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エリアで考えてみる伝道活動(3)――県、地域 [伝道]

前々回の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界」前回の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(2)――日本」の続き

3.地域伝道
このエリアでは、祈り、献金、奉仕という区別ではなく、具体的な伝道的活動として考えられそうなことを、思いつくままに。

(1)都道府県という範囲では、個教会が直接伝道活動をするというより他の教会のために。
a)会堂建築などの中で経済的に困難な状況にある教会、過疎地の教会、無牧の教会、その他大きな課題に直面している教会などのために、祈り、献金、奉仕の全側面から応援する。
b)開拓伝道している教会を、祈り、献金、奉仕の全側面から応援する。場合によって、自分の教会の開拓伝道ととらえて取り組む。
c)同じ地域の他の教会が抱えている課題を理解し、共有し、担い合う。

(2)市町村あるいは大字や丁目という範囲では、個教会が直接伝道していく。
a)そのまえに、他の教派の教会との連携も考える。伝道のために手を取り合う。あるいは、縄張り争いではなく自由競争として、伝道を活発にする。
b)定期的にチラシを配ったり、伝道集会を開いたり。
c)宣伝、広報にも抜け目なく。電話帳広告、電柱広告、駅看板、バスの車内アナウンス、地域情報紙へのイベント情報の投稿、地域ケーブルTV局への働きかけ(イブ礼拝の生中継とか)。インターネットも忘れずに。
d)教会の近隣との交わりや関わり。チラシによる定期的な情報発信(直接的な伝道的情報のみならず、教会では何をやっているのか、教会は何を考えているのかも)。地域への貢献、地域からの信頼・信用を得るために。バザーとか。ゴミ拾いとか。会場提供とか。コンサートへの招待とか。
e)教会員一人ひとりの近隣への伝道をサポートする。トラクトの常備。家庭集会による伝道。

4.家族伝道
タグ:伝道方策

エリアで考えてみる伝道活動(2)――日本 [伝道]

前の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界」の続き

2.国内伝道
各個教会レベルで考えられることは、祈り、献金、奉仕の三つ。自分の教会でできるかどうかは全く考えず、一般的に考えられることを、思いつくままに列挙してみる。

(1)祈り
a)日本全体のために祈る。国のために、政治のために祈る。
b)47都道府県を一つずつ取り上げて祈る。(教会数や礼拝出席数などを確認しながら)(あるいは、教区ごとに)
c)自分の教会が属する教団の教会を日課などに沿って覚えて祈る。
d)地震などの被災教会のために、また、会堂建築全国募金などを行っている教会のために祈る。
e)教団の伝道部門のために。
f)自教会と関係のある教会のために。

(2)献金
a)自分の教会が属する教団の国内伝道部門、開拓伝道部門に献げる。
b)教団内の有志の伝道団体や教団外の国内伝道団体のために献げる。
c)地震などの被災教会のために、会堂建築全国募金などを行っている教会のために献げる。
d)自教会と関係のある教会に献げる。

(3)奉仕
a)自分の教会が属する教団の国内伝道のプロジェクトや教団外の国内伝道団体からの呼びかけに答えて、教会員を(牧師を、伝道師を)派遣するとか、自教会も参加するとか。
b)自教会の中に国内伝道チームとかキャラバンを組織して活動する。伝道集会やトラクト配布のサポートに赴いたり、赴けなくてもチラシの作成を請け負ったり。
c)自分の教会が属する教団の国内伝道部門や、国内伝道団体のためにできる奉仕をする。
d)知恵の奉仕というか情報提供として、自教会の教会形成や伝道の工夫などの取り組みを、インターネットで公開したり、関係教会に送付する。

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タグ:伝道方策

エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界 [伝道]

1.世界伝道
各個教会レベルで考えられることは、祈り、献金、奉仕の三つ。自分の教会でできるかどうかは全く考えず、一般的に考えられることを、思いつくままに列挙してみる。

