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幼児祝福 [教会年間行事]

1.時 期
 多くは、6月第三の「子どもの日」か、11月の七五三の時期に行っているだろう。まあ、どちらでも。

2.対 象
 未就学児対象とか、10歳までとか、小学6年生までとか。その教会のこれまでのやり方に応じていろいろ。未就学児対象の場合は「幼児祝福」でよいが、小学生まで含めると「こども祝福」という名称になろうか。

3.礼 拝
 礼拝の中の一部分だけ「幼児祝福」とか「幼児祝福式」とする方法もあるが、礼拝全体で幼児祝福を意識した「幼児祝福礼拝」とするのもよい。
 礼拝の中の位置だが、説教後だと、礼拝の最初から幼児も出席するのは困難なので、どうしても祝福を行うときになってこどもたちが礼拝堂に入ってくるという感じになる。そこで、説教までの前半は幼児と共に礼拝し、説教前に祝福を行う。そうすれば、礼拝の前半は大人も幼児も一緒に礼拝できる。
 もっとも、その時々で、幼児の人数や、普段礼拝出席している教会員の子どもか普段礼拝出席のない親子が多いかなどによって、毎年自由に工夫するとよい。

4.幼児祝福の目的
 日本基督教団の式文の中に「幼児祝福式」があるが、それは幼児洗礼を行わない場合の献児式を想定した内容である。そこで、あらためて、幼児祝福の目的を考える。
(1)神がなさる祝福を教会が取り次いで与える。祝福すること自体が目的である。
(2)神によって幼子が守り育てられていること、家庭と教会に喜びと希望が与えられていることを感謝する。
(3)幼子の信仰における成長を祈る。
(4)家族と教会が、幼子を守り育てる責任を自覚し、その責任を果たしうるよう、願う。
(5)わたしたちが神に対して子供のように信頼する信仰を持つことができるよう、願い求める。

5.祈 り
 以上の目的を考慮した祈りの例: 
すべてのものを慈しみ育ててくださる天のお父様、
 あなたはこの幼子たちを世に生まれさせ、守り育ててくださっています。感謝いたします。このことを通して、その家庭と教会に、喜びと希望とを与えてくださり、ありがとうございます。
 どうぞ、あなたの御手の内にあるこの幼子たちを、豊かな恵みをもって祝福してください。この幼子たちを、あなたの御旨に従って、心も体も健やかに成長させ、生涯 あなたの道に歩ませ、あなたを愛し、あなたの栄光を表す者としてください。そして、やがて信仰を告白し、あなたの僕として歩みますように。
 また、幼子を主にあって守り育てる責任を果たせるように、幼子それぞれの家族とわたしたちを、聖霊の助けによってお導きください。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


タグ:祝福礼拝

オットー『聖なるもの』(3) [読書メモ]


4.いろいろ

(1)カルヴァン『綱要』への言及?
第2章の原注に、カルヴァン『綱要』の中で"divinitatis sensus, quaedam divini numinis intelligentia"について語られていることが指摘されているが、『綱要』のどこだろうか。

どうやらこのとおりのラテン語原文があるわけではなくて、こういうことについて語っているということだろう。

『キリスト教綱要』1,3,1の冒頭に次のような言葉がある。
「われわれは、人間の精神のうちに、自然的衝動といってよいような、神的なものへの感覚がそなわっていることを、議論の余地のないこととして立てるのである。」
(渡辺信夫の旧訳、新教出版社、1962年、p.55)


(2)ギリシア語の表記
内容に直接関係ないが、本文中に時々出てくるギリシア語は、山谷訳でも華園訳でも久松訳でも、みなラテン文字で表記されている。

ところが、第7章の最初の部分に出てくるソフォクレスからの歌の引用だけは山谷訳と華園訳でなぜかちゃんとギリシア文字になっている。これは、原著がそうなっているのか?

また、第4章の4節中に出てくるマルコ10:32の引用はみなラテン文字で表記されているのに、第21章で出てくるマルコの同じ箇所の引用はギリシア文字。
しかし久松訳では第7章のその部分もラテン文字で表記している。せっかく同じ岩波文庫なのだからギリシア文字使えるんじゃない?

ところで、anthro^pouの活用語尾の二重母音はラテン文字にしたときoyなんてしないでouでよい。
この本に限らず、なぜかギリシア文字のuを何でもかんでも機械的にラテン文字yで置き換えられていることがよくあるように思われるが、いかがなものか?

(3)ウンゲホイアー
7章のタイトルは山谷訳では「巨怪なるもの」だったが、華園訳は「不気味なもの」。久松訳は、オットー自身が翻訳困難で最も近いドイツ語として使っている「ウンゲホイアー」をそのままカタカナで用いている。

(4)儀式的な言葉が持つ力
「ハレルヤだとかキュリエライスだとかセラとかいった聖書や賛美歌集の中にある古めかしくて意味がとれなくなってしまった表現や・・・儀式用語といったものが、礼拝的気分を減じるどころか、かえって高揚させてくれるという事実、まさにそういったものこそ特別「荘厳に」感じられ、愛好されているという事実をどう説明したらよいだろうか。・・・〔それは、〕それらによって神秘の感覚、「まったく他なるもの」であるという感じが呼び覚まされるからである。そのような感覚がそれらと結びついているからである。」
(久松訳、p.145f)





オットー『聖なるもの』

オットー『聖なるもの』(2) [書籍紹介・リスト]


