集団で喜びを表現して賛美がなされる。

(2)分 類

  • 導入と結びで同じ語句が繰り返されて囲い込み構造になっているもの:8、104、113、135、146~150。
  • 96、98、100などは特別な構造になっている。
  • 祝福や祈願で終わるもの:29、33、(95)、105、(111)、134。

(3)自然と救済の御業をたたえる

  • 「賛歌の究極の主題は、高きにいます偉大な神と、低きにくだる慈しみの神の結合にある。」(p.164)
  • 自然における神の御業をたたえる詩:8、19:2-7、29、104。
  • 自然における創造の御業と歴史における救済の御業を結合した詩:33、66:1-12、89:6-19、95、96、100、135、145、146、147、148など。
  • 歴史における救済の御業をたたえる詩:105、111、114、117、135、149など。114編において、自然は、救いの出来事の前に屈服している。
  • 「歴史の詩編」:78、105、106、114、135、136など。
  • ヤハウェの即位式の詩編(終末論的詩編) 47、93、(95)、96、97、98、99。「主こそ王」「偉大なる主」「王なる主」などの言葉で、世界と諸国民、さらに自然まで含めて、被造世界全体を統治されている王なる主をたたえている。(これらのうち、47、97、99はイスラエルの民と聖なる山シオンの関係に言及している。)

第4章「典礼歌 王の歌とシオンの歌」

  • 典礼歌は、人称の交替や託宣の引用、問答形式などによって、明らかに礼拝における劇的展開や役割の変化が想定できる詩編。
  • 15(聖所入場)、24(聖所入場)、50(契約更新)、78(ダビデ契約)、81(契約更新)、89(ダビデ契約)、132(神の箱搬入を伴う儀礼)。
  • 「王の詩編」:2(王の即位式)、18,20,21,45(王の婚礼),72,101,110(王の即位式),144。
  • 「シオンの歌」: 46、48,76,84,87,122。
  • 「巡礼歌」(「都に上る歌」という表題が付いている):120~134。

第5章「知恵の詩編とトーラー詩編」

  • 知恵の詩編 1、37,49,73,112,127,128,133。 (ただし、本文中で知恵の詩編として例示されているのは、37、39,49,73,127。)
  • トーラー詩編 1、19:8-15,119。

Notes

構造の詳しい解説

  • 23編の構造の解説が、p.96~103にある。
  • 42~43編の構造の解説が、p.116~122にある。
  • 33編の構造の解説が、p.146~148にある。
  • 29編の構造の解説が、p.152~157にある。(29:1-2と96:7-9aの類似と比較、「七つの雷の賛歌」、「洪水」(マッブール)の語は創世6-9章とこの詩のみ。)
  • 100編の構造の解説が、p.158~159にある。
  • 135編の構造の解説が、p.162~163にある。
  • 113編の構造の解説が、p.164~168にある。
  • 96編の構造の解説が、p.170~175にある。(「新しい歌」とは最後の歌であり、人生と歴史の最後に、最も新しい完成があるという希望の歌である。)
  • 24編の構造の解説が、p.179~182にある。
  • 132編の構造の解説が、p.184~188にある。

その他

  • p.86の「詩編五十一は夏目漱石の『こころ』に引用されて有名になりました」とあるのは、『三四郎』の間違い。なお、漱石はこれを聖公会祈祷書から採ったとみられる(『文語訳新約聖書 詩篇付』岩波文庫の鈴木範久による解説)
  • 「裁く」という言葉は「治める」という意味を持ち、主による統治がなされている裁きは、本質的に喜びである(詩編97:8)。(p.174)

詩編に関する他の記事:


CGNTV「みことばに聞く」1~28 [説教]



CGNTV「みことばに聞く」千葉に掲載されているミニ説教というかショートメッセージというか。

10分程度。

これまでの全28回分のまとめ。


No.28 2019.9.4 [540]

ヨハネ21:1~14 「復活の主との出会い」



No.27 2019.5.26 [534]

ヨナ書1:13~16 「主に信頼する信仰」



No.26 2019.5.16 [527]

サムエル記上1:1~28 「主のご計画と私たちの人生」



No.25 2018.1.2 [495]

ヨハネの黙示録22:20 「アーメンの意味」



No.24 2017.9.20 [486]

ヨハネの手紙一4:9~10 「神の愛によって生かされている」



No.23 2017.9.8  [478]

ヨハネ20:27~29 「見ないで信じる」

主イエスの復活



No.22 2016.6.2 [402]

ヨハネ20:16~17 「わたしにすがりつくのはよしなさい。」

主イエスの復活



No.21 2016.5.19 [392]

マタイ27:46、マルコ15:34 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったですか」



No.20 2016.5.5 [382]

マタイ6:10a 「御国が来ますように」

神の国、御国、神の御支配



No.19 2015.9.30 [356]

2テモテ1:9前半 「わたしの人生は神の御計画の中に置かれている」



No.18 2015.9.18 [348]

エフェソ1:4 「神の愛」



No.17 2015.5.27 [336]

2テモテ4:18、詩編100:3、1テサ2:12後半、詩編102:19「神を賛美するために造られた」



No.16 2015.5.15 [328]

創世記1:1、ローマ11:36 「神によって造られ、保たれ、神に向かう。」



No.15 2015.1.29 [317]

エフェソ1:3 「祝福に生きる民」



No.14 2015.1.17 [309]

2コリント4:14 「キリスト教は先祖を大切にしない?」



No.13 2015.1.7 [301]

詩編118:22、使徒4:11「隅の親石」っていったい何?



No.12 2014.9.26 [293]

1コリント1:26~30 「ありのままで大合唱」

映画の「アナと雪の女王」では、映画館で主題歌を大合唱するそうですが・・・



No.11 2014.9.13 [284]

使徒9:4~6、9、15、18~20 「パウロの回心と召命」



No.10 2014.9.3 [276]

マルコ10:13~16 「主の憐れみ深さに覆われている」

1歳の赤ちゃんの葬儀を行って。



No.9 2014.5.29 [272]

使徒4:2~3、5:17~18、5:33、7:52、7:57~60、ルカ23:34、46「ステファノの殉教」



No.8 2014.5.17 [264]

ルカによる福音書23:33、39~42「十字架の三人の中央におられる主イエス」

主イエスが他の犯罪人たちと共に、犯罪人たちの真ん中で十字架に架けられた意味は?



No.7 2014.5.9 [258]

イザヤ書2:4、ヨエル書4:10前半「剣を鋤に、槍を鎌に」

でも、ヨエル書はそれをひっくり返して「鋤を剣に、鎌を槍に」と言う。なぜか?



No.6 2013.9.6 [213]

マタイによる福音書28:1~8「言葉の力によって走り出せ」

主イエスの復活



No.5 2013.5.25 [204]

マタイによる福音書7:7より「探しなさい。そうすれば見つかる」



No.4 2013.5.17 [198]

創世記26:34~35、27:46~28:4、28:10~19「天と地を結ぶ神の祝福があなたにも」

ヤコブの旅路と夢



No.3 2012.9.27 [167]

1ヨハネ1:3後半から 「三位一体の神との交わり」



No.2 2012.9.18 [160]

1ヨハネ1:9 「生き方がブレてもいい」



No.1 2012.9.7 [153]

マタイ4:1~11 「サタンを退かれた主イエスにつながって」






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積ん読 バックナンバー2 [まとめ]


読んでいるかどうかは別にして、机の上に積まれている本10冊。2016年春~2018秋 (6回分)

→積ん読バックナンバー1(2010年秋~2015秋)(9回分)

2016.4.1

  • ◆リンドバーグ『キリスト教史』(コンパクトながら表面的でない記述)
  • ◆半田元夫、今野國雄『キリスト教史Ⅰ』(山川の世界宗教史叢書も古くなったが良書)
  • ◆山我哲雄『キリスト教入門』(ジュニア新書としては高度かも)
  • ◆久松英二『ギリシア正教 東方の智』(講談社選書メチエ)
  • ◆及川信『オーソドックスとカトリック』(とても読みやすい比較)
  • ◆コーイマン『ルターと聖書』(古い本だ)
  • ◆カウフマン『ルター:異端から改革者へ』(教養人向け。ワイマール版を縦横に引用)
  • ◆ポールソン『はじめてのルター』(イラストははたして日本人にはどうか?)
  • ◆清水書院人と思想『ルター』(ルター評伝の定番)
  • ◆藤本満『聖書信仰』(おもしろかった)

2016.10.3

  • ◆石井錦一『教会生活を始める』(甘えた信仰を見直す)
  • ◆淵田美津雄『真珠湾からゴルゴタへ』(今でも手に入る小冊子)
  • ◆石川明人『キリスト教と戦争』(平和を祈りつつ戦う人間の愚かさ)
  • ◆山内進『「正しい戦争」という思想』(キケロからカール・シュミット、ハーバーマス)
  • ◆エウセビオス『教会史』(講談社学術文庫で上下2巻)
  • ◆近藤勝彦『いま、震災・原発・憲法を考える』(キリスト教信仰が時代の大問題をどう捉えるか)
  • ◆徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』(とても読みやすい良質の評伝)
  • ◆大嶋重徳『若者と生きる教会』(「ひさしぶり」ではなく「いつも祈ってるよ」と声かけを)
  • ◆ウェルズ 恵子『魂をゆさぶる歌に出会う』(ムーンウォークやゴスペルのルーツ、岩波ジュニア新書)
  • ◆マイケル・マクローン『聖書の名句』(欽定訳に基づく良く知られた英語表現の紹介)

2017.4.4

  • ◆説教黙想アレテイア特別増刊号『見よ、この方を!』(各4頁ずつの説教黙想は物足りないなあ)
  • ◆竹下節子『ユダ』(各国各時代の伝説や文学、絵画等での多様なユダ像)
  • ◆ウィリモン『十字架上の七つの言葉と出会う』(十字架の七言の説教集) ◆藤掛明『人生の後半戦とメンタルヘルス』(人生の後半戦は「絞り込み深める」)
  • ◆大嶋重徳『自由への指針』(十戒を指針に現代社会を生きる)
  • ◆塩谷達也『ゴスペルのチカラ』(ニグロスピリチュアル、ブラックゴスペルの歴史、人物、代表曲を知る)
  • ◆『聖書人物おもしろ図鑑』(カラーのイラスト。人物だけでなくストーリーも。)
  • ◆『安藤肇牧師牧会文集』(非売品)
  • ◆鈴木崇巨『礼拝の祈り』(著者の礼拝観は合わないが)
  • ◆バルト『祈り』(祈りの視点を味わう祈祷集)

2017.10.2

  • ◆深井智朗訳『宗教改革三大文書』(講談社学術文庫、ルターの原典からの全訳)
  • ◆深井智朗『プロテスタンティズム』(ルターの宗教改革と現代に至る保守主義またリベラリズムとしての)
  • ◆倉松功『宗教改革と現代の信仰』(宗教改革には「宗教」になれなかった傍流・分派があった)
  • ◆大住雄一『聖書――神の言葉をどのように聴くのか』(十戒・律法と「聖書によってのみ」)
  • ◆徳善義和『ルター 生涯と信仰』(岩波新書『ことばに生きた改革者』とともにルターを知る必読書)
  • ◆『新撰讃美歌』(岩波文庫に登場)
  • ◆ルター研究所編『「キリスト者の自由」を読む』(相互排他的な二つの命題を掲げるルターの思考回路への手引き)
  • ◆ルター『エンキリディオン』(ルター研究所による全訳)
  • ◆左近豊『祈り』(手引きを超えた深い文章)
  • ◆ブルッゲマン『詩編を祈る』(順境、逆境、そして新境地に至る詩編の言葉の情熱)

2018.4.4

  • ◆デュマ『三銃士』(岩波文庫、上・下)(17世紀前半のフランスのカトリックとプロテスタント(ユグノー)の確執が背景にある)
  • ◆『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(H=M.バルトと江口再起の講演録)
  • ◆『聖書事業懇談会講演録1』(「聖書は定期的に耕されなければならない」石川立)
  • ◆左近淑『詩編を読む』(詩編の類型に従った特徴の実際的な学び)
  • ◆金子晴勇・江口再起編『ルターを学ぶ人のために』(これを読むためにはかなりの程度の知識が必要)
  • ◆久野牧『あなたの怒りは正しいか』(ヨナ書を12回に分けた講解説教)
  • ◆バルト『福音主義神学入門』(神学するとはいかなることか。10数年ぶりに取り出した。)
  • ◆藤本満『歴史 わたしたちは今どこに立つのか』(宗教改革の歴史を知るのにこれが分量的に最適かも)
  • ◆『新・明解カテキズム』(大人も一緒に学べる)
  • ◆渡辺信夫『古代教会の信仰告白』(ローマ信条から使徒信条へ至る経過の学び)

2018.10.1

  • ◆左近豊『エレミヤ書を読もう』(2008年度の信徒の友連載記事が10年を経て蘇る)
  • ◆『聖書 新改訳2017』(引照・注付を参考に購入)
  • ◆嶺重淑『NTJ ルカ福音書1~9:50』(接続助詞「が」を使いすぎ)
  • ◆浅野淳博『NTJ ガラテヤ書簡』(逐語訳と自然訳を並べる他にも自由な文章が特徴的)
  • ◆ドナルド・ガスリ『ガラテヤの信徒への手紙』(ニューセンチュリー聖書注解)
  • ◆宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書 赤219)
  • ◆長谷川修一『旧約聖書の謎』(中公新書2261)
  • ◆ジョエット『日々の祈り』(日野原善輔訳、新版。©日野原重明)
  • ◆天利武人『神の哀れみと赦しの中で』(柏市内の日本バプテスト連合第一宣教バプテスト教会牧師の説教集)
  • ◆『柏時代の詩人八木重吉』(「八木重吉の詩を愛好する会」編、代表は天利武人)

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左近淑の詩編研究 [読書メモ]


左近淑『詩篇研究』.JPG

左近淑、『詩篇研究』、新教出版社、1971年。

後に、新教セミナーブック9。

20の詩編を文学形態に分類して取り挙げて、それぞれに、私訳と本文批評、段落構成や詩的技巧・統一性・類型など、注釈、そして、むすび。

雑誌(『福音と世界』)の連載が元になっているので、字数の都合上、比較的短い詩編が取り上げられている。

「はしがき」から

「釈義とは、聖書を説き明かすことにより、心が内に燃えることである。」(小塩力)

