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NGな教会の外看板 [伝道]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社、2013年)を参考に(というか、ほとんどそのまんま)、教会の外看板のNGをまとめた。必要に応じて、コメントあり。

わたしの見たところでは、教会の外看板には、
  固定的な内容を記した「案内看板」
と、
  頻繁に中身を張り替える「外掲示板」
とがある。

案内看板は、昔はペンキ、今はカッティングシートで作成されていて、集会案内と牧師名、電話番号などが記されているもの。

外掲示板は、前面がガラス窓になっていて、磁石か画びょうでプリントを張るタイプが普通か。


● NGな案内看板

・傷んだ看板に、はがれかけた文字
・ガムテープで修正、しかもそれがボロボロ
牧師名が前任者のまま
・現在とは時刻等が異なる集会案内
・電話番号に市外局番がない

※ガムテープは劣化が激しいので、ガムテでの修正は絶対やってはいけません。今は、カッティング文字で一文字単位で修正できるので、業者に頼みましょう。

※携帯電話やスマホで電話する人が多いので、掲示板に限らずチラシ等でも、市外局番は必須。


● NGな外掲示板
・ガラスケースの掲示板が、砂ぼこりだらけ
・とっくに終了したイベントのポスター
・文字や紙の色あせ
・日に焼けてぼろぼろの磁石 (2017.5.29追加)


● 共通のNG
・掲示板本体のサビや亀裂、蜘蛛の巣
・下が雑草だらけ
・字が小さすぎ
・誤字脱字
礼拝は誰でも参加OKということが書かれていない



もっと教会を行きやすくする本 [書籍紹介・リスト]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本』縮小.jpg八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』、キリスト新聞社、2013年。


帯が、
「雑誌「Ministry」の人気連載「新来者が行く」を単行本化!」
「初めて来た人には、こう見える。」
「全国100以上の教会を訪ねてきた”プロ”の目で総点検!」

教会へのアクセスから礼拝が終わるまでの全ての関門について、新来者がつまずく箇所を総点検し、新来者への配慮に満ちた教会を提言する、大変耳の痛い指摘に満ちた、全5章。「Ministry」連載記事を元に大幅に加筆。

2014年キリスト教本屋大賞受賞。

著者のサイト「くりホン キリスト教教派の森」は、情報満載!(たぶん昨年(2016年)にURLが変わった)




大まかな内容

1.教会に行くまで
 外掲示板
 会堂内外の立て看板
 地図に載っているか
 電話応対など

※電話のガチャ切りについて

「電話をガチャ切りされた教会にぜひ行きたいと思う人はあまりいないでしょう。・・・電話ガチャ切りが身についた牧師の説教は聞きたいとは思いません。」

ガチャ切りする牧師が多いとは、わたしも以前から感じている。電話ガチャ切りの牧師の説教は聞かなくていい。

ただ、フックを指で押して電話を切る作法を知らない人は、牧師以外にも多い。(押す時間が短すぎると「保留」になってしまうということもある。)

もっとも、今後、固定電話でも親機のコードレス化が進むのか分からないが、そうなれば、「切」ボタンを押して電話を切るようになっていくんじゃないかな。

それとも、「じゃあね」とか「失礼します」などのキーワードで受話器を耳から離すと自動的に電話が切れるというヤツが、固定電話にまで広まったりして。


2.初めて礼拝に出てみる
 入り口の場所のわかりやすさ
 入りやすさ
 遅れてきた新来者への配慮
 受付での応対と動線
 名札
 新来者カードと紹介タイム
 新来者に何を渡すか
 どこに着席するかなど

3.礼拝の難しさ
 礼拝についていけない(何を参照していいのかわからない、とっかえひっかえの頻度が多すぎ。)
 使徒信条や週報にふりがなを
 献金用封筒
 献金や聖餐式の説明を
 身体的な困難(室温、照明、椅子が硬い、音響など)
 平和の挨拶
 礼拝の終了時刻を明確になど

※この章の中で、「新来者にもやさしいOHP礼拝」は第2刷から「新来者にもやさしいハイテク礼拝」に変更されたらしい。

※とっかえひっかえの頻度について

確かに、多くの教会の礼拝では、見るべきものが多すぎる。讃美歌、交読詩編、聖書は旧約聖書何ページをお開きください、次は新約聖書何ページをお開きください、主の祈りのプリント、使徒信条のプリント、週報に記された報告をご覧くださいなどなど。

牧師であっても、初めての教会に行ったときは目が回る。

ということは、この「とっかえひっかえの頻度」問題は、かなり重大である。

もっとも、新来会者に対しては、初日からついて行こうとしなくてもいいという見解は目から鱗。



4.教会とインターネット
 基本情報をわかりやすく
 困ったサイト
 再訪したくないサイト
 音声配信・動画配信での注意
 弛緩した礼拝になっていないか

※基本情報とは、住所、アクセス方法、分かりやすい地図、礼拝時間、終了予定時刻も、電話番号かメールアドレス。


5.後奏
 お葬式のこと
 超教派の教会マップの事例
 名刺サイズの教会案内カードのあれこれなど。



結論としては、

すべての牧師と役員は一度は目を通すべき本
ただし、現実には5年や10年では変えられない点も多い。
少しずつできるところから変えていく。
日頃から、新来者への配慮を心に掛けていることが、何よりも大切。