3.邦訳は次の三つ

最新の久松訳を中心にしつつ、他の訳を参考にするという感じか。

以下、新しい順。


(1)久松訳

久松英二訳、岩波文庫青811-1、2010年。465頁+8頁、1197円。

付録は「ヌーメン的詩歌」と「補遺」。原注pp.375-400、訳注pp.401-433。解説はpp.435-465の約30頁にわたり、巻末にオットーの主要業績リストと人名索引。


(2)華園訳

華園聰麿(はなぞの・としまろ)訳、創元社、2005年、357頁、3360円。

著者名の表記はルードルフ・オットー。原注は各章末に置かれ、全ページの下段3cmちょっとが訳者脚注のスペースになっている。

原著の付録にあるオランダのヨースト・ファン・デル・フォンデルの「天使賛歌」とユダヤ教の新年祭の頌歌「Melek Eljon」のドイツ語訳、また本文に関する短い補注(これらは久松英二訳ではみな「付録」として訳出されている)は、一部を訳注で取り上げたほかは割愛したとのこと。

その代わり、オットーの論文集『超世界的なものの感情』から「仏教におけるヌミノーゼ・非合理的なもの」の一部が「仏教におけるヌミノーゼなもの――坐禅におけるヌミノーゼな体験」として付け加えられている。

pp.341-351が「訳者あとがき」、人名索引だけでなく事項索引があるのは便利。


(3)山谷訳

山谷省吾(やまや・しょうご)訳、岩波文庫青428(6958-6960)、1968年、325頁。後に青811-1。

オットー自身による「序文(29-30版への)」(1936年1月)あり(久松訳にはない)。

「附属論文」として、オットー『ヌミノーゼに関する論文集』から「預言者の神体験」、「随伴せる徴」、「霊的経験としての復活の体験」の三論文を「著者の意向によって、選出翻訳したもの」(解説、p.321f)。

原注は本文の各章末に置かれ、訳注はpp.315-317のわずか3頁。解説はpp.319-325。

同じ岩波文庫から久松英二による新訳が出たので、山谷訳は絶版。




オットー『聖なるもの』

オットー『聖なるもの』(1) [読書メモ]


1.表記、原題、出版年

Rudolf Otto, 1869.9.25-1937.3.7.
オットーの名の日本語表記は、「ルドルフ」だったり「ルードルフ」だったり。

原題:
"Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen"
副題の邦訳は、「神的なものの観念における非合理的なもの、およびそれの合理的なものとの関係について」(久松訳による)。

初版は1917年。原著者による最終改訂版は1936年。


2.内 容

(1)ヌミノーゼ
 神的なものについての観念は、我々の定義可能な概念で把握できる部分(合理的な部分)もあれば、それだけでなく、我々が概念として明白に把握することのできない領域(非合理的な部分でこれを「ヌミノーゼ」(Numinöse)と呼ぶ)も持っている。この非合理的な部分を合理化することは不可能であるが、しかし、可能な限り、非合理的な面の諸要素をできるだけ言語化して、客観的妥当性を追求する理論を形成することを目指す。

(2)構 成
 全23章は大きく三つに分けられる(区分の仕方は人によって異なる)。

1~10章で「ヌミノーゼ」が持つ非合理的な諸性質を現象学的に洗い出して「ヌミノーゼ」とは何かを明らかにする。

11~14章で、ヌミノーゼがどのようにして表現されるかについて旧新約聖書とルター(といってもプラトンからルター後のルター派まで)について示し、

15章以降では、聖なるものの経験のアプリオリ性などについて、また、キリスト教における「予覚」(華園訳は「直感」)(Divination)について、宗教哲学的に考察する。



オットー『聖なるもの』

テルトゥリアヌス「不条理なるが故に、我信ず」 [その他]

1.「不条理なるが故に、我信ず」あるいは「不合理なるが故に、我信ず」(Credo quia absurdum)はテルトゥリアヌスに帰する言葉として伝えられているが、テルトゥリアヌスの著作には直接は見られない。このことはよく知られている。

2.出村彰『中世キリスト教の歴史』日本基督教団出版局、2005、p.202では、一番これと近い表現として "Credibile est, quia ineptum est. Certum est, quia impossibile est." を挙げている。しかし、出典が記されていない。

3.Quasten, "Patrology Vol.2," Spectrum Publishers, 1953, p.320.に、「キリストの肉体について」("De carne Christi")の5章からの引用(英訳)が記されていた。
 "The Son of God was crucified; I am not ashamed because men must needs be ashamed of it. And the Son of God died; it is by all means to be believed, because it is absurd."

4.そこで、ネットで"De carne Christi"の原文を調べると、その5:4に次のような言葉があった。
"crucifixus est dei filius: non pudet, quia pudendum est. et mortuus est dei filius: prorsus credibile est, quia ineptum est. et sepultus resurrexit: certum est, quia impossibile."

出典はThe Latin Libraryの中のCHRISTIAN LATINの中のTertullianusのページ。

ineptusは、愚かしい、不合理な、不条理なといった意味。

5.「キリストの肉体について」("De carne Christi")の邦訳は、教文館の『キリスト教教父著作集』の第15巻に入る予定だが未刊である。

6.その他、この語に関して、The Tertullian Project"De carne Christi"のページの"Other Points of Interest"のところを参照。

(2010.11.27 ラテン語の部分を修正)
タグ:歴史