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無神論と無宗教の違い [宗教の神学]

 朝日新聞2012年8月13日の9ページの「まなあさ」面に掲載されていた姜尚中(かん・さんじゅん)の講演より。

 講演の趣旨は、宗教と政治を学ぶことが行き詰まりを見せている日本にとって必要だということだが、無神論と無宗教の違いが語られていて、興味深かった。

 そのあたりの部分のわたしなりの言い換え。


 大学生に「どんな信仰を持っているか」と聞くと、異口同音に「無宗教」と答える。しかし「それは無神論ということか」と重ねて問うと、答えられない。

 無神論は「神はいない」と考える立場を明確にしている。それに対して「無宗教」というのは、宗教への思考停止の状態だ。ところが多くの学生は、なぜか、無宗教は無色透明で中立的な立場だと考えている。

 同様に、「どんな政党を支持しているか」と聞くと、多くは「無党派」と答える。これは、宗教も政治も、「話さない方がいい話題」とされてきたためだ。

 しかし、宗教と政治こそ、世界を動かす大きな力だ。この二つを避けてきたことが、今の日本の苦境や、展望が開けない状態につながっているのではないか。だから、この二つを学ぶことを勧める。

ヴァルター・リュティ [書籍紹介・リスト]

ヴァルター・リュティ(Walter Lüthi, 1901.1.5 - 1982.9.3)

今年の9月3日でリュティ没後30年。

(ちなみに、2012年9月3日はドラえもん生誕マイナス100周年だっ。)


1.邦訳リスト

 邦訳出版リストは、野崎卓道(のざき・たかみち)訳、『祝福される人々 山上の説教講解』、新教出版社、2009年。の「訳者あとがき」にある。

 ただし、次のものが抜けている。

 井上良雄編訳、『我は初めなり、終わりなり』(新教新書43)、新教出版社、1960年。

2.生 涯

 リュティの生涯についても、野崎卓道訳『祝福される人々 山上の説教講解』の「訳者あとがき」に記されている。

 その中から、面白いエピソードを一つ。

 牧師になっていたリュティが、祭りの時に友人たちとビールを飲んでいたら、リュティを知っているある女性教師が、牧師がビールを注文するとは何事かと咎めた。彼女は断固たる禁酒主義者であった。リュティはこの女性と結婚した。

3.祈祷会での学び

 訳者は、自身の教会の聖書研究祈祷会で9回に分けてリュティの『祝福される人々 山上の説教講解』を学んだとのこと(「訳者あとがき」、p.168)。

 ちょうど私も祈祷会で「山上の説教」の「幸い章句」をじっくり取り上げようと考えていたので、この訳者の言葉に惹かれて、この本をテキストにしてみた。

 ところが、いきなりこの本を読んではちょっと消化しきれない。そこで、この本を祈祷会の出席者皆で読む前に、例えばマタイ5:3では、旧約から「貧しい」とはどういうことか、新約では「貧しい」とはどういう意味か、「天の国」とはどういうことかなどを、聖書箇所を多く挙げて整理しつつ確認していった。

 そうしたら、1節を学ぶのに一月以上かかり、祈祷会30回を超えてまだ「幸い章句」を続けている。


リュティ『あなたの日曜日』 [読書メモ]

リュティ『あなたの日曜日』新教出版社(157×207mmほぼA5サイズ)ヴァルター・リュティ(宍戸達訳)、『あなたの日曜日』、新教出版社、2002、123頁、1995円。

原著は"Dein Sonntag"で、発行年が記されていないが、「訳者あとがき」によると、調査の結果1949年と判明したとのこと。

 現代においてなお日曜日を礼拝の日とすることに関する19の短編集。

気になる言葉のメモ(そのままの引用だったり、わたしなりの言い換えだったり)。



 ノコギリは、使った後にはゆるめておく。ヴァイオリンもケースに納める前に。ゆるめておく。機械を動かしていたベルトは、土曜日の午後、歯車からていねいに取りはずして休ませる。人間だけが休息をなくしている。休息は、ぜいたくではなくて、労働と結び付いた必要な事柄だ。
 ところが、現代人は、日曜日になっても週日の労働感覚に突っつかれて、歩いたり、乗ったり、泳いだり、飛んだり、転がったり、滑ったり、その他、このようなことしかできなくなっている憐れな人間になっている(チャップリンが「モダン・タイムス」で描いたように)。
(pp.10-11、30あたり)