(「はしがき」p.2で紹介されている。句点・読点を付加、送り仮名修正。)

「神がわからなくなったら、詩篇を声を上げて繰り返し読め。」

(「はしがき」p.2、句読点とかな表記を修正。)

「本文批評の背後にある基本的な立場とか古代訳の評価の規準などについては、・・・『新聖書大辞典』の中の拙文「聖書の本文(旧約)」、「聖書の古代訳」を参照されたい。」

(「はしがき」p.6)

「序 注解書について」から

「序 注解書について」では、本書で引用される詩篇注解者(書)の、詩篇研究史の中での位置を明確にする。

● 注解書の読み方

「注解書というものはただ手当たり次第に沢山読めばよいのでもなく、またその反対に評判のよいものを一、二冊それが唯一の正しい解釈であるかのように思い込んで読むのも正しくない。注解書は聖書に代わりうるものでなく、われわれが聖書から上なる言葉を聞きとる助けのひとつであり、確かにわれわれの恣意的な読み方を正し、深め、高めてくれるものもあるけれども、それ自体方法論的限界をもち、ひとつの相対的な解釈を示すにすぎないからである。」

(p.17)

● 詩編の研究史

近代旧約学の方法論的展開に即して、やや細かく五期に分類して概観。

第一期 文法的・歴史的方法論(デリッチ、キルパトリック)

第二期 進歩発展論的方法論(ドゥーム、ブリッグス)

第三期 形態史的方法論(グンケルとその流派)

第四期 祭儀史的方法論(モヴィンケルとその流派、A.H.シュミット、B.ワイザー、C.クラウス)

第五期 構造論的方法論(仮称) ヴェスターマン

本編について

「賛美のうた」、「哀歌」、「典礼歌」の三つに分類

  • 「賛美のうた」「賛美」として29、114、8、65。「個人の感謝のうた」として32。
  • 「哀歌」「個人の哀歌」として6、38、42-43、51。「民族の哀歌」として60、90、20、21、46。
  • 「典礼歌」15、24、132、2、50。

取り上げられている詩編(番号順リスト)

2、6、8、15、20、21、24、29、32、38、42-43、46、50、51、60、65、90、114、132。

詩編に関する他の記事:


古屋安雄著作リスト [書籍紹介・リスト]


古屋安雄(1926.9.13-2018.4.16)の著作、訳書、編集・監修書等のリスト。

国立国会図書館検索、倉松功他編『知と信と大学――古屋安雄・古稀記念論文集』(ヨルダン社、1996年)巻末の著作一覧、春原の蔵書などによる独自調査。
古屋安雄『宗教の神学』『日本の神学』.JPG

古屋安雄の主著としては、私は、『宗教の神学』と、大木英夫との共著だが『日本の神学』あたりだと思う。

晩年の一連の日本伝道に関する提言に関する著書は、ほとんどがいろいろなところでの講演録を集めたもので、「20年周期説」はいたるところに出てくる。

著書(共著含む)

  1. 『キリスト教国アメリカ――その現実と問題』、新教出版社、1967。
  2. 『キリスト教の現代的展開 古屋安雄論文集』(今日のキリスト教双書1)、新教出版社、1969。
  3. 『プロテスタント病と現代――混迷からの脱出をめざして』、ヨルダン社、1973。
  4. 森有正、加藤常昭と共著、『現代のアレオパゴス――鼎談 森有正とキリスト教』、日本基督教団出版局、1973。
  5. 『激動するアメリカ社会――リベラルか福音派か』、ヨルダン社、1978。
  6. 『現代キリスト教と将来』、新地書房、1984。
  7. 『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1985。(1986再版で人名索引が付いた)
  8. 大木英夫と共著、『日本の神学』、ヨルダン社、1989。
  9. 古屋安雄、土肥昭夫、佐藤敏夫、八木誠一、小田垣雅也、『日本神学史』、ヨルダン社、1992。(ドイツ語版が先に出た後の日本語版)この中の「序論」を執筆。
  10. 『大学の神学――明日の大学をめざして』、ヨルダン社、1993。
  11. 『日本伝道論』、教文館、1995。論文・講演録等11本と説教8本。「日本の教会」は『神学』53号(東京神学大学)に初出。
  12. 藤和明編著、並木浩一、古屋安雄著、『聖書を読むたのしみ』(ICU選書)、光村教育図書、1999。この中の「第2部 新約聖書の根本思想」を執筆。
  13. 『日本の将来とキリスト教』、聖学院大学出版会、2001。
  14. 『日本のキリスト教』、教文館、2003。(2004再版)
  15. 『キリスト教国アメリカ再訪』、新教出版社、2005。
  16. 『キリスト教と日本人――「異質なもの」との出会い』、教文館、2005。
  17. 『神の国とキリスト教』、教文館、2007。
  18. 阿部志郎、雨宮栄一、武田清子、森田進、古屋安雄、加山久夫、『賀川豊彦を知っていますか――人と信仰と思想』、教文館、2009。この中の「伝道者としての賀川豊彦」を執筆。
  19. 『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか――近代日本とキリスト教』、教文館、2009。講演録や論文(書き下ろしもある)など11本。
  20. 『日本のキリスト教は本物か?――日本キリスト教史の諸問題』、教文館、2011。
  21. 『宣教師――招かれざる客か?』、教文館、2011。日本と宣教師の関わり全般に渡る27項目。一つひとつは短い。「これまで書いたものは、みなある雑誌に連載したものであるが、本書に書いたものはみな、「書き下ろし」である。」(あとがき、p.125)。
  22. 『キリスト教新時代へのきざし ――1パーセントの壁を超えて』、オリエンス宗教研究所、2013。
  23. 『私の歩んだキリスト教――一神学者の回想』、キリスト新聞社、2013。

訳書

  1. カール・バルト(ゴッドシー編)、『バルトとの対話』(新教新書115)、新教出版社、1965。
  2. ラインホールド・ニーバー、『教会と社会の間で――牧会ノート』、新教出版社、1971。
  3. J.マッコーリー、『現代倫理の争点――状況倫理を超えて』、ヨルダン社、1973。
  4. ティリッヒ「プロテスタント時代」(抄訳)、『現代キリスト教思想叢書8(ティリッヒ、ニーバー)』、白水社、1974。
  5. ティリッヒ(栗林輝夫と共訳)、『キリスト教と社会主義』(ティリッヒ著作集 第1巻)、白水社、1978。(1999新装復刊)
  6. ティリッヒ、『プロテスタント時代の終焉』(ティリッヒ著作集 第5巻)、白水社、1978。(1999新装復刊)
  7. P.レーマン(船本弘毅と共訳)、『キリスト教信仰と倫理』、ヨルダン社、1992。
  8. ヤン・ミリチ・ロッホマン(小林真知子と共訳)、『講解・使徒信条――キリスト教教理概説』、ヨルダン社、1996。
  9. アリスター・E.マクグラス編(古屋安雄監訳)、『キリスト教神学資料集』(上、下)、キリスト新聞社、2007。

編集、監修

  1. 古屋安雄編、『なぜキリスト教か――中川秀恭先生八十五歳記念論文集』、創文社、1993。 この中の古屋安雄「なぜキリスト教か――弁証と倫理の問い」は、後に『日本の将来とキリスト教』(聖学院大学出版会、2001)に収録。
  2. A.リチャードソン、J.ボウデン編(古屋安雄監修、佐柳文男訳)、『キリスト教神学事典』、教文館、1995。2005年に判型を小さくして新装版。
  3. ドナルド・K.マッキム(高柳俊一、熊澤義宣、古屋安雄監修)(神代真砂実、深井智朗訳)、『キリスト教神学用語辞典』、日本基督教団出版局、2002。
  4. 古屋安雄、倉松功、近藤勝彦、阿久戸光晴編、『歴史と神学――大木英夫教授喜寿記念献呈論文集』(上、下)、聖学院大学出版会、上:2005、下:2006。 この中に、古屋安雄「ラインホールド・ニーバー R.ニーバーとW.ラウシェンブッシュ」あり。

主な論文等収録単行本

  • 山本和編、『生けるキリスト』(今日の宣教叢書5)、創文社、1961。 この中に、古屋安雄「勝利者イエス」あり。
  • 斎藤真、嘉治元郎編、『アメリカ研究入門』、東京大学出版会、1969。この中の「宗教」の項を執筆。これの第2版、本間長世、有賀貞編(1980年)にも収録。なお、五十嵐武士、油井大三郎編の第3版(2003年)の「宗教」の項は森孝一が執筆している。
  • 佐藤敏夫、竹中正夫、佐伯洋一郎編、『講座現代世界と教会 1』、日本基督教団出版局、1970。 この中に、古屋安雄「アメリカにおける世俗化論」あり。
  • 佐藤敏夫、高尾利数編、『教義学講座 2 教義学の諸問題』、日本基督教団出版局、1972。 この中の古屋安雄「キリスト教の絶対性と諸宗教」は、『宗教の神学』の第4章になっている。
  • 中川秀恭編、『森有正記念論文集――経験の水位から』、新地書房、1980。 この中に、古屋安雄「『人間の生涯―アブラハムの信仰』について」あり。
  • 本間長世編、『アメリカ世界Ⅱ』(有斐閣新書 西洋史8)、有斐閣、1980。この中の「アメリカの宗教」の章を執筆。
  • 学校伝道研究会編、『教育の神学』、ヨルダン社、1987。 この中に、古屋安雄「今日のキリスト教学校における伝道の使命」あり。
  • 東京ミッション研究所編、『天皇制の検証――日本宣教における不可避の課題』(東京ミッション研究所選書シリーズ)、新教出版社、1991。この中に、古屋安雄「社会的、政治的な視点から見た天皇制」あり。
  • 日本基督教団出版局編、『アジア・キリスト教の歴史』、日本基督教団出版局、1991。この中の「フィリピン」の章を執筆。
  • 小川晃一、片山厚編、『宗教とアメリカ――アメリカニズムにおける宗教理念』(アメリカ研究札幌クールセミナー第10集)、木鐸社、1992。 この中に、古屋安雄「教会・教派・分派 : アメリカ宗教の三類型」あり。
  • 斎藤真、大西直樹編、『今、アメリカは』、南雲堂、1995。この中に、古屋安雄「アメリカの宗教は、今――ポスト・キリスト教国」あり。
  • 学校伝道研究会編、『キリスト教学校の再建――教育の神学 第二集』、聖学院大学出版会、1997。 この中に、古屋安雄「魅力あるキリスト教授業であるために」あり。
  • 倉松功、近藤勝彦編、『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』、教文館、1997。 この中に、古屋安雄「キリスト教大学の現代世界における意義」あり。
  • 土戸清、近藤勝彦編、『宗教改革とその世界史的影響――倉松功先生献呈論文集』、教文館、1998。 この中に、古屋安雄「宗教改革の意外な影響」あり。
  • 四国学院キリスト教教育研究所編、『大学とキリスト教教育』(四国学院キリスト教研究所叢書)、新教出版社、2005。 この中に、古屋安雄「大学とキリスト教」あり。
  • 白百合女子大学言語・文学研究センター編(井上隆史責任編集)、『宗教と文学――神道・仏教・キリスト教』(アウリオン叢書7)、弘学社、2009。 この中に、古屋安雄「キリスト教と日本文学」あり。
  • 賀川豊彦記念松沢資料館編、『日本キリスト教史における賀川豊彦――その思想と実践』、新教出版社、2011。 この中に、古屋安雄「賀川豊彦の日本伝道論」あり。また、大木英夫との対談「賀川豊彦をめぐって」あり。
  • 上村敏文、笠谷和比古編、『日本の近代化とプロテスタンティズム』、教文館、2013。 この中に、古屋安雄「武士道とプロテスタンティズム」、「日本の近代化とプロテスタンティズム」あり。

記念論文集

  • 倉松功、並木浩一、近藤勝彦編、『知と信と大学――古屋安雄・古稀記念論文集』、ヨルダン社、1996。 古屋安雄著作一覧・年譜あり。

リフォユース賛美リスト [音楽]


リフォユース500

日本基督教団宗教改革500年記念教会青年大会「リフォユース500」ユースカンファレンス(2018年3月21日、青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂)での、賛美のセットリスト。

(春原の独自調査)

 

 1.どんな時でも (中山有太/Praise Station)

 2.新しい歌を主に (ミクタムP&W赤77、リビングプレイズ116)

 3.求めて (歌い出し:あなたの声を求めて)(中山有太/Praise Station)

● 関野和寛牧師メッセージ

 4.主の臨在の中で (レインボーミュージックジャパン)

 5.輝く御名 (歌い出し:イエスの御名には勝利がある)(中山有太/Acts 2:44)

 6.イエスは勝利をとられた (ミクタムP&W赤60)

 7.主は栄光 (歌い出し:見えます輝く光に満ちて)(ミクタムP&W赤85、リビングプレイズ251)

● 晴佐久昌英神父メッセージ

 8.主われを愛す (讃美歌461)

 9.心から (歌い出し:口先ではなく心込め歌う)(中山有太/Praise Station)

10.Come on and dance (歌い出し:主よあなたと出会って)(長沢崇史) (今回はサビのcome on and dance dance danceから)

11.主を見上げて (歌い出し:あなたと共に生きる喜び)(中山有太/Praise Station)

12.なんと素晴らしい (ミクタムP&W90)

 (~主を見上げて reprise)

● 休憩、サルーキ=、大嶋重徳牧師メッセージ

13.主の愛注ぐ (歌い出し:ああすばらしい愛)(中林大介/Acts2:44)

14.神の御子にますイエス (聖歌582、新聖歌397)

15.イエスわが王を (歌い出し:栄光の主の御座をもうけたまえ主よ)(リビングプレイズ134)

● 小林克哉牧師メッセージ

● 100人ゴスペルの賛美

16.誰も見たことのない (長沢崇史)

 


平和の挨拶 [礼拝]


礼拝の中の「平和の挨拶」は、どの位置で、どのように行ったらよいか。

1.歴 史

(1)起 源

  1. ①ユダヤ教の「シャローム」の挨拶
  2. ②復活の主イエスによる「あなたがたに平和があるように」 ルカ24:36、ヨハネ20:19
  3. ③初代教会での「平和の接吻」ローマ16:16、1コリント16:20、1テサ5:26、1ペト5:14

