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ペンテコステが盛り上がらない理由 [教会年間行事]

 前回、「三大祝日」という記事で、イースターとペンテコステは一般になじみが薄く、教会内でもペンテコステは盛り上がりに欠けることを書いた。

1.ひとつの文献

これに関して、

日本基督教団出版局聖書日課編集委員会編、『新しい教会暦と聖書日課――4年サイクル主日聖書日課を用いるために』、日本基督教団出版局、1999年。

に次のような記述があった。

 「復活祭は、キリスト教学校では、年度替わりにあたるため、ほとんど忘れられていました。・・・聖霊降臨祭も、・・・「母の日」(五月第二日曜日)や「花の日」(六月第二日曜日)などに重なると、〔こういった〕行事暦の方が優先され、教会暦本来の聖霊降臨祭を覚えることなど意に介さなかった教会すらあったようです。」

(北村宗次「日本基督教団の聖書日課」、p.101。)

 というわけで、行事暦の方が魅力的だったということである。

2.行事暦はなぜ魅力的か

ではなぜ、行事暦の方が魅力的なのか。
 それはやはり、「母の日」はカーネーションを送るという特別な形があるし、「花の日」には病院や警察、消防署などにお花を持っていく(そういう経験を私自身、子供の頃毎年していた)。しかし、ペンテコステにはこれといって決まった形があるわけではない。クリスマスのように、リースを掛けてツリーを飾ってという定番の形がないのである。

3.ペンテコステのシンボルは何?

 それでは、ペンテコステのシンボルは何だろうか。ペンテコステのシンボルは鳩だということで、前回の記事では豊島屋の「鳩サブレー」を一押ししてみたが、一枚約105円(税込み)するし、ただそのまま配っても芸がない。(以前、教会学校で鳩サブレーの上にデコレーションしたことがあったが)

 他にシンボルとして、赤い色がある。そこで、ネットを検索してみると、ペンテコステ礼拝の日、何か赤いものを身に着けて礼拝に行くという教会がいくつもあるようだ。(もちろん、赤いものを身に着けなくてもよい)

 これなら、費用はかからないし、自分でおしゃれを工夫したり、他の人のを見るのが楽しいかも。

4.結 論

 そこで、ペンテコステ礼拝では、何か赤いものを身に着けるというのをやってみよう。

 ついでに、週報用紙も赤い紙を使ってみよう。(クリスマスとかイースターでは専用のカラーの週報用紙を使うのに、ペンテコステは何もなかったので)

タグ:教会暦

三大祝日 [教会年間行事]

1.キリスト教の祝日
 キリスト教で祝日と言えば、何よりも、クリスマス(降誕日)、イースター(復活日)、そして、ペンテコステ(聖霊降臨日)のことです。これらを三大祝日と呼びます。

2.国民の祝日との関係
 それゆえ、基本的に、キリスト教会は、日本の国が定めた祝日には関係なく活動します。日曜日であれば、1月1日であっても礼拝を休みにしたりはしません。毎週水曜日に祈祷会を行っていれば、その日が国の祝日と重なっても、祈祷会は休みにはしません。
 とはいえ、、平日の婦人会などは、学校や会社が休みで家族が家にいて教会に来られないので、休会ということもありうるでしょう。その辺は、集まる人々の状況を考慮して決められます。また、国民の祝日で学校や会社が休みになることを利用して、その日に伝道集会をしたり、修養会をおこなったりということもあります。

3.三大祝日の知名度とシンボル
 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝うということでわかりやすく、クリスマスツリーなどの飾りつけも一般に受け入れやすいので、教会とは関係のないところでもよく知られています。
 イースターは、復活などということは世間では受け入れられないため、あまり知られてはいませんでしたが、それでも、イースターエッグとかイースター・バニーがあるので、最近は、ディズニーランドでもアイスクリーム屋さんでもイースターが宣伝材料になってきました。
 しかし、ペンテコステに至っては、聖霊ですから、一般にはまったく受け入れられていなく、知られていません。ところが、シンボルとしてはハトがあり、これはクリスマスツリーやイースターエッグなどとは異なり聖書に直接基づくものです。

