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最近の山我哲雄の著作 [書籍紹介・リスト]

私もこの世界を学び始めた最初は山折哲雄と混同したが、山我哲雄(やまが・てつお)の方。

最近というのは、だいたい2011.3.11以降ということで。


『キリスト教入門』(岩波ジュニア新書792)、岩波書店、2014年。
第1章 ユダヤ教とキリスト教
第2章 ナザレのイエス
第3章 キリスト教の成立
第4章 キリスト教の発展――キリスト教の西と東
第5章 ローマ・カトリック教会
第6章 東方正教会
第7章 宗教改革とプロテスタント教会
おわりに キリスト教と現代


『一神教の起源――旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩選書0071)、筑摩書房、2013年。
第1章 一神教とは何か
第2章 「イスラエル」という民
第3章 ヤハウェという神
第4章 初期イスラエルにおける一神教
第5章 預言者たちと一神教
第6章 申命記と一神教
第7章 王国滅亡、バビロン捕囚と一神教
第8章 「第二イザヤ」と唯一神観の誕生


『海の奇蹟――モーセ五書論集』、聖公会出版、2012年。
11論文集
「モーセ五書」の成立
失楽園物語と王権批判
ノアの呪い
アブラハムの祝福
ハガルとイシュマエル
アブラハムとアビメレク
「有りて有るもの」
「海の奇蹟」
祭司文書における供犠と浄、不浄の体系
祭司文書の歴史像
「モーセ五書」の最終形態について


・『日本の神学』53号に鈴木佳秀による書評あり。
・『基督教學』48号、北海道基督教学会(2013年)に古賀清敬による書評あり。
・『本のひろば』2013年5月号に月本昭男による書評あり。


並木浩一、荒井章三編、『旧約聖書を学ぶ人のために』、世界思想社、2012年。
この中の第4部「旧約聖書は現実をどう捉えているか」の第1章「自然と人間」、及び、第5部「旧約聖書研究史・文献紹介」を執筆。

「旧約聖書研究史・文献紹介」は2段組34ページに渡る。全体的に初学者を意図しているが、これだけでも、牧師必携であろう。

この中で、山我哲雄自身が監修者の一人に加わっている『新版 総説 旧約聖書』(日本基督教団出版局、2007年)について、「より最近の動向を踏まえたものだが、最近の旧約研究の多様性というか、悪く言えば定説不在の混乱ぶりを反映して、正直に言ってややまとまりの乏しいものになってしまっている」とのこと(p.304)。


[翻 訳]

K. シュミート、『旧約聖書文学史入門』、教文館、2013年。
 →全目次付きの紹介記事(2015.10.14のブログ)


これの前の翻訳は、オトマール・ケール『旧約聖書の象徴世界――古代オリエントの美術と「詩編」』、教文館、2010年、なんと9400円+税! 高くて買えません。。。


(2015.10.14加筆)


高齢者祝福礼拝の時期と名称 [教会年間行事]

2011年9月21日のブログで、高齢者祝福礼拝の目的や対象者などについてまとめておいたが、さらに、いつ行うかと名称について。

1.いつ行うか
キリスト教として特に決まったことはないと思うので、別に1年の中でいつでもいいのだが、国の休日で9月の第三月曜日となっているので、その近くが分かりやすい。

大概は、第三月曜日の前日の日曜日ということになろう。

ところが、その日は必ずしも第三主日というわけではなく、年によって第二主日のこともある。2014年がそうだった。次回は2025年。

毎年第三主日と思い込んでいると、忘れた頃に第二主日になるのでびっくりする。

まあ、国の休日とは関係なく、第二なら第二、第三なら第三と決めてしまってもいいかもしれない。

なお、今年2015年のようにシルバーウィークとかいう連休になったりすると、ご家族とご旅行に行かれていて、せっかくの高齢者祝福の礼拝に出席されない方が出てくるかもしれないが、それは考えてもしかたないでしょう。

2.名称をどうするか
「記念礼拝」という言い方は、過去の出来事を記念するときに使う(創立○○年記念礼拝など)。

「感謝礼拝」というのも、おかしい。高齢者に感謝するのではなく、神に感謝する。もし感謝礼拝という言葉を使うとすれば、長寿感謝礼拝か?

