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ガブリエル・マルセルの問題と神秘 [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.24-27より。

フランスの哲学者で、「20世紀のソクラテス」と言われたらしい、アルフォンス・デーケンの恩師、ガブリエル・マルセルの「問題」と「神秘」について。

わたしなりの言葉でのメモ。


マルセルは、人間が直面する現実を「問題」と「神秘」の二つの次元で考えた。

「問題」は、客観的に見て、知識や技術で解決することができるもの。

「神秘」は、コントロールすることも把握することもできない深い領域。愛、自由、人間、自然、出会い、存在、誕生、生、死、悪などが挙げられる。


今の教育は、ほとんどが問題解決のための技術的な教育に偏り、「神秘」の次元に属するものを「問題」の次元で解決しようとする傾向がある。


人為を超えた「神秘」に対峙するときは、自分の限界を認め、素直な驚き、謙遜、畏敬、開かれた心を持って向き合うことが大切。


苦しみも神秘の次元に属するものであり、簡単な解答はない。しかし、どうしようもない苦しみにさらされたときも、事態をあるがままに受け入れて眺めれば、苦しみに埋没することなく、新たな段階へと踏み出してゆくことが可能となっていく。




赦す [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.77より。

「赦す」ということについて。

わたしなりの言葉でのメモ。



赦すとは、感情的なことではなく、意志の力による行動である。


感情に支配されてしまうこともある中で、意志によって、「赦す」という自由な決断ができる。


赦すとは、相手を一人の人間として全面的に評価しようとする自発的な行為である。


赦したと思っても、否定的な気持ちが残っていることもよくある。傷が深ければ深いほど、否定的な感情はなかなか払拭できない。それでも、意志のレベルから赦そうと努力する。すると、感情のレベルでも少しずつ変わっていく。



佐古純一郎「愛は応答である」(2) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。(その2)


社会の形成
わたしたちは、人と人とが応答的関係によって結びついている「責任社会」(responsible society)を形成する責任を負っている。

情報化社会の中で、伝達された情報に対して主体的にのぞみ、自己に対する問いかけとして聞き、誠実な応答をすべきである。そのようにして、わたしたちは責任社会に対して連帯し参加することができる。

人類の自滅を免れるために
自己中心性を原理とする利益社会は、人々をますます利己的にし、世の中を人と人とが互いにかみ合い食い合う世界にし、自然を破壊している。

もしわたしたちが、自己中心性を絶対化して、すべての存在を自己の欲望の充足の前に手段化し、利用するという生活態度から、根本的に生まれ変わらないなら、人類の文化はおそらく自滅を免れないだろう。

わたしたちが今しなければならないことは、クリスチャンになるということよりも、真実に神の前に立って、わたしがほんとうに「わたし」になり、あなたがほんとうに「あなた」になることである。

教育
人格的な応答としての「愛」が、わたしたち日本人の生活の中に欠けている。

まず自らを、何ものにも代え難い、かけがえのない「わたし」として深く自覚できるような教育が必要である。

そのために、わたしたちはまことの「言」(ことば)を聞かなければならない。根源的な「言」(ことば)に立ち帰らなければならない。

そのような真の「宗教」に根を下ろしている教育を真剣に考えなければならない。



佐古純一郎「愛は応答である」(1) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


他者の欠落
自己中心的に、自己の幸福と利益の追求という自己目的として自己の人生を捉えると、他者が欠落してしまう。

そこでは、他者の存在は「利用価値」という価値判断によってのみ計られ、人と人との人格的関係が成立しない。

自己認識
我々は、他者との関係の中でのみ自己を認識でき、他者との関係の中でこそ自己を認識できる。

他者と自分とが、何らかの価値によってではなく、「わたし」と「あなた」という人格的関係にあるとき、私たちは自分が「人格」であることに目を覚まされる。

そのために、他者からの問いかけを真実に聞き、誠実に応答することで、他者との応答的な関係を作り出すことができなければならない。

他者に応答的になれる場所
キルケゴールやマルティン・ブーバーが言う「単独者」でしかないこのわたしが、どこで、真実に他者からの問いかけを聞き、誠実に応答できるのだろうか。

わたしを「人格」として創造してくださった神は、わたしを人格的な「あなた」としてしか取り扱わない。そのような神の前に立つとき、わたしはほんとうに「わたし」である自己を知らされ、真実に自己を主体的な存在として自覚できる。

このような神を、わたしたちはイエス・キリストを仲立ちとして知ることができる。

自己を愛する
自分を愛するとは、自分を、人格的自己として、真にかけがえのない「わたし」として大切にするということである。

自分を真実に「わたし」として愛することができる心は、どこで取り戻すことができるか。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という言葉のもとに自己を連れ戻すことにおいてである。

それは、創造主との正しい関係の中に自己を置くことであり、キリストの十字架によって可能とされる。

隣人を愛する
自己を愛することができるとき、わたしたちは、他者をも自己と同じく「人格的存在」として、真実に「あなた」と呼ぶことができる。

他者との応答的関係を築くために、誠実に他者に耳を傾け応答することが、「あなた」を愛するということである。この意味において、愛は応答(レスポンス)である。

自己の存在の中に人格としての「わたし」を知ることのできる心だけが、他者の存在を人格的な「あなた」として認識することができる。これが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の意味である。



佐古純一郎「愛の力」 [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛の力」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


愛は「生かす力」である。

(1)
愛は、自己を生かす力にもなり、他者を生かす力にもなる。

自己を生かす力としての愛は、自己中心的な愛であり、「自己愛」である。

自己愛において、他者は人格的な存在として認識されておらず、物的な利用価値としてしか価値づけられていない。

これが絶対化されて私利私欲の充足に向かうと「利己愛」になる。

(2)
「自分を愛する」とは、利己愛ではなく、自己愛でもない。

自己の人間性を大切にし、自らの存在を人格的存在として深く自覚し、自らを生かそうとする。

そうしてこそ、他者をも、物的存在ではなく人格的存在として認めることができる。

ここに、他者を自己の幸福や利益の手段とするのではなく、よりよく生かす力としての愛が発動する。

(3)
しかし、我々は自己中心的な愛を捨てることができない。

そこで主イエスは、
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
と言って、わたしたちのために死んで復活され、自らわたしたちを愛によって生かしてくださっている。

他者を生かす主イエスの愛によって、このわたしはほんとうに生かされている。

この、他者を生かす力である愛に、自らの人生の根源をしっかり置いて、きょうを生きていく。

(4)
このような主イエスが、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
と言われるのだから、それは不可能なことなどとあきらめないで、主イエスの愛に誠実に応答して、他者を生かす力としての愛をわたしたちも持っていきたいと願う。