 そこで、ペンテコステには、鳩サブレーはいかがでしょう? 鳩サブレーは豊島屋が有名ですね。というか、豊島屋の登録商標でしょうか。鳩サブレではなく鳩サブレーと伸ばすのが正式な商品名らしいです。
 ちなみに、豊島屋の本店(鎌倉市小町2-11-19)でしか買えない鳩サブレーグッズがあるらしい。鳩サブレー型のクリップとか、レターセット、消しゴム、修正テープ、マグネット、トランプも。豊島屋のサイトhttp://www.hato.co.jp/でひみつのページを探せ。

4.盛り上がりに欠けるペンテコステ
 クリスマスには、その前にアドベントの期間があります。イースターには、その前に四旬節や受難週があります。ペンテコステにはその10日前に昇天日があります。しかし、ペンテコステの前の期間は、キリスト教の信仰者の間でも、特別な意識をもって過ごしたり準備したりといったことがなく、盛り上がりに欠ける感じがします。
 たとえば、クリスマスとイースターには礼拝後に愛餐会をするけど、ペンテコステ礼拝の後は何もないという教会も多いのではないでしょうか。ペンテコステを盛り上げる何かいいアイディアはないものでしょうか。
 いや、もしかしたら、聖霊降臨日の次の主日は伝統的に三位一体主日とされているように、ペンテコステより後が重要なのかもしれません。

5.献金の機会としても肩身の狭いペンテコステ
 クリスマス献金はあります。イースター献金も献げられます。しかし、ペンテコステ献金はあまり聞きません。イースターと時期が近すぎるので避けられ、かえって、夏のボーナスの時期に合わせた夏期献金が呼びかけられます。

6.聖霊の大切さ
 ペンテコステから始まってアドベントの数週間前まで続く「聖霊降臨節」は、教会の暦の中で最も長い期間です。聖霊なる神は、わたしたちの内に留まって、わたしたちに御子イエス・キリストを知らせ、わたしたちを御子イエス・キリストの救いに与らせてくださる、わたしたちの最も身近におられるお方です。聖霊なる神の理解と信仰をもっと深めることが大切ではないかと思います。


タグ:教会暦

ふしぎなキリスト教(2) [読書メモ]

橋爪大三郎、大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書2100)、講談社、2011年、350頁、840円+税。を読んでみた。

前回の続き。  →前回の記事

「第2部 イエス・キリストとは何か」より

 人間は自分の努力で救われたりしない。救うのは神だから、人間は自分で自分を救えない。救うのは神で、救われるのは人間である。救いは、人間の業(行為)の問題ではなく、神の恩恵の問題である。
 神が誰を救うかは、神自身が理解していればよく、それを人間に説明する責任もないし義務もないし。これをまるごと受け入れないと、一神教にならない。
(pp.184-185)

 「つまりね、人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの。それは受け入れなければならない。
 だって、そんなことを言えば、健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。そうすると、恵まれている人間と恵まれていない人間がいることになって、それは一神教では、神に愛されている人と愛されていない人というふうにしか解釈できないんです。
 そして、人間は必ず、自分より愛されている人を誰か発見するし、自分より愛されていない人を誰か発見する。これをいちいち、嫉妬の感情とか、神に対する怒りとして表明していたら、、一神教は成立しないんですよ。」
(pp.228-229の橋爪の発言をそのまま引用)


「第3部 いかに「西洋」をつくったか」より

 資本主義の精神にしろ、自然科学や合理主義にしろ、主権とか人権とか近代的な民主主義とか、あるいは、カントの哲学やマルクス主義など、宗教から独立した、あるいは宗教色を脱した概念だと一般的に見なされているものも、実は、キリスト教という宗教の産物である。キリスト教から脱したと見えるその地点こそが、まさにキリスト教の影響によって拓かれている。そういう逆説が、キリスト教のふしぎの一つだ。
(pp.295-328あたり、特にp.316、322)

 グローバリゼーションとは、「ふしぎなキリスト教」に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、深く交流したり、混じり合ったりするということ。これによって、「西洋」に由来する「近代」にも限界や問題があることが明らかにされ、自覚されるようになってきている。キリスト教に下支えされてきた文明がどのように変容していくか。あるいはどのように自分を乗り越えていかなければならないのか。それが次の主題である。
(p.341)