一番いいのは、幼児祝福式とか成人祝福とかがあるので、私の仕えている教会ではそれぞれ幼児祝福礼拝、成人祝福礼拝としているのに合わせて「高齢者祝福礼拝」がよい。

「老人祝福礼拝」はしっくりこない。「敬老祝福礼拝」は変。

ただ、幼児祝福や成人祝福は、祝福を受ける対象の者が明確であるのに対し、高齢者祝福の場合、対象者を明確にするには年齢で線引きをしなければならない。

年齢での線引きに関しては、2011年9月21日のブログ記事を参照

対象者を明確にしなくても「高齢者祝福礼拝」とするか、それとも少し観点を変えた名称にするか。

一案として、高齢の方々を敬う側がいなければ敬老にならないという観点から、「高齢者を覚える礼拝」という名称はどうだろうか。

3.参考資料
・中村公一「高齢者への祝福」、『礼拝と音楽』140号、2009年冬号、pp.36-37。「敬老祝福式」の招き、聖書箇所、祈りなどの実践例が紹介されている。

・『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、一麦出版社、2007年のp.166に、「長老祝福の祈り」が1例のみあり。

・日本基督教団の『口語式文』や『式文試用版』にはない。



タグ:祝福礼拝

教会の○○周年記念誌の編集 [教会形成]

『教会アーカイブズ入門』いのちのことば社東京基督教大学教会アーカイブズ研究会編(山口陽一、鈴江英一、新井浩文、杉浦秀典、阿部伊作著)、『教会アーカイブズ入門――記録の保存と教会史編纂の手引き』、いのちのことば社、2010年、143頁、1300円+税。


この中の

第2章、鈴江英一「3年あれば、教会史はできる――札幌元町教会40年史を例に」

をもとに、柏教会での経験も加えながら、記念誌(年史)の作り方のまとめ。

というか、柏教会の記念誌作成に当たって、この本に大いに触発された。


1.教会史を製作する意義
①神が教会に下してくださった恵みの確認
②教会の歴史と活動の共有
③なされた伝道の成果の証し
④これからの教会形成や宣教方向を考えるための材料と機会の提供と励まし

2.資料整備なくして教会史なし
執筆に取りかかりたいというはやる気持ちを抑えて、編集の入り口の土台をまず固める。
まして、複数の執筆者による共同作業では、資料の全容を明らかにし、情報を共有することが不可欠。

(私のメモ: 記念誌編纂のための資料: 教会総会議事録、教会総会資料、役員会議事録、月報、週報、配布物綴り、会計の帳簿等、委員会の記録や集会記録など)


3.出典を明らかにしておく
1枚のカードに一つの事項を記録したカード(カード型データベース)を作成する。
こうすることで、教会史にいちいち出典を掲げなくても、元資料に立ち戻ることができる。

(私の意見: この本でも触れられていたかもしれないが、たとえば、ある講演会で実際になされた講演のタイトルが何であったかを知るのは難しい。毎年度の教会総会の資料は他のところから転記してきた二次的なものなので転記ミスがありうるし、役員会議事録にも実際の講演題が正確に記録されていないことがある。事前に作成して配布されたチラシに記されている講演題は仮の題かもしれないし、週報の予告もあくまで予告である。当日のレジメがあればよいが保存されていないこともある。これら全体を総合的に判断して、実際になされた講演題を推定するという作業を行わなければならない。)


4.構成の細部まで刻み込んでから執筆を始める
教会史はボリュームに限度があるはずなので、章、節、項のめやすとなるページ数が決まる。
もちろん、執筆の過程で変わってくるが、あらかじめ分量を設定しておくと、書き過ぎないよう自制が働く。

項は、さらにその細目のレベルまで分解し、そこに何を記すべきか、留意点、出典や資料の箇所を明らかにしておく。この作業を飛び越えて執筆を始めると、どこかで行き詰まることが多い。

全体や細部の構成は、執筆を進めていく中で変わっていってかまわないし、変わっていくのが当然。

5.事実を客観的に書く
資料に裏付けられたことを記す。
文章も、極力客観的な記述を心がける。
原稿は、編集委員会で全体的な統一、整合性を図り、調整する。

(私の意見: この本によると、『札幌元町教会40年史』では、「執筆者の意図を尊重しつつ」文章を調整したとの基本方針を立てたようだ。しかし、初稿の執筆者の意図が必ずしも明確でなかったり、望ましいものではない場合がある。そのような場合、委員会で十分議論して執筆すべき内容を明らかにし、担当者に書き直してもらうか、あるいは委員会で直接文章を練ることになる。その他のこととして、表現などで意見が割れる場合には、元の執筆者の表現を採用するという判断をする場合もある。)


