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説教は説教者を越えていく [礼拝]


わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。
1テサロニケ2:13より
1.

説教者は、説教の準備において自ずと、その時の教会の課題や時代の状況の中で聖書を読むことになる。同じように、説教者の信仰の傾向やその時々の信仰的関心が説教に影響を与える。言わば、説教者の信仰が説教に表れ出る。それゆえ説教者は、自分の信仰を客観的に見つめ、それに囚われないように聖書を読むことを心がけなければならない。

2.

説教は、説教者の解釈を披瀝するものではなく、説教者が見出した真理を提示することでもない。説教の準備と語りに真摯に取り組むならば、説教者は、その中で自らの信仰が問い直され、理解が深められ、枠組みが変えられていく。説教を語っている最中や語り終えた後に、準備の時には気づかなかった恵みを見い出すこともある。自分の説教に自分自身が養われることがある。説教は、それまでの説教者を越えていく。

3.

さらに、会衆が説教を聞くとき、説教者が気づいていない恵み、説教者の意図を越えたものを聞き取ることがある。語られた説教の内容と聞かれた説教の内容とは同じではない。説教の言葉は、説教者を越えて会衆に聞かれる。そこで説教は、神の言葉として語られ、聞かれている。

4.

説教が神の言葉として語られ聞かれるとき、聖霊なる神が働いておられる。一人の人間である説教者が語る説教は、聖霊によって、神の言葉として語られ、聞かれる。そのとき、説教の言葉は、単に情報の伝達にとどまらず、会衆一人ひとりをそれまでとは異なる一人ひとりにし、教会全体をそれまでとは異なる教会にする。神の言葉の説教が語られるとき、そこに新しい何かが引き起こされる。説教が語られるところでは、わたしたちが気づかなくても、そこで新しい何かが生じている。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
イザヤ43:19より