 「キリスト教のインパクトが、よい意味か悪い意味かの判断は措くとしても、いかに大きいかということ、そのインパクトが伝わったり、残ったりするときの論理がいかに屈折したものであったかということ、こうしたことがわかってもらえればいいかなと思います。」
(pp.341-342の大澤真幸による最後の文章)

タグ:一般の新書

ふしぎなキリスト教(1) [読書メモ]

橋爪大三郎、大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書2100)、講談社、2011年、350頁、840円+税。を読んでみた。

 英語タイトルは”Wonders In Christianity”

 信仰を脇に置いた聖書学的常識すら踏まえていなかったり、そもそも宗教社会学的な視点でキリスト教を捉えようとしているので、信仰理解としてそうではないというところも多々あり、一般向けの自由でざっくばらんな対談なので厳密な議論をしているわけではなく、売れることを狙った新書であるので・・・などなどいろいろあるところには目をつぶって、批評とか反論とか感想ではなく、興味深い発言(必ずしも全面的に賛成するわけではないが)を私なりに抜き出したり、言葉を整理して言い換えたり。


「第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教」より

 一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点からこの世界を見る。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけではダメ。神から見たらどう見えるかを考えて、それを自分の視点にする。
 多神教は、神から見るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になる。
(p.55)

 この世界は不完全である。そこで人間は、「神さま、この世界はなぜ不完全なんですか」と神に語りかけ、対話をしながら日々を送ることになる。この世界が自分にとって厳しく不合理に見えるときほど、対話は重要になる。
 これが試練ということで、試練とは、現在を将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、それを引き受けて生きるということ。
 信仰とは、不合理なことを神との関係によって解釈していくという決意である。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事もいろいろ起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意するのである。
(pp.78-79)

 偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではなく、偶像をつくったのが人間だから。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点だ。
(p.88)

 ヤハウェは、天に大きな拡声器をつけて「私はヤハウェです。みなさん、私の言うことを聞きなさい」とやってもいいが、そうしないで、預言者を選んで、彼だけに語りかける。残りの人々は、預言者の言葉を聞いて、神の言葉だと信じる。つまり、神の言葉は、それを神の言葉だと信じる人々の態度とともにしか存在できない。ヤハウェは、このように神と人間との関係を設計した。こうして、神の言葉を信じる宗教共同体が存在し始める。
(p.113)

 世界を造られた神は、必要があれば自然法則を一時停止させることができる。これが奇蹟である。自然法則の普遍的な支配(科学的な合理性)とその例外的な停止(奇蹟)との間には、表裏一体の関係があるのであって、呪術対科学という対立の中で、奇蹟は、むしろ科学の側に属している。よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいるが、一神教に対する無理解もはなはだしい。「科学を信じるから奇蹟を信じる」というのが一神教的に正しい。
(pp.117-118)

→続きの「ふしぎなキリスト教(2)」へ

タグ:一般の新書

『ミニストリー』の八木谷(6) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その6。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

ミニストリーvol.6(2010夏)

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

「ここが困ったウェブサイト part1」

A 基本情報が抜けている

八: はじめてそこに行ってみようという人が第一に求めるものは、具体的な道順。最寄りの駅やバス停からの順路を示した地図はぜひほしい。バスの時刻表にリンクを張るなどの工夫も。

八: 基本情報以外にも、礼拝堂やその教会の雰囲気がわかるような写真、教役者の氏名、写真、プロフィールなど、教会の沿革、教会が全くはじめての人のためのQ&Aなどがあると、はじめての人にとってありがたい。


B 更新されていない

八: 更新する余裕がないなら、せめて年に一度はトップページに出てくる年や日付を新しくして、生存証明を。

私: ウェブサイト作りを精力的に進めてきた信徒がいなくなったり、積極的に取り組んできた牧師が交代してしまうと、教会ホームページもそれっきり・・・ということがよくあります。「せめて年に一度は日付だけでも新しくして生存証明を」とは、たいへん有益な提言です。


八: サイトを担当してくれた人がいなくなるとサイトが放置状態になる実例があることから、教会の公式サイトを誰かが単独で背負い込むのは危険。また、サイト運営の中心人物が何らかの事情でアクセス不能になったときのため、ファイル転送の設定情報などを複数の人間が共有し、管理するバックアップ体制が肝心。