(1)祈り
a)世界の人々の救いのために祈る。世界の教会のために祈る。
b)自分の教団から派遣されている宣教師がいる教会のために、また、その宣教師のために祈る。宣教師の派遣に関わっている教団の機関・組織のために祈る。
c)自分の教会と関わりのある海外の教会のために祈る。
d)地震などの災害に見舞われた国の教会、大きな事件・事故のあった国の教会のために祈る。

(2)献金
a)教団の宣教師派遣や海外伝道の部門に献げる。
b)海外伝道を行っている伝道団体に献げる。
c)自教会と関係のある海外教会や宣教師に直接、献げる。
d)地震や津波・台風などの災害救援募金の呼びかけに応じて、献げる。

(3)奉仕
a)自分の教会が属する教団の海外伝道のプロジェクトや教団外の海外伝道団体からの呼びかけに答えて、教会員を(牧師を、伝道師を)派遣する。
b)教会員の中から海外伝道チームとかキャラバンを組織し、派遣する。
c)自分の教会が属する教団の海外伝道部門や、国内の海外伝道団体のためにできる奉仕をする。

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タグ:伝道方策

ゲーテ、ミュラー、ハルナック [宗教の神学]

1.ゲーテ"Maximen und Reflexionen"(邦訳は「格言と反省」とか「箴言と省察」とか)に次のような言葉がある。

「外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない。」
高橋健二編訳『ゲーテ格言集』(新潮文庫赤15-6)、新潮社、1952、p.111。

「外国語を知らない人は、母国語を知らない。」
大山定一訳「ゲーテ格言集」 in 小牧健夫他編『ゲーテ全集 第十一巻』、人文書院、1961、p.164。

「外国語を知らぬ者は、自国語についても何も知らない。」
岩崎英二郎、関楠生訳「箴言と省察」 in 『ゲーテ全集13』、潮出版社、1980、p.360。

2.マクス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1923-1900)『宗教学入門』("Introduction to the Science of Religion," 1873)の中で、このゲーテの言葉が「一つの言語しか知らない人は、どの言語も知らない」として引用されている。
 この言葉は、例えばシェークスピアが自国語しか知らなかったから英語を知っているうちには入らないという意味ではなく、どんなに言語を巧みに用い、上手に表現できたとしても、言語とは何かという問いに対しては答えることができないという意味であると、ミュラーは言う。そしてこれを宗教学(ミュラーの表現ではthe science of religion)(比較宗教学の意味合いが強いようだ)にも当てはまるとして、「一つしか知らない者は、一つも知らない」(He who knows one, knows none.)と言う。つまり、山を動かすほどの信仰を持っていても、宗教とは何かという問いには答えられないということである。したがって、一つの宗教しか知らない者は宗教について何も知らないのである。
 マクス・ミュラー(湯田豊監修、塚田貫康訳)、『宗教学入門』、晃洋書房、1990年、p.11-12あたり。

3.アドルフ・フォン・ハルナックは、ベルリン大学の総長就任記念講演「神学部の課題と一般宗教史」(1901)で、ミュラーの言葉を逆にして、「この宗教(キリスト教)を知らない者は(宗教について)何も知らないが、この宗教をその歴史とともに知っている者はすべて(の宗教)を知っている」と言った。
 古屋安雄『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1986初版、1987第二版、p.126(p.170でも言及)。

礼拝の構造(4) [礼拝]

6.いろいろ考えさせられたこと

(1)
従来、「神から人へ」「人から神へ」という観点で礼拝の要素や流れを捉えようとする考え方があったが、それでは礼拝の構造を捉えきれず、流れも明確に示すことができない。

また、礼拝の一つひとつの要素は、必ずしも「神から人へ」と「人から神へ」のいずれかに区分けできるものではない。例えば、讃美歌は、神に賛美をささげるものでもあるし、歌われている歌詞を通して福音が示されるものでもある。祈りも、神に感謝や願いなどを申し上げつつ、祈りを通して聖霊が働いてくださり慰めや励ましなどをいただくものである。