(2)その後の経緯

  • 『キリスト教礼拝辞典』(岸本羊一・北村宗次編、日本基督教団出版局、1977年)の「平安の挨拶、平安の接吻」の項:ユスティヌス、ヒッポリュトス、アウグスティヌスなど。
  • 特に、ユスティヌスに見られる聖餐の前に位置づけられた「平和の挨拶」の意味について、越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』(キリスト新聞社、2004年)、pp.137-139。
  • 5世紀以降の歴史について、宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-59。
「1474年の『ローマ・ミサ典礼書』以降は、接吻をもって平和のあいさつを交わす習慣はなくなり、司祭が唱える「主の平和がいつも皆さんとともにありますように」に、会衆が「またあなたの霊とともに」と答えるだけになりました。」

宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

2.現代のカトリック

日本のカトリックでの、現代の「平和の挨拶」について。

  • 日本では、手を合わせて「主の平和」と言いながら互いに一礼する方法が一般的
  • パンを裂く直前、「主の祈り」に続く祈りで全世界の平和を願い、教会の平和と一致を願った後、その場に集まった共同体の一員として、平和の挨拶を交わす。
  • ローマ教皇庁から、司祭が祭壇を離れて会衆席に出向いたり信徒が会衆席の中を回ったりして平和のあいさつを交わすことは控えるように指示があった。

以上、宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

3.現代のプロテスタント

近年のプロテスタント教会における、「平和の挨拶」の回復について。

「アメリカのプロテスタント教会でも、これが広く実践されるようになってきたのは、今からせいぜい三〇年ほど前からではないかと思います。ですから、ずいぶん長い間、忘れられていた礼拝行為だったことになりますが、今ではプロテスタントもローマ・カトリックも、いろいろな形式でこの挨拶を復活させ、礼拝の中で行われるようになってきました。」

越川弘英『今、礼拝を考える』(キリスト新聞社、2004年)、p.137。

4.礼拝の中での位置

プロテスタント教会における「平和の挨拶」の礼拝の中での位置については、様々な考え方や実践がある。

(1)

「平和の接吻(平安の接吻)は執り成しの祈りの結びにおける愛と一致のしるしであり、その後に奉献が続く。」

ホワイト『キリスト教の礼拝』p.334。

(2)

「多くの場合は聖餐式の中で・・・。・・・礼拝の最初の部分で持たれることにも意味があると思います。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

(3)

執り成しの祈り―平和の挨拶―聖餐という順序を基本として、
「聖餐が行われる場合は、平和の挨拶は『主の祈り』の後、または陪餐後になされてもよい。」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33。

(4)

「サクラメントが執行されない場合は、<罪の告白>の後か、あるいは<告知における神のことば>の礼拝の最後に」

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.34。

5.挨拶の方法

会衆が互いに挨拶しあう方法にもいろいろある。

「平和(のあいさつ)は、ことば・笑顔・握手・接吻・抱擁、あるいは会衆の社会的状況にふさわしい動作で分かち合われるのがよい。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.34。

(1)挨拶の所作

①接吻 ②抱擁 ③握手 ④会釈

(2)挨拶の言葉

「主の平和」、「キリストの平和」、「主の平和がありますように」、「キリストの平和がありますように」

6.「平和の挨拶」の意味

平和の挨拶は、キリストの体に結ばれた者たちの、聖霊による和解と一致(エフェソ4:3、コロサイ3:15)を表す。

「相互の交わりと和解を確認する。」「平和と和解のしるし」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33、34。

「相互における和解による一致のしるしとして、会衆は、<平和のあいさつ>を交わす。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.32。

「平和のあいさつは希望と喜びに満ちた礼拝的伝統です。・・・キリスト者を人と人との関係に向かわせます。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

「平和の挨拶」とは、「平和」でないところにあっても、「平和」を信じて、平和を作り出すために行う行為」

越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、p.142。

立ち上がり、今日共に礼拝する仲間の前に足を運び・・・、手を差し伸べ握手をし、キリストの言葉に倣って挨拶を交わす、というこの所作の中になんと多くの気づきが隠されているでしょうか。」

山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)p.25。
(強調は春原による)

7.まとめ

平和の挨拶の位置について、聖餐とのつながりを考慮するか、特にそうしないかという大きく二通りの筋道があるが、プロテスタント教会では、毎回の礼拝で聖餐を祝うわけではないので、礼拝の中での位置は柔軟に考えて良い。

聖餐がある場合、プロテスタント教会では聖餐を「御言葉」として理解するので、説教と聖餐はできるだけ近くし、間にあまり多くの要素が入らない方がよい。

(逆に言えば、プロテスタント教会で陪餐前などに平和の挨拶を入れるのは、古代~中世の礼拝への懐古趣味か、カトリックに対する無批判な同化か、聖餐の御言葉性・出来事性の理解の欠如かのいずれかである。

したがって、「平和の挨拶」の礼拝の中での位置は、

  • a)礼拝の前半で、集められた会衆が一致を表すために行うか、
  • b)礼拝の最後の部で献金の前に、
    • 執り成しの祈り
    • 平和の挨拶
    • 献金
    という流れにするか、

どちらかが基本となるだろう。

文献リスト

  • 岸本羊一・北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977年。「平安の挨拶、平安の接吻」の項。
  • 小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.108。
  • 越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004年、pp.134-143。
  • J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000年、p.334。
  • アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、pp.32-34。
  • 日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版) 主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』、日本基督教団出版局、2006年、pp.33-34。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-61。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)、pp.22-26。

記述がありそうでなかったもの

  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本基督教団出版局、2006年。
  • 『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、2007年。


ルターのりんごの木2 [読書メモ]


「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

前回の記事で、この言葉の起源や広がり、作者について調査した、M.シュレーマン(棟居洋訳)『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』(教文館、2015年)を紹介し、読みにくい本であったが、ポイントをまとめた。

さらに、日本での引用に関する、いくつかの点について。

ゲオルギウは?

この言葉の出典に関する日本での話題でよく出てくる、ゲオルギウ(谷長茂訳)『第二のチャンス』、筑摩書房、1953年(原著1952年)は、シュレーマンのこの本の本文中には出てこない。ちょっとがっかり。。。

「訳者あとがき」で、徳善義和先生がこの本の最後の箇所で、ルターの言葉として引用されているのを見たのが最初であったということが触れられている。そこで、ちょっと考えてみた。

ゲオルギウは、ルーマニア生まれだが、フランスに亡命した。この著作はフランス語で書かれた。C. V. Gheorghiu, "La seconde chance", 1952. ゲオルギウは、この本の中で「りんごの木」の言葉をドイツ語で記しているので、ドイツでこの言葉が広く知れ渡り始めた1950年5月以降かあるいはそれ以前に、この言葉を知ったのであろう。

『第二のチャンス』のドイツ語訳が出たのは、邦訳より遅く、1957年(ドイツ語タイトルは "Die zweite Chance")。したがって、ドイツ語訳の出版が遅かったため、ゲオルギウ『第二のチャンス』は、ドイツ語圏では「りんごの木」の言葉の広がりには貢献しなかったということだろう。

最近の引用

(1) 徳善義和

『マルチン・ルター 生涯と信仰』(教文館、2007年)。

「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
世界の終わり、それは神のみ手の中のことだ。この世界の完成としての、世界の終わりが神のみ手から来る。そのことをルターははっきり信じていました。それが神のみ手から来るものであるならば、あれやこれやと私たちが詮索してみたり、考えて悩んでみたりしてもしょうがない。それは神にお任せしよう。そして、私としては今日一日私に託されている仕事を精一杯行っていこうという、そういう気持ちはもうルターの生涯の中に絶えずあったわけで、それに似た言葉をルターはよく言っていますので、たといこの言葉がルターのものでなくても、考え方、信仰的な基本はルターのものだと言っていいと思うわけです。」

p.152-153。

徳善義和は、「滅びる」ではなく「終わりの日」と言っているところがポイント。「終わりの日」は、聖書に基づくキリスト教終末論の用語である(イザヤ2:2、エレミヤ23:20、30:24、48:47、49:39、ヨハネ6:39-54など)。この表現ならば、シュレーマンが指摘しているような世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰の終末観に立った表現になっている。

(2) 江口再起

日本聖書協会編『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(日本聖書協会、2018年)に収録されている、江口再起「贈与の神学者ルター」の最後で、

ルターが語ったと語り継がれている、あの有名な言葉を引用して私の講演を終わりにしたいと思います。
「たとえ明日世の終わりが来ようとも、それでも今日わたしはリンゴの木を植える。」

p.59-60。

ここでも、「滅びる」ではなく「世の終わり」と言っている点がポイント。世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰における終末の表現である。しかし、それならば、徳善義和のように「終わりの日」と言った方がより明確だろう。

ではどうするか?

おそらく、人々の口に上るごとに、少しずつ形成されていった言葉でありつつ、最終形に至ることなく、様々なバージョンが生まれ続けている言葉である。

では、引用する際、どのバージョンがよいだろうか。あるいは、どういう風に言うのがふさわしいだろうか。

  • 「明日」と「今日」の対比は活かしたい。
  • できるだけシンプルに言いたい。
  • 「世界が滅びる」というのは我々の終末観に合わない。むしろ、神の計画が成就し、世界が完成されるというキリスト教的な意味で「終わりの日が来る」あるいは「終末が来る」と言うのがよい。
  • しかし、いつ終末が来るかは、人間にはまったく分からないことである。そういう意味で、明日かもしれないが、その時を人間が前もって知ることは決してない。あらかじめ知ったとしたらという仮定は、まったくナンセンスである。
  • 後半に、「それでも」とか「それでもなお」という言葉が入るのは、明日終末が来ることをあらかじめ知ったとしたらということが前提になるので、これらの言葉を入れるのはおかしい。
  • キリスト教的終末観を表す言葉とするならば、世界の滅びとか人生の終わりに抵抗して希望を抱き続けるという言葉ではなく、いつ到来するか分からないが必ず到来する終末に向けて、たゆまず黙々となすべき務めに励むという意味に解すべきであり、できるだけそのように解せる表現にすべきである。

そうすると、前半は「たとえ明日終末が来ようとも」あるいは「たとえ明日終末が来るとしても」となる。「来るとしても」の方がいいか。

後半は、「わたしは今日りんごの木を植える。」でよいだろう。

そして、重要なことは、「これはルターの言葉であるという説は否定されているが」というような但し書きを必ず付け加えること。

結 論:

これはルターが言ったという説は否定されているが、
「たとえ明日終末が来るとしても、わたしは今日りんごの木を植える。」

柴田昭彦「真実を求めて」

この「りんごの木」の言葉の、日本での様々な引用について詳細に追究した、柴田昭彦のホームページ「真実を求めて」は力作であり、よく知られている。

  • 寺山修司はこの言葉を確信犯的に革命の言葉にしたとか、
  • 石原慎太郎が誰の言葉として紹介しているかの変遷や、
  • 梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院)で版を重ねても誤りが修正されていないどころかかえって改悪になっているとか、
  • 開高健の色紙の文言の異動を整理して、紹介している人が勝手に「リンゴ」を「林檎」としてしまっているなどの問題を指摘、
  • 書籍やテレビドラマなどでの引用を一覧にし、
  • リルケの詩集やトラークル全集を調べ上げてこの言葉がないことを確認、
  • ゲオルギウ『第二のチャンス』のフランス語原著まで入手して調査

しているのにはまったく脱帽する。


ルターのりんごの木 [読書メモ]


シュレーマン『ルターのりんごの木』.JPG

M.シュレーマン(棟居洋訳)、『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』、教文館、2015年(原著1994年)、321+9頁、2700円+税。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

この言葉がルターのものであることは否定されるものの、どこに起源があるのかという問題と、この言葉が戦後のドイツでどのように理解されて広まったかを、史料やアンケート調査をもとに丹念にたどった研究結果。

408箇所に付けられた注が、巻末の76頁を占めているが、参照されているのは、ほとんどドイツ語の文献。

文章は読みにくい。「著者の文章には、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあって苦労も多かった・・・」(「訳者あとがき」p.320)。

おおざっぱなまとめ。

A 言葉の起源と広がり

1.1940年代に出現

最も古い典拠は、領邦教会全国評議員会議長カール・ロッツの1944年10月5日付の内輪の回状(タイプライター打ち)。

「たとえ明日世界が滅びようとも、われわれは今日りんごの苗木を植えようではないか。」

※他との大きな違い:「われわれは」、「~ようではないか」。

この文書が現れる前に、教会の何かのグループの中で少なくとも口伝えで広がったと想定できる。

2.最初の印刷物は1946年

「女子聖書サークル」(MBK)がカール・ハイザー社から発行したカード。

「たとえわたしが明日世界が破滅することを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「滅びる」ではなく「破滅する」。

3.「ひとりの著名な人」の言葉として

レナーテ・(フォン・デア・)ハーゲン、『火の柱』、ギュータースロー社、1947年。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、わたしは今日それでもなおわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「それでもなお」。

4.まったく別の分野で

フリッツ・カスパリ、『実り豊かな庭』、1948年。

この本はガーデニングの本らしい。しかも、この言葉の作者をフリードリヒ・ラウクハルトとしている。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、それでもわたしは今日なお木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「りんごの苗木」ではなく「木」。

5.1950年5月のラジオ放送

1950年5月20-21日、ヘルマンスブルクで行われた「ジャーナリスト会議」でニーダーザクセン領邦教会監督ハンス・リリエが語った。この会議の報告が、5月25日の22時~22時10分、北西ドイツ放送のラジオ番組で、ジャーナリストのティロ・コッホによってなされた。

「ある日マルティン・ルターが、もし明日世界が滅びることを確かなこととして知ったとしたら、あなたは何をしますか、と問われた時、わたしはそれでもなおりんごの木を植えるでしょう、と答えました。」

6.1950年5月末

マールブルクにおける少年警備団・福音主義教会(中等教育)生徒聖書研究サークル(BK)の全国会議で、(後の報告書によると、)ハンス・リリエと福音主義教会総会議長のグスタフ・ハイネマンが共にルターの言葉をもって発言の結びとした。

「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしはなお今日わたしのりんごの苗木を植えようと思う。」

二人が全く同じ文言で語ったかは不明。

7.1958年、ブリュッセル万博

「農業」部門のパビリオンの中に設けられたエントランス・ホールに、この言葉が様々な言語で掲げられ、マルティン・ルターの名が添えられた。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

結 論

この言葉を確認できる最も古い史料の年は、1944年である。

1950年5月のラジオ放送とマールブルクの全国会議を通して、この言葉は、ドイツのプロテスタント及びその他の各方面に知れ渡り、また、一般社会にも広がった。その極めつけが1958年のブリュッセル万博だった。

B 誰の作か?