(私の意見: このように、委員会で文章の細部まで調整するため、初稿の執筆者は、自分が執筆した文章が真っ赤に添削されることも受け入れることができる謙虚さと冷静さと客観的な視点を持ち合わせた人が望ましい。というか、そのように鍛えられる。牧師である私が書いた文章も、真っ赤に修正が入ったこともあった。)


「客観的な歴史があり得るかというのは、歴史の書き方に絶えずつきまとう問い」である。それゆえ、「資料に基づいて正確に書くことに努め、執筆者の個人的な評価や感情、感想を加えることなく執筆する」態度が重要である。

「恵みによって」とか「主の導きによって」と言った表現はしない。

6.能動態か、受動態か
能動態で書くか、受動態で書くか。

この本では、「文章の主語を明確にすること、受動態の文章は極力避けること――つまり能動態で書く――ことです」ということを各執筆者に「特にお願いした」とのことである。「たとえば或る問題を提起したのは、牧師か、役員会なのか、教会学校教師会なのか、はっきりさせておくということです」。

私の意見: ケースバイケースであるが、必ずしもそうすべきではなく、むしろ、それは記すべきではないことが多い。それは、礼拝順序の変更にしろ、新たな伝道方策の提案にしろ、行事の見直しにしろ、集会の持ち方にしろ、教会形成の重要な展開にしろ、多くの場合、最初は誰かが提起したのであろうが、取り組むべき教会の課題として役員会が審議に取り上げたのであるからである。たとえば総会での誰かの発言がきっかけで新たな動きが始まっても、その人が言い出しっぺであることが重要なのではなく、総会という主の御心を尋ねる場がきっかけとなったのである。  教会史に記される教会の歩みの主体は教会であるが、それは、すなわち、教会の中の全部門とイコールであり、教会員全員とイコールのものである。したがって、たとえば年表に記すような教会の活動は、基本的にすべて教会がその行為の主体であり、それゆえ、原則として受動態で書くべきである。


私の意見: っと書いてみたが、実際は、文章が全部受動態だったり全部能動態だったりすると、メリハリがなくなる。そこで、柏教会の記念誌では、自然と適宜使い分けることになった。箇条書きにすれば主語を省略してもおかしくならないので、「いついつから、○○するために、○○を行った。」とか、「いついつから、○○のために、○○が行われた。」言った書き方を混在させることになった。


私の意見: 箇条書きにしたのは、何よりも客観的な記述を目指したためで、文章で執筆するとどうしても接続詞などが入ったりして客観性が薄れるので、すべて箇条書きにした。



『創立60周年記念誌 柏教会この十年の歩み 2003年~2012年』こうしてできあがったのが、60周年記念誌編集委員会編、『創立60周年記念誌 柏教会この十年の歩み 2003年~2012年』、日本基督教団柏教会、2014年、A5判、205頁、印刷:シャローム印刷。である。


タグ:読書メモ

なぜセレブレーションオブラブに乗らないか? [伝道]

日本基督教団の多くの教会は、なぜ、セレブレーションオブラブのような集会に乗らないのか?

ビリー・グラハム、フランクリン・グラハム以外でも、クリストファー・サンとか、あるいはいろんなムーブメント(ずいぶん前にプロミス・キーパーズというのが流行った)、国内ではジェリコジャパンとか甲子園リバイバルミッションとかいろいろあった。最近ではラブ・ソナタとか。

もちろん、ペンテコステ・カリスマ系の集会には、そういう傾向を持った教会でないと関心を持たないし、ワーシップソングをガンガン歌っている教会でないとまったくついて行けないという集会もあろう。

説教者の神学が合わないとか、スキャンダルが報じられたり、アメリカでの政治的立ち位置が問題視されることもある。

もちろん、関わるかどうかは各個教会の判断による。
だから、日本基督教団の中にも、そういったムーブメントや集会に教会として関わったり、教会員に積極的に参加を呼び掛けたりする教会もあるだろう。

でも、別に統計を取ったわけではないが、たぶん、日本基督教団の多くの教会は、関心を持たないと思う。たとえ、その集会に特定の教派的傾向がなく、説教者にスキャンダルもなく、政治的な立ち位置も問題ないとしても。