(2)
聖餐を感謝の部に入れる例があるが、聖餐は感謝ではない。

ユーカリストというのは、典礼の一部分を取り上げて名付けられたものであって、集いの終わりの言葉「イテ・ミサ・エスト」から礼拝自体が「ミサ」と言われるようになったのと同じようなものである。名称の意味がそのまま事柄の本質を表すのではない。

(3)
上で述べたように、礼拝の要素は「神から人へ」と「人から神へ」のいずれかというようには割り切れないものであるが、礼拝の構造の名称の実践例としては、「招き」や「祝福」のように神からのものと、「感謝」や「悔い改め」のように人からの応答の意味合いが強いものとが混在している。

そこで、礼拝が、人間が参与しつつも主なる神の主権の元にあることを強調した名称で整えてはどうか。

(4)
新来会者などのために分かりやすくするという観点では、あまり細かく構造を分けるよりも、3部くらいに分けておくのが分かりやすい。

(5)
以上のことから、たとえば、次のような3部構成を試みてみてはどうだろうか。

    1.神の招き 2.神の御言葉 3.神の祝福

  (もちろん、「招き」の中には招きに対する応答としての「悔い改め」もある。もちろん、聖餐は「神の御言葉」に含まれる。もちろん、「祝福」の中には「派遣」の意味も込められている。)


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礼拝の構造(3) [礼拝]

5.実践例の分析と構造を明確にする意義

(1)礼拝の流れには「構造」がある。
 ・礼拝の要素が一つ一つ並べられているのではない。
 ・礼拝には、意味を持った大きな流れがある。

(2)教会によっていろいろな実践例がある。
 ・大きな流れにそう違いはない。
 ・いくつに分けるか、どういう名称にするかの違い。
 ・そこに、その教会の強調点や特徴が出る。
   たとえば、これまで礼拝における悔い改めが欠けていたことを憂慮して悔い改めの部分を明確にしたり、礼拝の最後は祝福だけではなく派遣でもある点を強調して「祝福と派遣」としたりなど。

※ただし、意味づけによっては、どの部に入るか明確に割り切れないこともあり得るのではないだろうか。たとえば、交読文は、神の招きに対して詩編の言葉でもって応答するのであれば神の招きの部に入るだろうし、説教箇所と関連させて交読箇所が選ばれていれば、御言葉の部に入るだろう。そして、両方の意味を持っている(意図して持たせているかどうかは別として、両方の意味を持っていると考えることができる)場合もあるだろう。意図して持たせている方の区分に入れれば良いと思うが、各区分が完全に区切られてしまうのではなく、あくまでも流れとして理解する必要がある。

(3)礼拝の構造を明確にする意義
a)流れをはっきり示して、信仰者の礼拝理解を深める。
b)新来会者などに、少しでも礼拝の流れを分かりやすく提示する。
c)以上のことを通して、礼拝そのものをより生き生きと献げ、主が現臨される礼拝として相応しく礼拝を整える。


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礼拝の構造(2) [礼拝]

4.礼拝の構造の具体例

(1)アメリカ

● アメリカ改革派教会(1988年版)
(『主の日の礼拝と礼拝指針』、キリスト新聞社、2003年。)

1.神のみ前に近づく(The Approach to God)
2.告知とサクラメントにおける神の言葉(The Word of God in Proclamation and Sacrament)
3.神への応答(The Response to God)

● アメリカ改革派教会(1968年版)
(『主の日の礼拝と礼拝指針』、キリスト新聞社、2003年、p.83。)

1.神への接近(The Approach to God)
2.神の御言葉(The Word of God)
3.御言葉への応答(The Response to the Word)

● アメリカ長老教会(1993年)
1.招集(Gathering)
2.御言葉(The Word)
3.聖餐(The Eucharist)
4.派遣(Sending)