この言葉がルターのもとでは見つからない、ルターに由来を求めることは無駄であることは、1954年、1959年に確認された。

では、誰の作か?

1.シュヴァーベンの敬虔主義

シュヴァーベンの敬虔主義者が最初に言ったという説があるが、確認できない。

2.キケロ

キケロの「それでも彼は、将来初めて役に立つ木を植える」という言葉が我々が問題としている言葉と結びついていることを裏づけることはできない。

3.ヨハナン・ベン・ザッカイ

紀元一世紀のヨハナンの言葉が20世紀まで伝えられてきたという手がかりはまったくない。

4.フリードリヒ・クリスティアン・ラウクハルト

彼に由来するという説は極めて疑わしい。

ただし、聞き間違いがあった可能性はある。「ルター」と「ラウクハルト」は発音上、まったく違っているとは言えない。

また、フリッツ・カスパリの『実り豊かな庭』(1948年)という、宗教とまったく関係のないガーデニングの本で、ラウクハルトの作として言及されていることは、どう判断すればいいのか。

結 論

誰の作かは分からない。これまで出て来た様々な説は現在のところすべて否定される。

C ルターと関係があるのか?

ルターの詩編46:3の聖書翻訳に「すぐに世界が滅びようとも」とあり、また、「たとえ・・・であっても」という言い回しは、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」の第3節に見られる。

しかし、「りんごの苗木」という表現はルターに見当たらず、ルター以外にも見受けられないなじみのない表現であり、決定的に独創性がある。

この言葉は世界の滅亡ということをまったく世俗的に理解しており、ルターの終末論や倫理を表現したものとは言えない。明らかに、20世紀半ば以前の時代の信仰、あるいは人生観の関心事を表現している。

結 論

今後、この言葉を「これはルターが言ったらしい」などと曖昧にすることは、もはや許されない。


十字架刑 [信仰]


主イエスの十字架刑について

1.残酷な十字架刑

ローマ帝国の処刑方法

犯罪人を十字架にはりつけにする処刑方法は古代の諸民族に多く見られるようですが、ローマ帝国は、奴隷などが大きな罪を犯した際に十字架刑を行いました。ローマの市民権を持つ者には十字架刑は用いられなかったほど、厳しい刑罰でした。

はりつけの木の形

はりつけにする木の形にはX型、T型などがありましたが、主イエスが掛けられたのは十字型のものでした。それは、罪状書きが上に掲げられた(マタイ27・37、ルカ23・38、ヨハネ19・19)ことからも分かります。

横木は背負わされて

十字架刑は、犯罪人を付けてから地上に立てる場合と、十字架を立ててからそこに犯罪人を付ける場合とがありました。主イエスの場合は、十字架の横木を背負わされて町の外の刑場まで歩かされ、そこにはすでに十字架の縦木が立てられていました。

釘は掌か手首か

十字架への付け方は、犯罪人の手首に釘を打ち込むか、縄で縛るのが通常だったようです。主イエスの場合はヨハネ20・24~29から、手のひらに釘を打たれたと見なされています。

すぐに絶命したのか

十字架刑に掛けられると、通常1~2日かけて死に至りました。しかし主イエスの場合は、わずか6時間ほどでした(マルコ15・25、34~。44節も参照)。

そのまま晒された死体

十字架刑は、人前で見せしめに行われ、また、すぐに絶命するのではなく時間をかけて死に至らされ、さらに、死後もそのままに晒されて猛禽の餌食とされました(主イエスの場合はアリマタヤのヨセフがその日のうちに遺体を引き取った。マルコ15・42~45ほか)。それゆえ、十字架刑はきわめて屈辱的で残酷な刑罰でした。

2.ローマ帝国による刑罰

ポンテオ・ピラトの判決

主イエスはローマ帝国の裁判によって十字架刑の判決を受けました(ヨハネ19・10)。その判決を下したのが、ローマ帝国から任命されてローマの属州ユダヤの総督になっていたポンテオ・ピラトでした。

世俗の裁判の意味

ユダヤ教の宗教裁判ではなく、世俗の裁判で死刑判決を受けたことが重要です。それは、主イエスの十字架刑による刑死が、世俗の全領域に及ぶことを意味しています。わたしたちの日常生活のすべてのみならず、国家や政治にも、主イエスの十字架の死の支配が及んでいます。

3.神の呪い

「木にかけられ者」の意味

旧約には十字架刑は出て来ませんが、申命記で、木に掛けられた者は神に呪われたものとされています(申命記21・22~23)(なお、この箇所の新共同訳の「木にかけられた死体」という訳は「木にかけられた者」に訂正されています)。おそらく、死体が晒されて猛禽の餌食となったむごたらしさが、神の呪いを受けたと理解されたのでしょう。

この言葉はガラテヤ3・13で、主イエスがわたしたちのために呪いとなってくださって、律法の実行によって義とされようとする呪いから信仰による義へとわたしたちを贖い出してくださったのだと受け止められています。

神への全き従順

主イエスの十字架刑は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」ものであり(一ペトロ2・24)、主イエスがこのような十字架につけられたことは、神への全き従順によるものでした(フィリピ2・8、ヘブライ12・2)。

4.十字架の愚かさと伝道

十字架のつまずき

主イエスが残酷な十字架刑に処せられたことは、一般の人からすればまことに目を覆いたくなる忌まわしいものでしたが、しかしそれがわたしたちのためであったと受け止める者にとっては救いの出来事です。

現代においても、十字架は人々にとってつまずきとなるものですが、信仰者へと召された者にとっては神の力がそこに現されているものです。十字架のキリストは、「召された者には、神の力、神の知恵」(一コリント1・24)です。

十字架を誇りとする

それゆえ、世の人々にとってはまったくつまらぬものに見える十字架を、しかしわたしたちは誇りとします(ガラテヤ6・14)。それは、十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めるほどです(一コリント2・2)。

神の救いの力

わたしたちは、このようなキリストの十字架を宣べ伝えます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」(一コリント1・18)なのです。

(初出:『柏教会月報』、第405号、2017年3月号、p.1。)


ワーシップCD Jworship4 [音楽]


Jworship4_500.JPG

Jworshipのシリーズの第4作、2017年4月4日リリース。

分かる範囲での原曲情報とコメント。

『ジェーワーシップⅣ 日本に与えられた賛美の油注ぎ』、PHWM(Praise Honor Worship Ministry)、2017。

曲目リスト

1.花も
MEBIGの名曲。CD『さんび大爆発10』に収録されている。
YouTubeではNCM2 (New Christian Music Ministry)の演奏がよく再生されているようだ。
2.イエス様ふれてください
大和カルバリーチャペルの副牧師、倉知契の作詞作曲。『ジェーワーシップⅣ 賛美楽譜集』では漢字で「イエス様触れてください」になっている。
3.あなたがすべて
Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の4曲目。
4.全地の王イエス
シオン・プレイズの1st『主は私の光』(2013年)の1曲目。
5.命の光
長沢崇史 with Special Bandの『道』(2012年)の1曲目。
2017年8月9~11日の日本基督教団宗教改革500周年記念「リフォユース500教会中高生大会」でも賛美された。
6.カルバリの十字架
中畑友里のアルバム『今は恵みの時』の3曲目。
7.主の愛注ぐ
Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の8曲目。
8.山々が生まれる前から
ミクタム『ホーリーパワー』の3曲目。楽譜はPraise&Worship2(青本)-113。
ミクタムのCDの中の、水野弘子の透き通ったボーカルには全くかなわない。ただし、ミクタム『ホーリーパワー』では、全体を通して歌うのは1回だけで物足りなかったのだが、このJworship4では2回繰り返してくれて、さらにしつこくあちこち繰り返してくれているのは、とてもよい。
9.どんな時でも
Praise Station『希望の歌』(2012年)の1曲目。
10.天の御座におられる方に
中山有太 Worship Project『ホザナ』(2015年)の11曲目。
11.イエス様ふれてください Bilingual
日本語と韓国語
12.あなたがすべて Bilingual
日本語と韓国語

コメント

  • 「花も」とか「命の光」という既に定番になっている曲が取り上げられているのもよいが、その中で、新たな(?)発掘として「イエス様触れてください」が取り上げられたのがよい。
  • 全体として、どうしても外国人が歌っている日本語なので、ヘビーローテーションには耐えられない。次回作は、ぜひとも方向転換して、礼拝の中でそのまま再生して賛美できるような作品にしてほしい。
  • アレンジや演奏はよいので、ぜひカラオケ(インストルメンタル)も付けてください。

リンク


新撰讃美歌 [書籍紹介・リスト]


『新撰讃美歌』岩波文庫.JPG

岩波文庫から2017年に『新撰讃美歌』が出たのを機に、『新撰讃美歌』の覆刻、翻刻などの情報のまとめ。

『新撰讃美歌』は

  • 出版年:1890年(明治23年)。
  • 植村正久、奥野昌綱、松山高吉編。
  • 出版社は原本に明記されていないが、ほぼ確実に警醒社と考えられている。
  • 歌詞のみのもの、楽譜付きのもの、ソルファ譜(階名をアルファベットで記すなどによる文字譜)などの種類がある。
  • 全289曲。ただし、264~274は頌栄、275~286は詩編など、287~289は十戒、主の祈り、使徒信経。

1.写 真

国立国会図書館デジタルコレクション『新撰讃美歌』(明治23年12月)で、楽譜付きの原本を見ることが出来る。

2.覆刻・影印

(1)秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』、新教出版社、1978年。

この中に譜附版が収録されている。解説:齋藤勇、原恵、辻橋三郎、茂洋、高道基。

(2)手代木俊一監修、『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻、大空社。

  • 第22巻(1996年発行):『新撰讃美歌』明治23年
  • 第23巻(1996年発行):『Shinsen sambika』明治23年
  • 第24巻(1996年発行):『新撰讃美歌』[トニック・ソルファー譜附]明治24年

3.翻 刻

(3)尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』、教文館,1982年。

この中のpp.313-422が讃美歌委員編『新撰讃美歌』1890(明治23)年12月。

  • 歌詞のみ。
  • 序、目次および末尾の英文による序、目次、Index of Subject、Index of Tunesなどは省略。

(4)『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)、岩波書店、2001年。

この中の「讃美歌集」が『新撰讃美歌』(明治23年12月)。

  • 楽譜は19曲のみを抜粋:4、15、21、38、41、60、63、68、74、81、97、132、160、169、172、208、214、219、274。
  • 英語の目次や各種のindexは省略。
  • 下山嬢子校注、解説。
  • p.538-552に補注あり。
  • p.585-598に解説あり。

(5)植村正久、奥野昌綱、松山高吉編、『新撰讃美歌』(岩波文庫青116-2)、岩波書店、2017年、270頁、780円+税。

「新 日本古典文学大系 明治編12」との異同:

  • 英語の目次・各種indexの省略は同じ。
  • 収録されている楽譜は異なる。文庫版に収録されているのは30曲:1、4、7、8、10、12、15、19、21、31、38、41、60、63、68、74、81、97、115、126、132、152、160、163、169、172、177、206、208、243。 (「新 日本古典文学大系 明治編12」に収録されていた19曲のうち、文庫版に収録されていないのは214、219、274の3曲。)
  • 注は全面的に簡略に書き改められて、巻末に置かれている。
  • 解説も新たに記されている。

というわけで、(1)~(4)が図書館でお目にかかるような本であるのに対し、岩波文庫版は、注も解説もしっかりしているし、何と言っても、活字になっているのでちゃんと読めるし、廉価なので、賛美歌集の歴史を学んだり、歌詞の変遷を調べたりするのに、必須アイテムである。

4.その他の情報

(1)『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』(岩波書店、2001年)の中の「聖書」とは

「旧約聖書――詩篇(抄)・雅歌」となっている。これは、山梨英和短期大学図書館山脇文庫所蔵の『舊約全書』(1888年(明治21年)、米国聖書会社)の復刻版『近代邦訳聖書集成7,8』(ゆまに書房、1996年)から、詩篇の抜粋54編と雅歌全文である。

  • 松田伊作校注、解説。
  • 篇・章、節は、『新共同訳聖書』に合わせられている。
  • 適宜区切りや改行を入れ、引用文は括弧で括られている。
  • 雅歌では単元ごとに一行空けられている。
  • p.537-538に補注あり。
  • p.578-584に解説あり。

(2)下山嬢子について

『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』、及び、岩波文庫版の、校注・解説の下山嬢子(しもやま・じょうこ)について。

著書の『島崎藤村――人と文学』(日本の作家100人)(勉誠出版、2004年)の奥付によると、

  • 1948年秋田県生まれ。
  • 東京女子大学文理学部卒、同大学院修士課程修了。
  • 現在、大東文化大学文学部教授。
  • 日本近代文学専攻。
  • 著書:『島崎藤村』、宝文館出版、1997年。
  • 編著:『日本文学研究論文集成30 島崎藤村』、若草書房、1999年。
  • 共著:『文学者の日記4 星野天知』(翻刻・解説)、博文館新社、1999年。

(3)国会図書館所蔵の讃美歌の目録

栁澤健太郎、「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」、国立国会図書館主題情報部編『参考書誌研究』第71号(2009.11)。(pdf)

  • 五十音順のリスト
  • 上の秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』(新教出版社、1978年)は281番。収録されている内容も列挙されている。
  • 上の手代木俊一監修『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻(大空社)は、239~280番。
  • この目録が、復刻版については、活字化した「翻刻」は原則として収録しないという方針のため、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館)と岩波の『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)は含まれていないが、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館,1982年)は、281番のところで触れられている。

詩編のアルファベット歌 [聖書と釈義]


詩編のアルファベット詩とかアルファベット歌と呼ばれる作品の特徴と詩編の中での意味について。

1.旧約聖書のどこにアルファベット歌があるか

詩編9~10、25、34、37、111、112、119、145、
哀歌1、2、3、4、
箴言31:10~31。
  • 詩編9と10は、あわせて一つのアルファベット歌。
  • 新共同訳聖書の古い版では、詩編112のところに(アルファベットによる詩)と入っていないが、後に訂正された。111編と112編はそれぞれがアレフからタウまで揃ったアルファベット詩である。
  • ナホム1章もアルファベット詩っぽいが、ダーレトがないしカフで終わっちゃってる。ナホム、がんばっぺ!
  • ちなみに、哀歌5章は、アルファベット歌になっていないのに、節の数だけ22にあわせている。哀歌、どうしたんだ?