私: 日本の教会の規模だと、たまたまウェブページ作成の好きな人が教会に来るようになって、初めて教会のホームページが立ち上がり、その人の他には誰も手を出せないということがあるのでは。また、時には、そのようなウェブページ作成者がたいへん自己本位で、役員会の提言を聞こうとせず、会議での協議もしようとしないなどということもあったり。



C 責任の所在が不明
八: 公式サイトなのか、一信徒による非公式サイトなのか、はっきりさせておいたほうが信頼性が高い。

私: 独自ドメインでない場合に特に必要ですね。


八: 記載されているメールアドレスは、誰が受け取って誰が返事を書くのか、プライバシーは守られるのか、そういったあたりも記しておいてほしい。

私: 大切なご指摘ありがとうございます。




『ミニストリー』の八木谷(5) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その5。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

なんと、絶版になっていたと思った八木谷涼子著『知って役立つキリスト教大研究』がパワーアップして、『なんでもわかるキリスト教大事典』として朝日新聞出版から朝日文庫の一つとして2012年4月刊行! 略称は、「なんテン」とのこと。

さて、

ミニストリーvol.5(2010春)

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

「礼拝はいつ終わる?」

A 礼拝の終了時間

八: 新来者にとって、終了時間は重要。心の準備が違ってくるし、礼拝後に別の予定も決められない。

八: 礼拝後に「報告」のアナウンスや「来週の讃美歌の練習」などがあって時間が延びる時も、あらかじめ告知されている終了時間でひとまず退出できるチャンスを与えてほしい。


B 礼拝後のティータイム

八: 女性陣が全員あれこれせわしなく立ち働いているのに、男性陣が全員座ってお茶か食べ物が出てくるのをぼーーーっと待っている――そんな姿を見たとき、いたたまれない思いをした。

八: 基本的には女性に対しては女性が応対するほうが無難。


八: コーヒーの苦手な人もいるので、口に入れるものを出す際は相手の意向を確認してほしい。

私: わたしもコーヒー、ダメです。




『ミニストリー』の八木谷(4) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その4。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

ミニストリーvol.4(2010冬)
「ついていきにくい礼拝」

A 何を参照すればよいのか分からなかったり、参照するものが多い。

八: アナウンス無しにいきなり皆で祈りを唱えたり歌ったりすると、何を参照すればよいのか分からないので、きちんとアナウンスする。

私: 讃美歌の番号ははっきり告げるとか、聖書のページを告げた後、会衆が開けているか見回して確認してから朗読し始めるなども、気をつけたい。わたしも、初めての教会の礼拝に出たとき、司式者が式文のページを告げた後すぐに読み始めちゃって、自分がそのページをようやく開いたときにはもう終わっちゃったところだったりすることがあります。


八: 参照するものが多すぎる場合もある。『讃美歌』を歌って次は『聖歌』を歌うなど。その日に参照するものが一つの冊子にまとまっているなど、とにかく「とっかえひっかえ」の頻度は少ないに越したことはない。

私: 自分でもあっちこっち見るものが多いなあと感じているのに、どうすることもできなくて、すいません。なんとか、「主の祈り」だけは、「讃美歌21の93の5Aにあります」と言うのはやめ、備え付けの『交読詩編』の裏表紙見返しに貼り付け、「備え付けの『交読詩編』の冊子の裏表紙の見返しをご覧ください」などと言うようにしました。プロジェクタを活用したいですが、プロジェクタを置く場所とスクリーンのスペースがないのは難点です。


B 説明不足

八: 献金と聖餐を新来者にどう説明するか。その局面に、その教会の誠実さがはっきり表れる。

私: うちの教会では、今年度から聖餐の説明を週報に入れました。献金の説明は、新来会者に渡す別紙に記しています。


C 建物や設備の問題、その他

八: 会堂が暑すぎる。寒すぎる。

私: すいません。まさにうちの教会のことです。コンクリート打ちっ放しの礼拝堂なので、夏は暑すぎ、冬は冷え切ってます。新来者に限らず、礼拝出席者が空調などを気にせずに礼拝に集中できるようにすることが大切ですね。空調の効き具合や音響の調子を調節するために礼拝中役員がうろいろするのも、おかしなことです。