● アメリカ合同メソジスト教会(1992年)
(United Methodist Church, "Book of Worship" の "The Basic Pattern of Worship"

1.Entrance
2.Proclamation and Response
3.Thanksgiving and Communion
4.Sending Forth


(2)日本での同様な取り組み

● 日本基督教団試用版(2006年)
  1.神の招き 2.神の言葉 3.感謝の応答 4.派遣

● カンバーランド長老キリスト教会
(『神の民の礼拝』、一麦出版社、2007年。)

  1.招集 2.御言葉 3.聖餐 4.派遣

(3)諸教会の実践例
(ネット検索と手元にある諸教会の週報による。時期はまちまち。)

● 楠本史郎『教会に生きる』p.38
  1.礼拝への備え 2.悔い改め 3.神の御言葉 4.感謝 5.祝福と派遣

● 水戸教会
  1.招き 2.神の御言葉 3.応答・献身

● 目白町教会
  1.神の招き 2.神の御言葉 3.信仰告白 4.主の晩餐 5.神への応答・交わり 6.祝福・派遣

● 経堂北教会
  1.神の招きと悔い改め 2.御言葉 3.感謝と献身 4.派遣と祝福

● 柿ノ木坂教会
  1.神の招き 2.神の言葉 3.御言葉への応答

● 仙台広瀬河畔教会
  1.神の招き 2.悔い改め 3.神の言葉 4.感謝 5.派遣

● 白銀教会
  1.神の招き 2.罪の悔い改め 3.神の言葉 4.感謝・献身 5.祝福と派遣

● 小松教会
  1.礼拝への招き 2.神の御言葉 3.感謝の応答 4.祝福と派遣

● 松永教会
  1.神の招き 2.神のことば 3.感謝の応答 4.派遣

● 金沢教会
  1.神の招きと悔い改め 2.御言 3.感謝と献身 4.祝福と派遣

● 高岡教会
  1.招き 2.悔い改め 3.み言葉 4.感謝

● 三田教会
  1.招き 2.み言葉の礼拝 3.信仰告白 4.応答 5.派遣

● 東大宮教会
  1.神の御前に近づく 2.神の言葉の宣教 3.神への応答

● 国分寺教会
  1.神の招き 2.神の言葉 3.神への応答

● 安行教会
  1.神のみ前に近づく 2.神の言葉の宣教――み言と聖礼典 3.神への応答

● 東村山教会
  1.主の招き 2.悔い改め 3.御言葉 4.感謝の応答 5.派遣

● 秋田桜教会のこどもと大人一緒の礼拝
 1.神さまは、今、私たちを招いておられます 2.神さまは、今、私たちに語られます 3.神さまは、今、私たちのささげものを受けてくださいます。 4.神さまは、今、私たちをつかわしてくださいます

● 日本キリスト教会栃木教会
  1.神の招き 2.悔い改め 3.神の言 4.感謝 5.派遣

● 日本キリスト教会袋井北教会
  1.礼拝への招き 2.御言葉に聞く 3.祝福と派遣


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礼拝の構造(1) [礼拝]

1.礼拝改革運動のうねり

(1)全体的に
ルーテル教会や聖公会を除く福音主義プロテスタント教会の中の、礼拝式文に関心がある長老教会や改革派で、19世紀末頃から、大きな礼拝改革の「うねり」が始まった。

これは、エキュメニカル運動と関わり合っているリタージカル・ムーブメントや、第二バチカン公会議による典礼刷新などとは別の「うねり」である。もちろん相互に影響はあるだろうが。


(2)スコットランド
具体的には、1645年のウェストミンスター礼拝指針から200年以上を経た19世紀半ばから、スコットランド教会内で礼拝改革運動が始まった。
(たとえば、後藤憲正、『改革派教会の礼拝――第一部・礼拝式の構造』大森講座Ⅱ、新教出版社、1987年、p.33。)