2.アルファベット歌の意義

  • 文字自体が力を持っていると考えられていた。
  • 暗記を助けるため。
  • 思想的な全体性を表現している。

などの諸説がある。

詩編のアルファベット歌の内容から、信仰生活と律法の教育のためと考えられる。

文 献:
太田道子「詩編 序論」、『新共同訳旧約聖書注解Ⅱ』p.91。

3.完全なアルファベット順か?

詩編のアルファベット歌も全部が完全であるわけではなく、途中、抜けがあったり、順番が入れ替わっていたりする。

  • 詩編9~10編:ダーレトがない。メーム、ヌン、サーメクもない。アインとペーが逆。ツァーデーもない。
  • 詩編25編:ベートが節の頭にない。ワウがない。コフもない。
  • 詩編34編:ワウがない。
  • 詩編37編:アインがない。
  • 詩編111編:完璧。
  • 詩編112編:完璧。
  • 詩編119編:完璧。
  • 詩編145編:ヌンがない。

4.詩編の中の特徴

特徴(1)

  • 詩編の中のアルファベット歌は、五部に分けられる詩編の第一部(1~41編)と第五部(107~150編)に出てくる。間の第2~4部にはない。
  • 詩編が5部に分けられるのは、律法(モーセ五書)にちなんでいる。
  • ということは、詩編の最初の部と最後の部にアルファベット歌が出てくるのは、律法や神の御業の完全さを印象づけるためと考えられる。

特徴(2)

  • 詩編第一部に含まれるアルファベット歌はどれも不完全である。
  • それに対し、詩編第五部に含まれるアルファベット歌は、ほぼ完璧である。

5.詩編第五部の中で

  • 111と112のアルファベット歌の後に、113~117編のハレルヤ詩編が続いている。
  • 119編の長大なアルファベット歌の後、120~134編の長い「都に上る歌」で都に上ってゆき、135編のハレルヤ詩編に至る。
  • 145編のアルファベット歌の後に、146~150編のハレルヤ詩編が続いている。

というわけで、アルファベット歌は、律法や神の御業の完全さを印象づけて、ハレルヤという賛美を導いている。

参考文献:
大住雄一「『詩篇研究』への補遺――アルファベットうたをめぐって」、『果てなき探究 旧約聖書の深みへ――左近淑記念論文集』、教文館、2002年、pp.186-206。

佐々木潤 Blessing Life [音楽]


佐々木潤のCDの紹介とデボーション用のCD・音楽について。

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"Blessing Life : Devotion Music vol.1"、RMJ Records、RMJ0008?。

レインボーミュージックジャパンRainbow Music Japanの佐々木潤による、静まって、聖書を読み祈るデボーション・タイムのためのインストロメンタル・ピアノ曲集の第一弾。全7曲。

  1. Prologue 「詩篇62編5、6節」 5:10
  2. はじめに Genesis「創世記」 4:05
  3. ともに Judges「士師記」 5:01
  4. いのり Samuel「サムエル記」 2:55
  5. ことば Micah「ミカ書」 3:35
  6. 約束 Joshua「ヨシュア記」 3:58
  7. Epilogue 3:14

全部で28分ということはジャケットに記されているが、各曲の時間は記されていない。

メロディ・ラインがややはっきりしている面があるが、全体をリピートし続けても十分、聖書や祈りに集中できる。

個人的には、メロディ・ラインをもっと抑制して、連続1時間くらいの黙想・静思の時間に使えるCDがあったらと感じる。

ところで、レインボーミュージックジャパンのCDの品番は、どうもめちゃくちゃ。大丈夫か、RMJ。

既に2009年に発売されたJun Sasaki, "Gentle Breeze: piano instrumental"の品番がRMJ-0008とCDのレーベル面に書いてある。今回の"Blessing Life"は同じ番号になっちゃってる。

さらに、2009年のRainbow Music Japan, "Over the Rainbow"は、CDとケースの背はRMJ0007なのに、ケース裏ジャケットはRMJ-0006になっている。RMJ0006は、SIZUKA, "フォロー・ユー すべてをゆだね"が2006年にRMJ0006で出ているので、"Over the Rainbow"は0007が正解。

ということなので、"Blessing Life"はRMJ-0009になるはず

Rainbow Music Japanのサイト

アルファトラックスの中のプロフィール・ページ

PBA太平洋放送協会のWeb番組What The Pastors!!に、最近、佐々木潤が出演した回:

わたしがRMJのCDを紹介した前回のブログ記事は、「オーバー・ザ・レインボー」(2010年4月2日付)

ワーシップソングのピアノ・インストCDなら、これまでにもいくつかあった。

  • 『ミクタム・インストルメンタル・ワーシップⅡ ピアノプレイズ』(ピアノは柳瀬佐和子)
  • 『ピアノリビングプレイズ1 I Will Praise』(ピアノは澤崎真理)
  • 『リビングプレイズインストゥルメンタルシリーズ 朝ごとに新しく』(ピアノの他にクラリネットやホルン、サックスなどが入る)
  • 『In His Hands: Acoustic Piano for Healing Moments (Piano Living Praise 2)』(ピアノはJeff Nelson)

など。しかし、やはり知っているメロディなので、音楽の方が主になって黙想を導くという感じになってしまう。

デボーション用ピアノインストCDには、次のものがある。

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Jeff Nelson, "Prayer Songs vol.1&2," Wholehearted Worship, 1999.

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"Prayer Songs vol.3&4," 2005.

しかし、メロディラインがはっきりしすぎており、テンポも速め、音数も多く、時々盛り上がりすぎ。

通常の音楽では聞く人をいかに惹きつけかが大切だと思うが、デボーション用の音楽は、人を音楽に向かわせるのではなく、神へと向かわせ、御言葉と祈りに集中させなければならない。じゃまをしてはならないので難しい。

というわけで、レインボーミュージックジャパンの今後に大いに期待する。

なお、YouTubeでsoaking worshipなどのキーワードで検索すると、1時間とか3時間のデボーションミュージックがいろいろ出てくる。

(2017.11.23,29、12.1加筆修正)


『礼拝と音楽』2016・2017 [音楽]


『礼拝と音楽』の2016~2017年に発行されたNo.168~175の8号分から、わたしにとって興味関心のある記事のメモ。

No.168、2016年冬号

(特集・礼拝の中の説教)
  • 「説教塾や神学校で若い人と触れる機会がありますが、最初に「好きな説教者は誰ですか」と訊きます。そうすると、ほとんど挙がらないんです。でも、好きな画家のいない美大生はいないはず。好きな作曲家のいない音大生はいないはず。好きなギタープレイヤーのいないバンドはないはず。」
    平野克己(平野克己と荒瀬牧彦の対談「「説教」か「礼拝」か 説教学と礼拝学の共働をめざして」、p.4)
  • 「説教者と奏楽者――それぞれの立場から礼拝を考える」pp.34-39。特に、この中の末次かおりによる「奏楽者の立場から――理想と現実の狭間で」
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第7回 オランス・説教壇」、p.54-57。

No.169、2016年春号

(特集・礼拝とからだ)
  • 辻学「聖書の中の身体表現」、pp.4-8。按手と聖霊賦与の正統性に関する部分が興味深い。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体の「居場所」」、pp.22-26。平和の挨拶に関する記述あり。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第8回 按手・塗油」、p.54-57。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <3>」"God, Be the Love to Search and Keep Me" (詞・曲:Richard Bruxvoort Colligan) → YouTubeで検索

No.170、2016年夏号

(特集・後期ロマン派のオルガン音楽 19世紀はおもしろい!)
  • 橋本祐樹「現代ドイツ・プロテスタント教会礼拝事情――種々の新しい試みと『プロテスタント礼拝式文』(UEK/VELKD, 1999)に触れて」、pp.44-47。UEKとVELKDの紹介と、"Evangelisches Gottesdienstbuch," UEK/VELKD, 1999の紹介あり。

No.171、2016年秋号

(特集・ライフサイクルにおける祝福)
  • 宮越俊光「子どもの祝福――祝福式に基づく七五三の祝いの可能性」、pp.10-13。p.11に、子どもへの祝福の祈りの例が2つあり。
  • 岩田昌路「祝福を受け継ぎ、祝福を告げる教会」、pp.20-23。高齢教会員の牧会に関する取り組みの紹介。小見出し:狛江教会の創立と特徴、信仰宣言、具体的改革のための心得、三回の主日礼拝、平日の聖餐礼拝、送迎システム、第一礼拝における聖餐執行。
  • 「「堅信礼」をどうとらえるか――カトリック、聖公会、ルター派、改革派、メソジストの例から」、pp.28-37。カトリック:アンドレ・ヴァン・カンペンハウド、聖公会:吉田雅人、ルーテル教会:乾和雄、アメリカ改革派教会:ウェイン・ジャンセン、メソジスト:林牧人。

No.172、2017年冬号

(特集・初期バロックの教会音楽)
  • 特になし。

No.173、2017年春号

(特集・聖歌隊――礼拝のために、礼拝とともに)
  • 山本美紀「「共にうたうこと」から考える「うたの力」――キリスト教のうたう文化としての「賛美」と近代以来の日本の「合唱」」、pp.10ー14。1937年の日中戦争勃発を契機に、国民の不満を解消しつつ体制に組み込んでいくための厚生運動として、合唱運動が国家的規模で拡大した。合唱は職場をまとめ、戦争遂行のための生産力向上を目指すツールであった。 誰もが小学校や中学校で経験した合唱コンクールが発表会ではなくコンクールであるのは、合唱が、戦前から、所属する集団を意識させ、結束を固め、一つの目標に向かって教化し、望む方向に質を高めるものだったからだ。
  • 高橋牧、飯靖子「礼拝の中での聖歌隊の役割と可能性」、pp.28-34。
  • 志村拓生「『讃美歌21』刊行までのあゆみ――日本の賛美歌集編纂の歴史をふりかえる」、pp.46-49。
  • 「ブライアン・レンは、説教に合う賛美歌が既存の賛美歌集に見つからなかったために、よく知られた曲で歌える新しい詞を書いた」。
    p.53。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第12回 座る・沈黙」、pp.54-57。

No.174、2017年夏号

(特集・賛美歌とことば)
  • 「賛美歌は専門家によって教会の制度の外からもたらされるものでもない。また個人の敬虔が教会の賛美歌を生み出すのでもない。賛美歌を生み出すのは教会の礼拝の現実であり、神の現臨のリアリティーであり、礼拝共同体の応答ではないのか。」
    深井智朗「1717年から2017年へ――神学と賛美歌について」、p.8。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <8>」"Love divine, all loves excelling" 詞:Charles Wesley、曲:W.P.Rowlands(tune name:BLAENWERN)詞は「あめなるよろこび」(『讃美歌21』475、476)。日本語の「あめなるよろこび」とBLAENWERNとの組み合わせは『教会福音讃美歌』328にある。ウィリアム王子とキャサリンの結婚式で歌われた讃美歌。→ YouTube

No.175、2017年秋号

(特集・礼拝改革者ルター)
  • 伊藤節彦「ルター周辺の改革者たち――礼拝における影響」この中に、ローマ・カトリック、フォーミュラ・ミサ(1523年)、ミュンツァーのドイツ語ミサ(1523年)、ルターのドイツ語ミサ(1526年)、ブツァー(1539年)、カルヴァン(1545年)の比較一覧表あり(p.18)
  • 井上義「”コンテンポラリー”を識る」連載1(pp.57-54、横書き) ついに『礼拝と音楽』もプレイズ&ワーシップに関心を持ち始めたのか。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <9>」"O For a Thousand Tongues to Sing" 詞:Charles Wesley、曲:Mark A. Miller 『讃美歌21』4番をコンテンポラリーな8ビートで歌う。→ YouTubeで検索
  • "O God, You Search Me" 詞・曲:Bernadette Farrell 詩編139編をモチーフにした賛美歌。→ YouTubeで検索

ルターの礼拝から学ぶこと [礼拝]


ルターの礼拝の要点

  1. 礼拝は人間の業ではなく神の奉仕であり、神の御業の現れるところであるから、聖書に反する部分を取り除き、神の言葉を強調。(説教の重視、二つに限定されたサクラメント、実体変化や犠牲奉献を取り除き、制定の言葉を重視など)
  2. 全信徒祭司性による会衆の参与。(自国語の使用、二種陪餐、会衆賛美など)

ルターの礼拝改革の進め方

  1. 人々への配慮から、急進的な改革はしない。特に弊害のない事柄は、廃れる時や取り除くにふさわしい時が来るのを待つ。
  2. 一つの形が絶対化されてはならない。どのような礼拝順序を取るかについて自由を尊重する。

ルターの礼拝改革に学ぶこと

  1. 御言葉の強調。神の言葉の説教と、聖餐における制定語の重視。(パンのかたまりを裂く行為などは、「見せ物的ミサ」への逆戻りである。)
  2. 礼拝への信徒の参加や会衆の参加を、様々に工夫する。(読み交わす部分を多くするとか、聖書朗読も教会員が当番で行うなど。賛美の伴奏もオルガンだけで行うのではなく、合奏にしたりコーラス隊を入れたり。)
  3. 自国語で賛美歌を歌う。(キリエ・エレイソンとかグロリア・インエクセウシス・デオとかの伝統的典礼的に定着している言葉は別として、「アラル・アラメ」(21-272)、「サレナム、サレナム」(21-508)、「バーニング・ハート」(21-555)などとは歌わない。そうすると、「ノエル、ノエル」(21-258)も微妙。クリスマスに歌わないわけにはいかないけけど。)(聖歌隊も、気取ってラテン語などで歌うことはしない。)
  4. ふさわしい賛美歌がなければ、作る。(個人で賛美の詞を書いてます、曲を作ってますという人もたくさんいるけど、教会として礼拝のために。教会オリジナルの讃美歌を作っていると聞いたことがあるのは、阿佐ヶ谷教会、西千葉教会(合唱曲?)、鎌倉雪ノ下教会(いまでも?)、行人坂教会などなど。)
  5. よりよく礼拝するために信仰を理解する学びも重要。(三要文(さんようもん)すなわち、十戒、使徒信条、主の祈りの学び。「この三篇には、キリスト者が知る必要のあるほとんど全てが、簡潔に短く示されている。」(ルター「ドイツミサと礼拝の順序」『ルター著作集 第1集第6巻』p.424))(『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』を用いた学びを教会全体で行うことも、宗教改革500周年の記念として意味がある。)
  6. 従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちに配慮し、また、目新しいものにすぐに飛びつく人たちがいることに注意し、急進的な改革はしない。
  7. 礼拝の順序自体が絶対化されてはならない。ただし、ころころ変えるのは混乱するのですべきでなく、一方、弊害があればすぐに変更すべき。