八: 備え付けの本の字が小さすぎる。照明が暗すぎて読めない。

私: 讃美歌や聖書は大型のものが出版されています。『新共同訳聖書』はA4サイズのものも販売されています(うちの教会は受付に常備済)。『交読詩編』も大型のものがあるといいのにと思います。

私: 教会によっては、少し薄暗い方が雰囲気があるなどという根拠のない意見が幅をきかせたりすることがあります(ついでにいうと、礼拝堂はノアの箱船をイメージしてとか、ステンドグラスがあったほうがいいとか、やっぱりパイプオルガンをなどというのも根拠レスですね)。
 讃美歌を見たり聖書を見たりするならば、図書館並みの明るさを参考にすべきでしょう。

・JISの「照明基準総則」(規格番号Z9110))http://www.jisc.go.jp/app/pager?id=90089や「屋内作業場の照明基準」(規格番号Z9125)http://www.jisc.go.jp/app/pager?id=89892 では図書館の閲覧エリアは500ルクス以上、

・全国学校図書館協議会の学校図書館施設基準http://www.j-sla.or.jp/material/kijun/post-38.html では、机上照度は300ルクス以上

・日本図書館協会編『図書館ハンドブック』第5版(1990年)によると、読書には最低でも500ルクス程度が必要とのことらしい。


八: 椅子が硬すぎて長く座っていられない。

私: これもすいません。だいたい、どこの教会の礼拝堂でも、長椅子の設計が昔ながらで現代人に向いていないと常々思っています。狭い会堂にできるだけ多くの人が座れるように小さめのサイズで作ってあるのではないでしょうか。長椅子ではなく一人掛けの椅子にしている教会は、おおむね座りやすそうです。


八: 「お体にさわりのある方はどうぞ座ったままで」などとアナウンスがあると気が楽になる。

私: 自分の説教でない礼拝のときに会衆席にいて、たまたま体の調子がひどく悪くて立っているのがつらいことがありました。お年を召した方などは毎週大変だろうとその時初めて思い、その後、年に何回かですが、礼拝の最初の方の讃美歌や主の祈り、交読詩編を全部座ったままで行っています。

私: 「どうぞお座りのままで・・・」を週報にも記載し、アナウンスもするとよいですね。心がけています。どういう文言だっけかな。でも説教中に座っていられないとなると、「説教中に突然立ち上がって伸びをしてもかまいません」と書かねば。


D その他

八: 拘束時間(とくに説教の時間)が長すぎて・・・

私: ほんとにすいません。m(_ _)m


八: 礼拝終了予定時刻が記されているといい。

私: はい、検討します。


八: 「乳幼児連れのお母さん専用室あります」とあると、子連れママも安心して行ける。

私: あることをちゃんとアピールしなければ、せっかく設備があっても、意義が半減ですね。


八: 手の内側に皮膚疾患を持つ方にとって、「当教会では握手をします」とあらかじめ分かると助かる。

私: 普段の礼拝の中で握手をする習慣はないですが、いろいろな方への配慮が大切ですね。


E 全体として

八: 新来者のために(あまりコストのかからない形で)工夫できることがあるのではないか。あと少しの配慮があれば、新来者も教会員もさらに楽になる。


ツィポラ、割礼、血の花婿(3) [聖書と釈義]

出エジプト記4章24~26節

注解書が紹介する諸説に惑わされず、聖書そのものをちゃんと読む。

15.血は、過越そしてイエス・キリストを指し示す
 モーセは血が塗られることによって、命が助かった。このことは、家に小羊あるいは山羊の血を塗ることで神の裁きから救われることを指し示している(12:13)。
 さらに、過越の血は、わたしたちがイエス・キリストの血によって滅びから救われることを指し示している。

16.主との間を取り持つツィポラ
 モーセを主の殺害の手から救ったのは、ツィポラである。ツィポラは、主とモーセの間の仲介者として行動した。仲介者の存在と業によって救いが行われることも、イエス・キリストを指し示している。

17.異邦人ツィポラとイスラエルの救い
 しかも、ツィポラはミディアン人だった(2:16~21)。この異邦人ツィポラの働きによって、ゆくゆくは、イスラエルの民がエジプトから救い出されることになる。このことはさらに、異邦人全体の救いによって全イスラエルが救われるという神の「秘められた計画」(ローマ11:25~26)を指し示している。

(完)