紆余曲折を経て、1940年の"The Book of Common Order"に結実。
  Church of Scotlandの礼拝式文改訂:
    1940、1979、1994。

(3)アメリカ
スコットランド教会の動きから影響を受けて、アメリカ長老教会やアメリカ改革派教会は1906年に礼拝式文を作成した。

  アメリカ長老教会の礼拝式文改訂:
    1906、1932、1946、1970,77、1993。

  アメリカ改革派教会の礼拝式文改訂:
    1906、1968、1987。

2.日本への影響

日本に伝えられたプロテスタント教会の礼拝は、アメリカやカナダの伝道熱心な福音主義自由教会からの、リタージカルな面が重視されていない伝道的で簡素な礼拝順序であった。

まさに、それを見直そうという19世紀末からの大きな礼拝改革のうねりの中に、日本の主流派と言われる教会も置かれている(はずであるが、波に乗り損ねて取り残されている)。

そのようなわけで、アメリカ長老教会やアメリカ改革派教会の礼拝式文が参考になる。

3.礼拝の構造の明確化
そういった近年の礼拝改革の特徴として、礼拝式順全体をいくつかの部分に区切って、礼拝の構造を明確にして、礼拝の流れや意味を分かりやすくするという試みが挙げられる。

これは、信仰者にとって礼拝の意味をあらためて確認させられる利点があるだけでなく、未信者に対して配慮された工夫でもある(この点はあまり指摘されていない感じであるが)。


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"Nobody is perfect" [信仰]

1.2010年6月2日、アメリカ大リーグのデトロイト・タイガース対クリーブランド・インディアンス戦で、タイガースのガララーガ投手が完全試合まであと一死のところ、審判の誤審で、完全試合を逃してしまった。 誤審をした審判は激しい非難を浴びたが、しかし、ガララーガ投手は"Nobody is perfect"「完全な人間はいない」と言った。これは、もちろん誤審した審判に対する言葉であるが、さらに、perfect gameのperfectと掛けられているとみれば、このような仕方で偉業を逃すことになってしまった自分自身をユーモアをもって言い表した言葉とも見ることができるのではないだろうか(そのとき本人がそこまで意図していたかいないかは別として)。というのも、"Nobody is perfect"はビリー・ワイルダー『お熱いのがお好き』(1959)の最後に出てくる有名なうまい台詞なのだから。

2.さて、朝日新聞2010.6.8「天声人語」は、この出来事を取り上げて、「『審判も間違える』ことを前提にゲームが成り立っているのを、よく分かっているのだろう。」と記している。「審判も間違える」とは、単に審判も人間だということ以上に、“誤りうる人間に権威を与えて、判断を委ねている”ということであろう。ここからいろいろ考えさせられる。

3.このことは、教会における教師にも通じる。神は、罪深い人間を御言葉に仕える職務に就かせて、御言葉を語らせる。教会は、その者の年齢とか経歴とかあるいは性格や何かの能力といった個人的特徴にはよらず、ただ神から御言葉に仕えるべく立てられていることでもって、その者を教師として受け入れる(一テサ5:13、ヘブ13:17)。
あるいは、信仰者一人ひとりにも言える。神は、罪深い人間に信仰を与えて、我々を御国の約束に生きる者、世に御国を照らし出す者としている。一人ひとりの信仰の歩みは様々であるが、洗礼を受けた者はみな、御国の世継ぎとされているのである。その点で、教会に属している者は皆、互いに、神に用いられ愛されている者として尊重し合う(ローマ12:10)。

4.このようにして主は、我々人間をご自身のご計画のために用い給う。詩編144:3。

献品、献金、奉仕――しがみつかない献げ方 [教会]

(1)絵画や書
 教会員の絵画や書は、原則として飾るべきではない。ひとりに許すと、わたしもわたしもとなって、断れなくなる。
 わたしたちは、自分の芸術的作品が教会の中に置かれていることでもって、満足したり、受け入れられていると感じたりするのではない。わたしたちは、御子イエス・キリストによる罪の赦しと御国の約束に満足するのであり、この主に受け入れられていることに平安と喜びを見いだすのである。