ルターの礼拝 [礼拝]


ルターの礼拝についての基本的な著作は、
 「会衆の礼拝式について」(1523年)
 「フォーミュラ・ミサ」(1523年)
 「ドイツミサ」(1526年)
の三つ。
礼拝順序が示されているのは「フォーミュラ・ミサ」と「ドイツミサ」。しかしいずれも、いわゆる式文ではない。


1.Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine


1523年の聖霊降臨日。ドイツ語で書かれた。

邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。

礼拝順序を示しているわけではないが、礼拝から不純物を取り除き、御言葉による礼拝の回復と、神の言葉が説教されることを訴えている。


2.Formula missae et communionis


1523年末。ラテン語で書かれた。

一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。あるいはこれをもとに鈴木浩、湯川郁子によって改訂されたものが『ルター著作選集』(教文館、2005)のpp.437-460。

特徴は、
  • ①他の考え方をするのは自由であり、ルターはこれが強制されることを望んでいない。
  • ②ラテン語であり伝統的な様式を踏襲しているのは、従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちへの配慮であり、また、目新しいものにばかり飛びつく連中がいるため。
  • ③伝統に沿いつつも、人間が犠牲を献げることにつながる要素を徹底して排除。具体的には、奉納と奉献文を否定して実体変化と犠牲奉献に関わる言葉や所作を取り除いた。かわりに制定語を重視。
  • ④自国語による説教を勧め、自国語の讃美歌の必要を述べている。


3.Deutsche Messe und ordnung Gottisdiensts


1526年元旦。ドイツ語で書かれた。

一般に「ドイツ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)。

特徴は、
  • ①自国語による礼拝。
    (ただし、
    • a) 自国語による礼拝の実践はすでにカールシュタットらが行っていた。
    • b) 賛美歌をドイツ語で会衆も歌うが、ドイツ語の讃美歌が十分に揃うまではラテン語も許容。
    • c) 目的は信徒の信仰理解のためと、異教徒や未信者、若者・子ども、召し使いへの伝道・教育のため。)
  • ②礼拝の順序も言語もそれ自体が絶対化されたり強制されてはならず、各人の自由であることを強調
    (ただし、ころころ変えるのは民衆が混乱するのですべきでない。また、弊害があればすぐに変更すること。)。
  • ③信徒の信仰理解、異教徒への伝道、子どもへの教育のために、教理問答を重視。
  • ④急進的な改革をせず、時が来るのを待つ。祭服などは、廃れるか、廃止したいと思うようになるまでそのままにしておく。
  • ⑤標準説教集(説教範例)の必要を提起。

ドイツミサは、フォーミュラ・ミサを廃止したり変更したりするものではない。必要に応じて用いる自由がある(『ルター著作集 第一集第六巻』P.421-422)。結果として、ドイツミサよりもフォーミュラ・ミサがドイツ語の形で定着し、また、宗教改革の広がりに伴って各国語で行われることになった(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』p.437)


文 献(順不同)


見たもの


  • 前田貞一「ルター派の礼拝」、『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)pp.369-373。
  • W.ナーゲル(松山與志雄訳)『キリスト教礼拝史』(教文館、1998年)のpp.158-169。
  • J.F.ホワイト(越川弘英監訳)『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』(日本基督教団出版局、2005年)のpp.63-85。
  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)の「礼拝の系譜」の項目の中の徳善義和「ルター派」、pp.436-438。「礼拝の歴史」の項目の中の出村彰「宗教改革時代」、pp.486-488。
  • 徳善義和「ルターと讃美歌2 信仰改革は礼拝改革へ具体化」、『礼拝と音楽』158号、2013夏、pp.52-56。

見たけど役立たなかったもの


  • 『ルターと宗教改革事典』(教文館、1995年)の「礼拝改革」の項目(徳善義和)。記述の分量が少なく、フォーミュラ・ミサやドイツミサの中身の話はない。
  • 『礼拝と音楽』No.175、2017年秋号。特集「礼拝改革者ルター」。ルターの礼拝改革に取り組む具体的な話はないし、フォーミュラ・ミサやドイツミサについても上の文献を補うような知見はなかった。カトリック、フォーミュラ・ミサ、ドイツミサ、ミュンツァーのドイツ語ミサ、ブツァー、カルヴァンの礼拝式順を比較できる一覧表(p.18)があるのは便利かも。

見ていないもの


  • V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969年。
  • ゴードン・W・レイスロップ(平岡仁子訳)、『21世紀の礼拝――文化との出会い』 、教文館、2014年、125頁、1500円+税。


補 足


前田貞一は『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977)の「ルター派の礼拝」の項目で、ルターの著作で礼拝順序に関わる基本的なものとして英語版ルター著作全集"Luther's Works"から、上記3つの他に、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"(1525)を挙げている。

これの原題は"Eyne Christliche vormanung von eusserlichem Gottis dienste vnde eyntracht, an die yn lieffland." WA18, 417-421. 現代ドイツ語では"Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland."

しかし、これは当時のバルト海沿岸のリボニアの町ドルパートでの宗教改革を励ますために送られた手紙で、ルターの礼拝観は表れているだろうが、ドイツでの話ではないので、基礎的な文献ではこの著作については全く触れられていない。邦訳もなし。



ルターと詩編 [聖書と釈義]


マルチン・ルターの生涯や信仰と特に関わりのある詩編の箇所。

● 2:4
「天を王座とする方は笑い、・・・」
ポールソン『はじめてのルター』、p.113。

● 18:3以下
激しい雷を伴った嵐が起こったので、ルターは次のように言った、「さあ、我々はこの体験から第18編の詩を理解し、解釈することを学ぶことができる」
コーイマン『ルターと聖書』p.220。

● 31:2c
(=71:2a)「神の義」(ただし新共同訳では「恵みの御業」)
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.45~。
植田訳『卓上語録』、p.34。

● 45
1532年の講義。
金子晴勇訳、『心からわき出た美しい言葉――詩編45編の講解』、教文館、2010年。

● 46
「神はわがやぐら/砦」(1529年)。
讃美歌1編267、21-377。

46:5の解釈と翻訳について、コーイマン『ルターと聖書』p.245以下。

● 51
ルターの罪理解。1532年の講義。
『ルターと宗教改革事典』p.209。ポールソン『はじめてのルター』、p.168-171。
金子晴勇訳、『主よ、あわれみたまえ――詩編51編の講解』、教文館、2008年。

詩編51:19について「わたしはこの節を金の文字で書きたいほどだ」
コーイマン『ルターと聖書』p.242。

● 71:2a
(=31:2c)

● 90
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.273~。
金子晴勇訳、『生と死について 詩篇90篇講義』、創文社、1978年。
金子晴勇訳、『生と死の講話』、知泉書館、2007年。

● 116:10
「わたしは信じた。それゆえ、わたしは激しい苦しみに襲われた。」
「ルターは、神に信頼することは、ただ一人の神をもつことによって問題を増すばかりであるということを理解していた」
ポールソン『はじめてのルター』、p.129。

● 118:17
「彼は、城の中で過ごした半年の間に多くのことをやり遂げた。詩編が彼の関心の大部分であった。信徒のために、彼は詩編を解説して小さな単行本としたが、そのうち最もよく知られているのは、かの貴重なConfitemini(われら告白せん)である。」
コーイマン『ルターと聖書』p.233。

父ハンスの死に際して、「死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう」
『ルターと宗教改革事典』p.122。

● 130
「深き悩みより」(1523年)。
讃美歌1編258、21-22、21-160。



ルターが「パウロ的詩編」と言っている詩編:
32、51、110、130、143。
植田訳『卓上語録』教文館、p.173。



見た文献:
  • ウィレム・J.コーイマン(岸千年訳)、『ルターと聖書』(ルター神学研究双書7)、聖文舎、1971年。
  • 日本ルーテル神学大学ルター研究所編、『ルターと宗教改革事典』、教文館、1995年。
  • ルター(植田兼義訳)、『卓上語録』、教文館、2003年。
  • S.ポールソン(湯川郁子訳)、『はじめてのルター』、教文館、2008年。
  • 徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』、教文館、2007年初版、2012年第2版。



どの詩編を学ぶか [聖書と釈義]


教会の祈祷会や○○会で詩編を学ぼうというとき、

詩編の150編全部を学ぶのは大変。

では、厳選する場合、どれを取り上げたらいいのか。

左近淑『詩篇研究』


新教出版社、1971年。後に、新教セミナーブック9。

「賛美のうた」「哀歌」「典礼歌」の三つに大きく分けた文学類型にしたがって、主要な詩編を取り上げる。

取り上げられているものを目次から拾って番号順に挙げると、

2、6、8、15、20、21、24、29、32、38、42-43、46、50、51、60、65、90、114、132。



B.W.アンダーソン『深き淵より――現代に語りかける詩篇』


中村健三訳、新教出版社、1989年。

この付録Aに、「様式による詩篇の区分」があり、特に読むべき詩編に☆印が付されている。
☆印が付けられたものを番号順にすると、

1、2、3、4、6、8、12、13、18、19、22、23、27、31、32、33、34、37、38、39、42~43、44、46、47、49、51、57、69、71、73、77、78、80、81、84、85、88、89、90、91、92、94、95、96、98、99、100、102、103、104、105、107、110、114、116、118、121、122、124、130、132、136、138、139、143、145、146、147、148。



C.ヴェスターマン『詩編選釈』


大串肇訳、教文館、2006年。

11の類型にそって代表的な詩編を選んで、私訳、本文について、構成、釈義。「詩編選釈」でありながら、哀歌5章も入っている。結びとして「詩編とイエス・キリスト」。

取り上げられているものを目次から拾って番号順に挙げると、

1、4、6、8、13、19、22、23、24、27前半、29、30、31(部分)、33、40前半、46、51、62、66(前半と後半別々に)、72、73、77、80、90、102、103、104、113、116、118、119、121、122、123、124、126、130、138、139、145、148。



J.F.D.クリーチ『詩編』


飯謙訳、現代聖書注解スタディ版、日本基督教団出版局、2011年。

イントロダクションで詩編という名称、祈りの言葉としての特徴、表題があることや5区分、主こそ王というテーマについて簡単に説明。第1章で、第3編を例にして構造や技法、文体などの基礎を知り、第2章で文学類型をざっと解説。その後8編を取り上げる:

1、8、22、23、51、99、121、137。



R.ヘステネス『グループで聖書を学ぶABC』


朴憲郁・上田好春訳、日本基督教団出版局、2014年。

このp.85で挙げられている、小グループで聖書研究を行うために適しているとして例示されている詩編の箇所は、

1、8、19、23、25、32、34、37、42、51、62、73、107、121。


また、p.154では、聖書を学ぶグループの参加者が体験し、感じることができそうな「感情豊かな詩編」として次の箇所が例として挙げられている。

32、38、51、55、56、71、73、77、139、143、147。



『讃美歌 第一編』交読文


ところどころ省略があるが。

1、2、8、16、19、23、24、27、29、32、40、42、46、50、51、57、65、67、84、90、91、95、96、100、103、104、118、119(抜粋)、121、127-128、130、139、146。



『こどもさんびか改訂版』交読詩編


巻末の交読詩編は、全体的によく知られている部分だけの抜粋になっている。

1、8、19、23、24、27、42、46、51、72、85、95、96、100、121、130、133、136、139、150。



まとめ:厳選10箇所


以上を参考に、

  • 類型論の解説では類型として代表的な作品が選ばれているので、学びの箇所としては必ずしもふさわしいわけではない。
  • よく知られている箇所を取り上げたい。

といった観点から、10箇所に厳選すると:

1、8、19、23、46、51、100、121、130、139。


もう少し増やすとすると、『讃美歌 第一編』の交読文と『こどもさんびか改訂版』に載っている交読詩編で、共通するもの15箇所:

1、8、19、23、24、27、42、46、51、95、96、100、121、130、139。



(2017.11.19 ヘステネスのp.154の紹介を追加)
(2018.1.12 左近淑『詩篇研究』を追加)



積ん読 バックナンバー1 [まとめ]


読んでいるかどうかは別にして、机の上に積まれている本10冊。2010年秋~2015秋 (9回分)

2010.9.30

  • 宮田光雄『平和のハトとリヴァイアサン
  • 徳善&百瀬『カトリックとプロテスタント』
  • 古屋安雄『宗教の神学』
  • 『桑田秀延全集第三巻』
  • 近藤勝彦『礼拝と教会形成の神学』
  • 森本あんり『現代に語りかけるキリスト教』
  • 加藤常昭『改訂新版 雪ノ下カテキズム』
  • 古屋安雄『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』
  • 『ブルンナー著作集第2巻』
  • ニーバー『光の子と闇の子』

2011.3.3

  • ポールソン『はじめてのルター』
  • ベノア『ジァン・カルヴァン』
  • 『イエスと共に歩む生活 はじめの一歩Q&A』
  • ヘイゲマン『礼拝を新たに』
  • 『神学』72号「愛と法――教会を建てるために」
  • 大串眞『開拓伝道物語』
  • 森井眞『ジャン・カルヴァン ある運命』
  • 保科隆『葬儀』
  • 疋田博『キリスト教葬儀』
  • TOMOセレクト『慰めと希望の葬儀』

2012.10.8

  • ブルンナー『信仰・希望・愛』
  • 奥田知志『もう、ひとりにさせない』
  • 竹森満佐一『わが主よ、わが神よⅠ』
  • 富岡幸一郎『使徒的人間カール・バルト』
  • クーピッシュ『カール・バルト』
  • ボンヘッファー『ボンヘッファー選集9聖書研究』
  • バルト『和解論Ⅲ/1』
  • ボーレン『祝福を告げる言葉』
  • ハンター『山上の説教講解』
  • シュトレッカー『「山上の説教」註解』

2013.4.3

  • 聖(セイント)☆おにいさん1,2
  • 鈴木有郷『ラインホルド・ニーバーとアメリカ』
  • 平野克己『主の祈り イエスと歩む旅』』
  • ネストレ第28版
  • ホワイト『キリスト教の礼拝』
  • 田川建三『新約聖書 訳と註 マタイ/マルコ』
  • ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間』
  • 川島貞雄『ペトロ』清水書院
  • 『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社
  • 越川弘英編『宣教ってなんだ?』

2013.10.10

  • 浅野順一『モーセ』(岩波新書)
  • フォン・ラート『モーセ』
  • ギューティング『新約聖書の「本文」とは何か
  • ナウエン『いま、ここに生きる』
  • 『どちりな きりしたん』(岩波文庫)
  • 『ロマン・ロラン全集18 政治論1』
  • ヴェスターマン『聖書の基礎知識 旧約編』改訂新版
  • 越川弘英『信仰生活の手引き 礼拝』
  • 山中正雄『心の診察室』
  • 『渡辺総一 いのりの造形 共に歩むキリスト』

2014.4.2

  • ◆渋谷・赤坂『憲法1人権』第5版有斐閣アルマ(とても読みやすく諸説が簡潔に紹介されている)
  • ◆西谷幸介『十字架の七つの言葉』ヨルダン社(いまでも入手可能、在庫僅少)
  • ◆加藤常昭『黙想 十字架上の七つの言葉』(この時期の定番)
  • ◆バルト『和解論Ⅱ/4』(「教団の秩序」とか)
  • ◆八木谷『もっと教会を行きやすくする本』(なかなかそうはできなくてすいません)
  • ◆『10代と歩む洗礼・堅信への道』(使ってみてます)
  • ◆丸山真男『日本の思想』岩波新書(古書店で50円でゲット)
  • ◆三浦綾子『夕あり朝あり』(白洋舎クリーニング)
  • ◆クラウス『力ある説教とは何か』(「樽が非常に良く響き、反響するときは、たいして中身が入っていない」p.94)
  • ◆カトリック『YOUCAT』(すごいね!)