 神の休息は、造られたものが極めて良かったために、造り主として喜びをもってそれを顧みられることである。同時に、神の休息は、この造られたものが完成すること、すなわち、自由と喜びをもって顧みられて完成に至ることである。
 しかし、それでも十分に言い尽くせていない。結局わたしたちは、「神の休息とは、まさに神の休息なのだ」としか言いようがない。
 そして、神は、御自身のこの休息の中に、わたしたちをも参加させようとなさっている。神は、その休息をわたしたちと共に過ごそうとなさる。わたしたちは、神と共に過ごすことを許されている。
 日曜日は、単なる休息の日ではなくて、神を礼拝する日であり、交わりの日である。
(p.24あたりとpp.98-99あたり)


 「祝福」を意味する聖書の言葉「ユーロギア」は「好ましい知らせ」、「好ましい言葉」という意味を持ち、神は日曜日を特別に祝福された。しかし、「好ましい知らせ」は、日曜日だけでなく、どの日にも注がれている。
 日ごとに御言葉の祝福に出会うには、朝のわずか15分でよい。日ごとにわたしたちが神に立ち戻ることこそが大事であって、人間は神に立ち戻って初めて、隣人に対しても立ち戻れるようになる。
(p.43とp.71あたり)


 わたしたちの礼拝は、ひどくみすぼらしいと思わずにはいられない。日曜日ごとに行われていることがいかに首をかしげざるを得ないものかと思うと、とても不安で落ち着いていられない。
 しかし、地上で礼拝するわたしたちがどんなに首をかしげざるを得ないものであるとしても、日曜日は地上で始められて天上に至るのではなく、逆に、天上でまず起こり、ここ地上のわたしたち人間のもとに降ろされてくるのだ。
 天使や聖徒たちが神の御前で献げる礼拝こそが本来の礼拝である。地上での礼拝は、うまくいってしるしのようなものか、神の永遠の安息日がちょっぴり顔をのぞかせたようなものである。
(pp.103-104あたり)
(ということは、礼拝を執り行い、整え続けることはわたしたちに与えられた重要な務めではあるが、しかし、地上での礼拝はそのようなものであるゆえ、礼拝のことで不要に神経をすり減らす必要はなく、また、あるべき論を振りかざすべきでもない。うまくいかなくても失望したり落胆しなくてよい。)


 日曜日が神の日曜日であることは、週日にも及んでいる。恵みによってのみ生きる人、そういう人に日曜日があり、そういう人にだけ、もはや、日曜日を特別に区別しなければならないような「仕事日」などはない。
(pp.117-118あたり)

髙橋力『風に吹かれて――会津伝道ものがたり』 [読書メモ]

髙橋力、『風に吹かれて――会津伝道ものがたり』 髙橋力、『風に吹かれて――会津伝道ものがたり』、日本基督教団出版局、2012、221頁、2100円。を読んでみた。

名字の「髙」の字は、はしごの高。
(著者の名の読みは「ちから」だが、親しい人は「リキさん」と呼んでいるらしい。)

気になる言葉のメモ(そのままの引用だったり、わたしなりの言い換えだったり)。



 教会のある集会中、牧師の赤ん坊が泣き出したので、牧師は子どもの面倒を見に行った。
 すると、ある信徒が言った。「御言葉を語ることより自分の子どものことを優先させた」。「牧師が御言葉に集中すべき集会の最中に、おむつを替えるなどとんでもない」。

 自分の信仰に熱心になる人ほど、他人に冷たくなる。

 クリスチャンのあるべき論を振りかざしていたその人は、やがて礼拝から遠ざかった。
(p.146あたり)


 牧師には少なくとも10日間の休暇は与えなさい。なぜ10日間か、それは、2回の日曜日の礼拝を他所で守れるからだ。できるだけ日本基督教団ではない他教派の礼拝に参加するのがお薦めだ。異なるものとの出会い、そのような刺激的な体験が牧師に必要なのだということを教会の役員さんたちに認識してもらいたい。
(pp.197-198あたり)


 礼拝マニュアルを時間をかけて創った。単なる順序ではない。司式者、オルガニスト、献金奉仕者等々、スムーズな動きを検討した。聖書朗読はただの読み方ではない。誤読はなく、目を閉じて聞いても分かるように十分に読み込んで準備する。祈りの用語にも留意する。例えばドラマのように語られる一つひとつがメッセージとして繋がり、思いが込められるようにと願いながら仕上げた。
 ・・・礼拝が何であるか、その意味を深める表現が湧いてくるには何回も繰り返して自己吟味が要る。牧師と役員などの礼拝をめぐる議論は尽きることはない。決まりごとに従って礼拝が進めばそれでいいということはない。時には会衆と共に学び直すことが肝要だ。礼拝学という学問が各問として成り立つだけでなく、その礼拝者の人生が主イエスの体として成長するまでに役立てられねばなるまい。
(p.203)