(2)献品
 献品についても同じことが言える。“この備品はわたしが献品した”というところに満足してはならない。教会への献品は、神にお献げするのであるから、たとえ役員会などで誰からの献品かが報告されたとしても、本人は自分から言い広めないのが美徳だし、誰からの献品かを知っている人も、ことさらに褒めそやすべきではない。
 教会に献げた物は教会の所有物となる。教会にとってもう必要ないのに、“これは誰それさんの献品だから”などと言って処分できないというようなことがあってはならない。教会に献品するときは、不必要になったら処分されてかまわないということを弁えて、それを言い表しておく謙虚さが必要だろう。

(3)生花、奏楽などの礼拝奉仕
 これらのことは、礼拝の際に礼拝堂に飾る生花についても同様である。出来映えはともかく、礼拝のための自分の奉仕の業が目に見える形で現されているところに、満足や奉仕の達成感を見いだすのではない。たとえ、その奉仕を離れても、わたしたちは、ひたすらに神を礼拝するところから養われるのである。
 礼拝の音楽についても同様である。奏楽や聖歌隊の奉仕をすることが許されていることは、感謝すべきことである。しかし、その奉仕がなくなっても、わたしたちは良き礼拝者であり続ける。奉仕をすることで自己実現を図ってはならないし、奉仕そのものが生き甲斐になってはならない。人気のある精神科医が著した『しがみつかない生き方』という本が売れているようだが、奉仕にしがみついてはならない。

(4)説教
 説教も同様である。説教は、説教者の聖書解釈や考え、あるいは、教会員に向けて言いたいことを言うのではない。したがって、そういうところで説教者が生き生きとしていてはいけない。キリストの贖いの御業、復活の主との出会い、神の子とされ永遠の命を与えられ、御国の約束に生かされていることに、生き生きとしなければならない。

(5)献金
 さらに、献金についても言える。会堂建築とかオルガン献金とか、特別に大きな用途のための献金が呼びかけられることがあるが、何でもかんでも呼びかければ良いというものではない。“この備品はわたしの献金で購入した”ということを自慢げに話してはならないし、“この設備は誰それさんの多額の献金で整った”などということが教会の中で言い伝えられるようなことがあってはならない。
 日本の神社だか寺だかで、石柱の一つひとつに奉納者の名が記されていることがある。あるいは、アメリカで敷石の一つひとつに献金者の名前が彫られている教会を見たことがあるが、キリストの体なる教会としては、一般的には、そのようなことはすべきでない(「一般的には」と言うのは、その教会には何かその教会なりの特殊な事情や一般論を超えて妥当な特別な考えがあってそうしたのだろうと思いたいため)。
 比較的低価格の物は教会会計ですぐに購入できるし、土地や建物、あるいはオルガンなどの購入には、十分計画を立てて献金を積み立てていくことになる。そこで、その中間の、数万から数十万円程度の備品を購入するときに、注意しなければならないだろう。たとえば、台所関連の備品を購入しなければというときに、特に教会の台所の管理に思いを注いでいる人が、それならばわたしが献金しますという思いを抱いたら、どうすべきか。新しい音響設備を導入しようというときに、教会の音楽に多大な関心を抱いている教会員から、“それならばわたしが献金しますので、性能や音質、将来性などを考えて、もっとグレードの高いものを購入しましょうよ”という申し出を受けたらどうしたらよいだろうか。
 そもそも献金は、感謝のしるしであり献身のしるしである。献身においては、この身を主に預けて、どう用いるかは主に委ねる。そのように、献金の具体的用途は教会に委ねる。教会の活動や備品について、自分としてはこういうところに献金を用いて欲しいという思いがあっても、献金はそのような思いを断ち切って献げるものである。