2014.10.1

  • ◆スタインベック『怒りの葡萄』(主人公に同行する説教師が気になる)
  • ◆『謙堂・植村正久・物語』(植村の伝記は他にあまりない)
  • ◆『教会アーカイブス入門』(教会史編纂の手引き)
  • ◆セイヤーズ『ドグマこそドラマ』(「地上最大のドラマ」はバルトも絶賛)
  • ◆パネンベルク『組織神学入門』(キリスト論は教会と伝道の基盤)
  • ◆近藤勝彦『癒しと信仰』(ずいぶん前の説教・講演集)
  • ◆藤掛明『一六時四〇分』(付録に中年期のメンタルヘルスの講演概要あり)
  • ◆『洗礼を受けずに亡くなった幼児の救いの希望』(神の限りない憐れみが第一にある)
  • ◆ナッシュ『幼子の救い』(これも洗礼を受けずに亡くなった幼子の救い)
  • ◆ロイドジョンズ『説教と説教者』(御言葉を語る恵みと注意を再確認)

2015.4.1

  • ◆ミルトン『言論・出版の自由』(岩波文庫、原田純訳。表現の自由。)
  • ◆稲垣久和『改憲問題とキリスト教』(公共の福祉、市民社会の形成)
  • ◆『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(永井清彦編訳、岩波。)
  • ◆『国権と良心 種谷牧師裁判の軌跡』(この中に中平健吉「教会闘争としての種谷牧師裁判」)
  • ◆日本平和学会編『平和を考えるための100冊+α』(見出しは75冊)
  • ◆ヘスラム『近代主義とキリスト教』(カイパーのカルビニズム講義)
  • ◆ヘッセリンク『改革派とは何か』(RCAは「改革派」、CRCは「キリスト改革派」)
  • ◆デーヴィス『現代における宣教と礼拝』(邦訳1968年の古典。Missio Dei)
  • ◆永井春子『十戒と祈りの断想』(他に『青少年のためのキリスト教教理』も)
  • ◆渡辺和子『愛をこめて生きる』(他に『信じる「愛」を持っていますか』、『目には見えないけれど大切なもの』)

2015.10.1

  • ◆シュミート『旧約聖書文学史入門』(Schmidはスイスではシュミート)
  • ◆『新版総説旧約聖書』(五書は大住、歴史書は山我)
  • ◆ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』(100項目のつもりが数え間違えて105項目)
  • ◆大住雄一『神のみ前に立って』(なかなか十戒の各論に入らない)
  • ◆深井智朗『伝道』(漬け物販売のバイトの話)
  • ◆上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(弱者が弱者のまま尊重される思想)
  • ◆宇沢弘文他『格差社会を越えて』(新自由主義批判)
  • ◆ドレッシャー『若い夫婦のための10章』(結婚準備の学び)
  • ◆大嶋裕香『愛し合う二人のための結婚講座』(これも学びのためだが耳が痛い)
  • ◆三浦綾子『光あるうちに』(道ありき第三部)

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説教は説教者を越えていく [礼拝]


わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。
1テサロニケ2:13より
1.

説教者は、説教の準備において自ずと、その時の教会の課題や時代の状況の中で聖書を読むことになる。同じように、説教者の信仰の傾向やその時々の信仰的関心が説教に影響を与える。言わば、説教者の信仰が説教に表れ出る。それゆえ説教者は、自分の信仰を客観的に見つめ、それに囚われないように聖書を読むことを心がけなければならない。

2.

説教は、説教者の解釈を披瀝するものではなく、説教者が見出した真理を提示することでもない。説教の準備と語りに真摯に取り組むならば、説教者は、その中で自らの信仰が問い直され、理解が深められ、枠組みが変えられていく。説教を語っている最中や語り終えた後に、準備の時には気づかなかった恵みを見い出すこともある。自分の説教に自分自身が養われることがある。説教は、それまでの説教者を越えていく。

3.

さらに、会衆が説教を聞くとき、説教者が気づいていない恵み、説教者の意図を越えたものを聞き取ることがある。語られた説教の内容と聞かれた説教の内容とは同じではない。説教の言葉は、説教者を越えて会衆に聞かれる。そこで説教は、神の言葉として語られ、聞かれている。

4.

説教が神の言葉として語られ聞かれるとき、聖霊なる神が働いておられる。一人の人間である説教者が語る説教は、聖霊によって、神の言葉として語られ、聞かれる。そのとき、説教の言葉は、単に情報の伝達にとどまらず、会衆一人ひとりをそれまでとは異なる一人ひとりにし、教会全体をそれまでとは異なる教会にする。神の言葉の説教が語られるとき、そこに新しい何かが引き起こされる。説教が語られるところでは、わたしたちが気づかなくても、そこで新しい何かが生じている。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
イザヤ43:19より

マルコのサンドイッチ [聖書と釈義]


マルコによる福音書の特徴のひとつとして、「サンドイッチ構造」が随所に見られることは、よく知られている。

「たとえば彼は、一つの物語を二つに割って、その間に他の伝承をおき、そこに時間の流れを示すという手法をよくとるのであるが、5:25-34とその前後、などに見られるいわばサンドウィッチ式の手法は・・・」
橋本滋男「共観福音書」、
『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年、p.115。


1.もうちょっと学問的な言い方はないのか


『新版 総説 新約聖書』では、「挿入法intercalation」という言葉が紹介されている。
廣石望「マルコによる福音書」、
『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年、p.74。


その箇所で注に挙げられている文献:
James R. Edwards, "Markan Sandwiches: The Significance of Interpolations in Markan Narratives," Novum Testamentum XXXI, 3 (1989) pp.193-216.(リンクはpdf)

この文献を見てみると
  • サンドイッチという言葉がそのまま論文のタイトルに使われている
  • intercalationとかinterpolationとかinsertionとかframingとか、いろいろな言い方が使われているようだ。

framing(枠付け、囲い込み法、囲い構造など)以外はみな日本語にすると「挿入法」か。

というわけで、「挿入法」という用語もあるが、「サンドイッチ構造」と言っても学問的に全然問題なさそうだ。

「学問的文献ではこのような語り方に対して「サンドウィッチ」物語という語を見い出した人たちもいる。」
C.J.デン・ヘイヤール(伊藤勝啓訳)『マルコによる福音書I』
(コンパクト聖書注解)、
教文館、1996年、p.153。


2.いつ頃から?


Edwardsは、sandwich techniqueという言い方についての、たぶん代表的な文献を挙げているが、その中で一番古いのは、
Earnest Best, "The Temptation and the Passion: the Markan Soteriology," SNTSMS 2; Cambridge: The University Press, 1965.
である。

別に、E.Bestが最初に言い出したというわけではないだろう。

しかし、このあたりから、学術的な文章の中でも「サンドイッチ」という言葉が使われるようになっていったのだろうか。

ちなみに、アーネスト・ベストは、「現代聖書注解」の第二コリントを書いている(山田耕太訳、1989年)。


3.サンドイッチ構造が見られる箇所


一般的には、次の5箇所が挙げられる:
3:20-35、5:21-43、6:7-30、11:12-21、14:1-11。
(Edward, p.203。
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、
日本基督教団出版局、2010年、p.154。)


(1)Edwards

Edwards はさらに、4:1-20、14:17-31、14:53-72、15:40-16:8の4箇所を加えている。

しかし、4:1-20では、1-9節の種を蒔く人のたとえの語りが中断している感じはなく、時間的にも10節で「イエスがひとりになられたとき」と、少し隔たっている。

14:17-31も、最初はユダの裏切り、最後はペトロの離反であって、サンドイッチのパンの種類が上と下で異なる。

14:53-72は、確かに、54節のペトロが大祭司の屋敷の中庭まで入ってきたことが66節以降に続くが、54節は事態がまだ始まっておらず、状況設定の段階であるので、むしろ、伏線に過ぎない。

15:40以降では、40節で婦人たちが遠くから見守っていたことが、イエスの埋葬後も、47節で婦人たちが墓を見つめていたことにつながっているが、ヨセフによるイエスの埋葬によって事態が大きく変化したわけではなく、変わらない。むしろ、このことが16章につながっていくので、15:40-41、47は、16章への伏線と見た方がよい。 

(2)川島貞雄

川島貞雄は、他に、2:1-12、7:1-23を挙げている。
あるいは、「なお、4:1-20、7:1-23、8:1-21参照」と記している。
川島貞雄『マルコによる福音書――十字架への道イエス』
(福音書のイエス・キリスト2)、
日本基督教団出版局、1996年、p.86,111。


2:1-12は、律法学者が心の中でイエスを非難したことによって、中風の人の癒しが中断される。これによって、中風の人を連れてきた四人の男の信仰を見たことによって癒しがなされることに加えて、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることが明確に示される。したがって、この箇所は「サンドイッチ構造」と言ってよさそうだ。

4:1-20は(1)で述べた。

7:1-23は、手を洗わないで食事をすることの話題が、まず、人間の言い伝えの問題として捉えられ、続いて、食物規定の問題に変わっていく。それゆえサンドイッチ構造ではない。

8:1-21では、四千人の供食の話はひとまず一件落着しており、14節以降は、別な機会にパンを一つしか持ち合わせていない話と、五千人の供食と四千人の供食の経験の両方の想起であるので、これもいわゆるサンドイッチ構造とは言い難い。

(3)廣石望

廣石は、6:32~8:10も、二つの供食奇跡の間に、清浄規定論争を含むイエスの異邦人への働きに関する諸エピソードが配置されていると見ている。

廣石はさらに、14:3以降の受難物語全体が、イエスに従い仕える女性たちのエピソードに枠づけられて、男性の弟子たちがイエスを裏切り見捨てる話が置かれていると見る。
『新版 総説 新約聖書』p.75。

しかし、6:32~8:10も14:3~16:8も、具が分厚く何段もの層をなしているアメリカン・バーガーなので、いっぺんには口に入らず、崩して食べるしかない。

(4)結 論

結局、サンドイッチ構造としては、一般的に言われる5箇所:
  • 3:20-35(イエスの身内とベルゼブル論争)
  • 5:21-43(ヤイロの娘と長血の女)
  • 6:7-30(弟子の派遣と洗礼者ヨハネ殺害)
  • 11:12-21(いちじくの木と宮清め)
  • 14:1-11(イエス殺害計画とナルドの香油)
に、
  • 2:1-12(中風の人のいやしと律法学者の非難)
を加えた6箇所を挙げるのがよい。

4.サンドイッチの味わい方


「実際のサンドウィッチでも、挟んでいる両側のパンと、挟まれている具とは一体である。好き好きだから、バラバラにして食べてももちろん構わないが、製作者の意図に従えば、一体として食すのが前提である。パンと具の間に調和があったり、緊張があったりする。バラバラにして食べたときには味わえない味を、一体として食べて味わうのである。」
徳善義和「マルコによる福音書 五章二一~四三節」、
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、日本基督教団出版局、2010年、p.154。


5.「サンドイッチ」か「サンドウィッチ」か


わたしの周りにある辞書の見出しに載っているのは基本、「サンドイッチ」のようだ。

まあ、「マルチン・ルター」と「マルティン・ルター」との違いと同じようなものか。



鈴木崇巨『礼拝の祈り 手引きと例文』 [読書メモ]


鈴木崇巨『礼拝の祈り』.JPG鈴木崇巨(すずき・たかひろ)、『礼拝の祈り 手引きと例文』、教文館、2014年、164頁、1400円+税。

特 徴

  • 祈祷や祝祷の「祷」の字はすべて、異体字であるunicode:U+79B1(示偏に壽)が用いられている。
  • 著者は、礼拝の中で司式者が聖霊の導きのままに即席の祈りをすべきであるという伝統の中で育ってきた。(p.3)
  • しかし、礼拝をより豊かにするために、祈祷文の準備をしておくことも決して悪いことではないと思っている。(p.3)
  • 牧会祈祷の例文も招詞の聖句箇所も、教会暦にしたがって掲載されているが、この本での教会暦は、
    • 待降節
    • 降誕節
    • 顕現節
    • 受難節
    • 復活節
    • 聖霊降臨節
    • 王国節(8月最終主日から待降節前)
    という区分である。(p.24)
  • 「日本的な祈りからの決別」を訴えている。(p.10,13-14など)
  • イエス、キリスト、聖霊に「さま」を付ける場合と付けない場合とがある。慣れ親しんでいない表現には違和感を覚えるかもしれないが、「日本の教会の現状を考慮して、両方の表現を採用しました」とのこと(p.23)。