なぜだろうか。


1.そもそも、ムーブメントに興味を持たない体質である。

やがてそのうちはやりが過ぎ去る時が来るような新しいものには振り回されないで、地道に伝道するんだという体質がある。

そういう体質なのだから、関心を持てと言われても無理である。

別にアレルギーがあるわけではないけれど、納豆はおいしいし体にいいからぜひ食べろと言われても、小さい頃から食べてきた経験がないので、無理な人には無理であるのと同じである。


2.大衆伝道に対する親和性がない。

伝道は各個教会が、あるいは信徒一人ひとりが、コツコツ行うものだという意識が強い。

また、有名な伝道者・説教者にキャーキャー言うミーハーな信仰を持っていない

まあ、賀川豊彦のころまではそういうところがあったかも知れないが。

良くいえば、人気があるからといって安易に権威付けたりしないというか、悪く言えば、頭でっかちの信仰なので、人々から褒めそやされている人がいるとハスに構えて批判したがるクセがあるというか。

そういうわけなのだから、無理に東京ドームとか連れて行かれても、何だか気疲れして帰ってくるだけ。普段礼拝をささげている教会で、静かに説教を聞くのが体に合っているのである。


3.教職制度が堅固である。

礼拝の説教者は、原則として、教団の教師か教団と宣教協約を結んでいる教会の教師に限られる。別に規則に明記されていなくても、そういうものだという意識がある。(たまには神学生が説教したり、牧師が休暇の時には信徒が説教することもあるだろうが、あくまでも例外的なこととして捉える)

そのため、他の教派の牧師を主日礼拝の説教者として呼ぶことは、教団のほとんどの教会では考えられないことだろう。(別に他の教派の牧師職を否定するわけではないし、伝道集会とかで呼ぶことなどはあり得るだろうが)

他教派の牧師に毛色の違う信仰を教えられては困るというような思いを持っている人もいるかもしれないが、そういうことでなくても、説教は教団の教師がするのが当然という教職観というか説教者観が、大衆伝道とか、超教派の伝道集会などの際にも働くことがあると思う。


夏休みにどこの教会にいくか [その他]

「牧師が休暇をいただいて、日曜日に、家族でどこの教会に行くか」問題について。

教会の敷地内に牧師館があったりすると、休暇の日曜日にうろうろしているところを信徒に見られたくないので、前日から旅行に出たり、朝早く出発したり。

しかし、小さな子どもがいる場合、なかなかそうもいかないこともある。

電車が不便な地域では、車で出かけることになる。

あらかじめ「今度そちらの教会に出席します」などと連絡しちゃうと、「じゃあ、せっかくなので説教を」などと言われて休暇にならなくなっちゃうので、連絡はしない(笑)。


ネットでいろいろ調べて、情報収集する。

1.礼拝開始時刻
これはたいがい、ホームページに書いてあるので安心。

2.こどもの礼拝出席
おとなの礼拝前の教会学校からは行ってられないので、親子室があるか、それとも、普段からおとなと子どもが一緒に礼拝している形式かなどが重要。

でも、そういった情報がホームページに書かれていないことが多い。特に親子室の有無が。

3.駐車場
これも、何台くらい止められるかの情報はほとんどない。
そのため、停めそこなうことのないように、かなり早めに到着するように、出発しなければならない。

4.説教者
せっかく礼拝に行くのだから、その教会の牧師の説教を聞きたいが、そこの教会も牧師が夏休みだったりして、信徒が説教だったりすることがある。

そういう、次の日曜日の礼拝の説教者の情報というのも重要だと感じる。ホームページでというより、ツイッターやフェイスブックで情報発信している教会は、割とそういったリアルタイム性のある情報も得られるかな。

5.教会の規模
少人数の礼拝に子連れで行くと、うちの家族だけやたら目立っちゃう。しかも子どもがぐずったり、走りまわったりして、親としては礼拝に集中できない。
(うちの教会に来ている、小さいお子様を連れた方は、いつもそうなんだなあとつくづく知ることになる)

また、子連れだと、礼拝後に「昼食もご一緒に」とか引き留められると困っちゃうことがある。

知り合いの牧師がいる教会に行くときは別として、夏休みで来ただけで、礼拝だけで失礼したいという場合は、礼拝が終わったらさっと帰りたい。

そのためには、比較的人数の多い教会がいい。

でも、平均の礼拝出席者数をホームページに記している教会は少ないんじゃないかな。


というわけで、まとめると、

教会のホームページやSNSなどに、
・親子室などの有無
・駐車場の情報
・次主日の説教者
・平均の礼拝出席者数
を明記しましょう。