内 容

1.「礼拝の祈りについて」

礼拝での祈りについて、8~24ページで解説。

  • 「聖霊に向かって祈ることはあり得ますが、聖霊は祈りの対象というよりも、むしろ私たちが受けて満たされるべきお方、また私たちを祈らしめる神の力ととらえるべきだ」。(p.9)
  • 「日本語の特性から言って、「神がたたえられよ」というような表現はまれですから、日本人クリスチャンの祈りは賛美が少なくなり、感謝が多くなります」。(p.13)
  • 願いが祈りの中心になっていることについて、「日本人特有の神社的な「祈願」」が祈りになっているからだ。「キリスト教の祈りは、神中心の信仰ですから、「賛美」が中心を占めるべきです。」(p.13)
  • 近年は、讃美歌(当然祈りの一種)の終わりに「アーメン」をつけていない歌があったり・・・しています。これは現代の「不確かな時代」「世俗化の時代」の反映ではないかと思われます」。(p.16)

2.「牧会祈祷の例文」

  • 教会暦にしたがった53例
  • ひとつひとつが1見開きに収めてられている。
  • ここでの牧会祈祷とは、「プロテスタント教会の礼拝の中で牧師や長老、執事、役員、信徒などが、会衆を代表して祈る祈祷」のこと。
  • おおむね、賛美(感謝)、懺悔、信仰の表明、祈願の順に構成されている。(p.13)

3.「献金祈祷の例文」

  • 15例
  • 「献金祈祷は、その目的である献身の表明の祈りに絞った方が礼拝そのものを引き締まったものにしてくれる」。(p.134)

4.「招詞の聖句」

  • 教会暦の区分ごとに掲載。それぞれで聖書の順になっている
  • 聖書箇所だけでなくて、聖句の最初の部分とか途中の部分が記されていて、「ああ、この聖句ね」と分かるような配慮がなされている。

招詞と祝祷の理解について

  • ※祝祷を「祈りではない」という理解(p.16~19)はわたしと同じだが、では何であるかというと、「牧師から会衆に発せられる挨拶の言葉」とする点は、わたしと礼拝観を異にする。わたしは、会衆への神の祝福を牧師が取り次いで、会衆を世に送り出すのが祝祷だと理解している。
  • ※招詞についても同様で、著者は「司式者からの挨拶」と記し(p.19)、神が招いているのではなく、司式者が招いているとするが、これはわたしの理解と異なる。わたしは、神が礼拝に招いている言葉が招詞だと考えている。
  • 招詞は聖書朗読ではないので短い聖句がよいという指摘(p.20)は、同感である。なお、著者は触れていないが、説教と関連させて招詞の聖句が選択されることがよくあり、そのような方法は、その日の御言葉への招きのつもりだろうが、礼拝への招きにはなっていない。

関連のわたしのブログ記事

わたしが招詞のリストを洗い出したブログ記事「招詞のリスト4(総集編)」

そのうち、「神が、わたしたちを、礼拝に、呼び集め招く」意味合いがよりはっきりしていると感じられる30箇所ピックアップしたブログ記事「11の使える招詞」


ルターの評伝 [書籍紹介・リスト]

2017年は宗教改革500年ということで、マルティン・ルターの評伝を読んでおこう。

基本は、次の3つ。

徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』.JPG

1.徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』

  • 岩波新書1372、岩波書店、2012年、183頁、720円+税。
  • 現代の日本におけるルター研究の第一人者によるルターの評伝の決定版。
  • → このブログでの読書メモ

『ルター』清水書院人と思想.JPG

2.小牧治・泉谷周三郎、『ルター』

  • 人と思想9、清水書院、1970、214頁。
  • 徳善義和の岩波新書が出るまでは、日本人による簡便な評伝は、これしかなかったが、今でも重要。
  • 今は1000円+税。
  • 清水書院の人と思想シリーズは、緑っぽいカバーだったが、順次、赤い新装版になっている。)

徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』.JPG

3.徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』

  • 教文館、2007、336頁、2500円+税。
  • これは、徳善義和がラジオで語ったのをまとめた全12話。とても読みやすい。
  • 巻末にしっかりした略年譜、日本語で読めるルターの著作(第2版2012年では徳善の『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012)まで掲載)、詳細な索引もあり。

その他、最近の翻訳として次の3つがあるが、いずれも、わざわざ読むほどのものではない。

リュシアン・フェーヴル、『マルティン・ルター――ひとつの運命』

  • 濱崎史朗訳、キリスト新聞社、2001年(原著1988年版からの翻訳、初版は1928年)、356頁、2000円+税。
  • 歴史学の分野のアナール学派の祖と言われるフェーヴルによる、政治、経済、社会、文化といった歴史的状況全体の中で描かれたルター像のようだ。宗教改革者であるルターの評伝という関心からはちょっとずれるかも。

S. ポールソン『はじめてのルター』

  • 湯川郁子訳、教文館、2008年(原著2004年)、302+8頁、1900円+税。
  • 評伝というよりもっと、律法と福音とか、信仰義認とか、聖書解釈とか、悔悛の秘蹟の方向転換とか、自由意志の問題といった、ルターが取り組んだ神学的な展開を紹介したものだが、全体的取っつきにくい感じ。

T.カウフマン、『ルター――異端から改革者へ』

  • 宮谷尚実訳、教文館、2010年(原著2006年)、188頁、1600円+税。
  • 原著2006年初版からの翻訳だが、2010年に出た改訂版の修正・変更はすべて盛り込まれているとのこと。
  • ワイマール版ルター全集を縦横に引用しながら、ルターの生涯とその意味を解き明かしている。ルターの生涯についてすでによく親しんでいる教養人向けという感じなので、上記の岩波新書と清水書院でルターの生涯を頭に入れている人向け。分量は多くない。
  • 最初は入っていきにくいので、40ページのルターの生涯が始まるところから読む(80ページまで)。
  • 81ページ以降はルターの生涯のいくつかの面を取り上げる。多くの出版物を刊行したことについて、聖書翻訳への取り組み、学者としてのルターと説教者としてのルター、この世のこと(国家、他の学問、科学技術など)との関わり方、結婚の自由や自由の平等性に基づく全信徒祭司性、ユダヤ人観・トルコ人観など。

新約聖書の各書の学び [書籍紹介・リスト]

新約聖書を
・通読などで、聖書の順に読み進めていく上で、
・各書ごとに
・ポイントや特徴などを
・専門的にではないが、ある程度学問的に裏付けられた知識として、
・信徒と共に
学ぶための本。


なお、旧約聖書については、2015年10月19日のブログ記事「旧約聖書の各書の学び」


1.まず、小型の辞典で各書の名の項目を調べる。
基本の三つを教会員に勧める。
・秋山憲兄監修、『新共同訳聖書辞典』、新教出版社、2001年。

・木田献一、和田幹男監修、『小型版新共同訳聖書辞典』キリスト新聞社、1997年。

・木田献一、山内眞監修、『新共同訳聖書事典』、日本基督教団出版局、2004年。


2.次に、各書ごとの解説の付いた聖書を見る。
フランシスコ会訳の『聖書』

・いわゆる岩波訳の『新約聖書』

これらは教会の図書室に入れておく。

3.簡便な解説書を読む。
次の二つは信徒必携。
土戸清、『現代新約聖書入門』、日本基督教団出版局、1979年。
現在、オンデマンド出版

『はじめて読む人のための聖書ガイド』、日本聖書協会、2011年。
旧約から新約まで66書それぞれについて、特徴、執筆目的、背景、構成を、一書につき2~3ページで解説


以上は信徒向けにも勧められる。旧約聖書についてもだいたい同じ(土戸清のが浅見定雄のになるだけの違い)。


4.少し専門的だが簡潔に記されているもの

・原口尚彰、『新約聖書概説』、教文館、2004年。
一人の著者によるので観点がばらけず、ぐだぐだとした議論もないので牧師としても重宝する。

・『新共同訳新約聖書注解』(1、2)、日本基督教団出版局、1991年。
各書の緒論部分を見る。


5.専門的な辞事典
次の二つの辞典・事典は、新約各書が項目として挙げられている。
・東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、『新約聖書神学事典』、教文館、1991年。

・荒井献、石田友雄編、『旧約新約聖書大辞典』、教文館、1989年。


6.比較的各書ごとに記述された、一応学問的なもの。
新しいもの順。
・『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年。

・E.シュヴァイツァー(小原克博訳)、『新約聖書の神学的入門』(NTD補遺2)、日本基督教団出版局、1999年。

・W.マルクスセン(渡辺康麿訳)、『新約聖書緒論――緒論の諸問題への手引』、教文館、1984年。

・『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年。




NGな教会の外看板 [伝道]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社、2013年)を参考に(というか、ほとんどそのまんま)、教会の外看板のNGをまとめた。必要に応じて、コメントあり。

わたしの見たところでは、教会の外看板には、
  固定的な内容を記した「案内看板」
と、
  頻繁に中身を張り替える「外掲示板」
とがある。

案内看板は、昔はペンキ、今はカッティングシートで作成されていて、集会案内と牧師名、電話番号などが記されているもの。

外掲示板は、前面がガラス窓になっていて、磁石か画びょうでプリントを張るタイプが普通か。


● NGな案内看板

・傷んだ看板に、はがれかけた文字
・ガムテープで修正、しかもそれがボロボロ
牧師名が前任者のまま
・現在とは時刻等が異なる集会案内
・電話番号に市外局番がない

※ガムテープは劣化が激しいので、ガムテでの修正は絶対やってはいけません。今は、カッティング文字で一文字単位で修正できるので、業者に頼みましょう。

※携帯電話やスマホで電話する人が多いので、掲示板に限らずチラシ等でも、市外局番は必須。


● NGな外掲示板
・ガラスケースの掲示板が、砂ぼこりだらけ
・とっくに終了したイベントのポスター
・文字や紙の色あせ
・日に焼けてぼろぼろの磁石 (2017.5.29追加)


● 共通のNG
・掲示板本体のサビや亀裂、蜘蛛の巣
・下が雑草だらけ
・字が小さすぎ
・誤字脱字
礼拝は誰でも参加OKということが書かれていない



もっと教会を行きやすくする本 [書籍紹介・リスト]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本』縮小.jpg八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』、キリスト新聞社、2013年。


帯が、
「雑誌「Ministry」の人気連載「新来者が行く」を単行本化!」
「初めて来た人には、こう見える。」
「全国100以上の教会を訪ねてきた”プロ”の目で総点検!」

教会へのアクセスから礼拝が終わるまでの全ての関門について、新来者がつまずく箇所を総点検し、新来者への配慮に満ちた教会を提言する、大変耳の痛い指摘に満ちた、全5章。「Ministry」連載記事を元に大幅に加筆。

2014年キリスト教本屋大賞受賞。

著者のサイト「くりホン キリスト教教派の森」は、情報満載!(たぶん昨年(2016年)にURLが変わった)




大まかな内容

1.教会に行くまで
 外掲示板
 会堂内外の立て看板
 地図に載っているか
 電話応対など

※電話のガチャ切りについて

「電話をガチャ切りされた教会にぜひ行きたいと思う人はあまりいないでしょう。・・・電話ガチャ切りが身についた牧師の説教は聞きたいとは思いません。」

ガチャ切りする牧師が多いとは、わたしも以前から感じている。電話ガチャ切りの牧師の説教は聞かなくていい。

ただ、フックを指で押して電話を切る作法を知らない人は、牧師以外にも多い。(押す時間が短すぎると「保留」になってしまうということもある。)

もっとも、今後、固定電話でも親機のコードレス化が進むのか分からないが、そうなれば、「切」ボタンを押して電話を切るようになっていくんじゃないかな。

それとも、「じゃあね」とか「失礼します」などのキーワードで受話器を耳から離すと自動的に電話が切れるというヤツが、固定電話にまで広まったりして。


2.初めて礼拝に出てみる
 入り口の場所のわかりやすさ
 入りやすさ
 遅れてきた新来者への配慮
 受付での応対と動線
 名札
 新来者カードと紹介タイム
 新来者に何を渡すか
 どこに着席するかなど

3.礼拝の難しさ
 礼拝についていけない(何を参照していいのかわからない、とっかえひっかえの頻度が多すぎ。)
 使徒信条や週報にふりがなを
 献金用封筒
 献金や聖餐式の説明を
 身体的な困難(室温、照明、椅子が硬い、音響など)
 平和の挨拶
 礼拝の終了時刻を明確になど

※この章の中で、「新来者にもやさしいOHP礼拝」は第2刷から「新来者にもやさしいハイテク礼拝」に変更されたらしい。

※とっかえひっかえの頻度について

確かに、多くの教会の礼拝では、見るべきものが多すぎる。讃美歌、交読詩編、聖書は旧約聖書何ページをお開きください、次は新約聖書何ページをお開きください、主の祈りのプリント、使徒信条のプリント、週報に記された報告をご覧くださいなどなど。

牧師であっても、初めての教会に行ったときは目が回る。

ということは、この「とっかえひっかえの頻度」問題は、かなり重大である。

もっとも、新来会者に対しては、初日からついて行こうとしなくてもいいという見解は目から鱗。



4.教会とインターネット
 基本情報をわかりやすく
 困ったサイト
 再訪したくないサイト
 音声配信・動画配信での注意
 弛緩した礼拝になっていないか

※基本情報とは、住所、アクセス方法、分かりやすい地図、礼拝時間、終了予定時刻も、電話番号かメールアドレス。


5.後奏
 お葬式のこと
 超教派の教会マップの事例
 名刺サイズの教会案内カードのあれこれなど。



結論としては、

すべての牧師と役員は一度は目を通すべき本
ただし、現実には5年や10年では変えられない点も多い。
少しずつできるところから変えていく。
日頃から、新来者への配慮を心に掛けていることが、何よりも大切。




これまでに私が書いたブログ記事:
「林家三平、八木谷涼子」(2012.01.23)
「『ミニストリー』の八木谷(1)」(2012.02.14)
「『ミニストリー』の八木谷(2)」(2012.02.15)
「『ミニストリー』の八木谷(3)」(2012.03.07)
「『ミニストリー』の八木谷(4)」(2012.05.09)
「『ミニストリー』の八木谷(5)」(2012.05.10)
「『ミニストリー』の八木谷(6)」(2012.05.11)
「『ミニストリー』の八木谷(7)」(2012.07.21)
「『ミニストリー』の八木谷(8)」(2012.07.22)




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