これまでに私が書いたブログ記事:
「林家三平、八木谷涼子」(2012.01.23)
「『ミニストリー』の八木谷(1)」(2012.02.14)
「『ミニストリー』の八木谷(2)」(2012.02.15)
「『ミニストリー』の八木谷(3)」(2012.03.07)
「『ミニストリー』の八木谷(4)」(2012.05.09)
「『ミニストリー』の八木谷(5)」(2012.05.10)
「『ミニストリー』の八木谷(6)」(2012.05.11)
「『ミニストリー』の八木谷(7)」(2012.07.21)
「『ミニストリー』の八木谷(8)」(2012.07.22)




石井錦一『教会生活を始める』2 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。
前回のブログの続き。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。



奉仕について

1.不満や愚痴のあるところ、奉仕なし
奉仕というものは、自発性が基本であり、神のためにせずにはおられないという気持ちから出発する。その思いなしに奉仕をするときに、必ず不満や愚痴が出てくる。不満や愚痴のあるところに、まことの奉仕はない。(p.55)

2.まことに救われた者こそ
まことの救いを体験した者は、どうしても、主の十字架の道を共に歩まずにはおれなくなる。まことの奉仕の生き方は、何よりもまず、わたし自身のまことの救いから始まる。(p.145)

3.忙しい人こそ
様々な奉仕や伝道活動に参加をして、忠実な教会生活をしている人は、家でも仕事でもヒマのある人がしているかというと、逆である。職場や家庭で責任をもって活動している人が、教会の中でも重要な働きの担い手となる。忙しい生活であればあるほど、教会生活から充実した信仰が与えられる。(p.199)



信仰の継承

1.子どもも一緒に礼拝
日本の教会は説教中心の礼拝になっているため、説教を理解できる大人だけが礼拝に出て、説教が分からない子どもは説教を邪魔する存在と見なされてしまっている。しかし、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、御言葉語られている、その中に、分かっても分からなくても置かれるということ、子どもと共に礼拝の場にいるということが大事である。このことは、教会教育の大事さとは別のことである。(p.66-67)

2.信仰の継承と子育て
子どもにも信仰の自由があるという美名のもとに、結局何もしないことは、無責任である。(p.185)

子どもを育てるということは、親が親として、共に育っていくことだ。(p.195)

3.教育とは忍耐である
教育とは忍耐である。この忍耐には二つのことがある。一つは他人に対する忍耐、もう一つは、自分自身に対する忍耐である。この、自分自身に対する忍耐が、一番難しい。一人の人間が成長していく道筋は、長い時間を待つ心と忍耐、そして、自分自身に失望しない忍耐が大事である。神は、数千年の間、絶えず忍耐をして、旧約の民を教え、導き、ついに、イエス・キリストを遣わして、人間の救いを成就された。この忍耐と希望の神を、わたしたちは信じている。(p.209)

4.家族の救いを求める信仰
自分だけ信じていればという考え方は、間違っている。日本の教会がいつまでも、家庭から孤立して逃げ出してきた信仰者の集団であるかぎり、一代限りのキリスト者で終わり、教会の成長発展は望めない。(p.170)

5.家族の救いのために
たとえ見える現実は不可能であろうとも、神、もし許し給わば、必ず家族のすべての者が救われると確信しなければならない。信仰を趣味のように考えて、自分の都合で出たり出なかったりの教会生活をしていて、どうして家族を信仰に導けるか。(p.170-171)



その他

●まことの聖霊信仰
わたしたちがキリストを信じ、キリストに従い、教会の中に生きることは、聖霊の導きなしには起こりえない。そして聖霊は、御言葉の説教と聖礼典を通してわたしたちに力強く働いていてくださる。この聖霊を信じて生きることが、まことの聖霊信仰である。(p.31)

●霊の結ぶ実
霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22-23)は、わたしたちがキリスト者として成長、成熟することであり、キリストにしっかりとつながっているなら、キリストの命がわたしたちの中に流れて、わたしたちは霊的に成長して実を結ぶようになる(ヨハネ15:4)。キリスト者が結ぶ実は、わたしたちの隣人に福音を伝え、伝道することである。(p.232-233)

●信仰生活と教会の法
わたしたちは洗礼を受けたとき、「日本基督教団の教憲・教規に従い、・・・」という誓約をしてキリスト者となった。教会の法のもとに教会生活をすることを決意したのである。しかし実際には、教会の雰囲気とか、あの信徒・この牧師が気に入らないからしばらく礼拝を休むなどと、非常に感覚的、情緒的な教会生活を送っていないだろうか。
(p.115)

●出発点としての洗礼
洗礼を受けるとは、神に信頼すること、すべてをまかせることである。「神さま、あなたを信頼して洗礼を受けます。これから幾度つまずき倒れるかもしれませんが、何度でもあなたから洗礼を受けた出発点を忘れずに生きていきます。よろしくお願いします。」ということである。(p.119)

洗礼を受けてキリスト者となるということは、冠婚葬祭をすべてキリスト教ですると決意することだ。様々な抵抗や問題があるかもしれない。結果として、やむを得ずキリスト教でできないようなことがあっても、できるかぎり、このような生活のあり方をしていきたいという努力をすることが必要である。(p.130)

●すべての信仰者に求められている献身
献身は、神が求めておられる人間の生き方である。神を信じて生きることは、献身して生きることである。献身とは、あらためて何かをすることではなく、信仰に忠実に生きることである。(p.154-155)

●緊張味のある役員会を
役員会は、教会員の転出入や財政に関することの事務的なことを協議しているだけでは、緊張味を欠いている。こんなことでは、教会をして堅実ならしめていくことはむずかしい。(p.160)

●己の死を正しく見つめる
キリストの福音は、十字架の死より復活の生を、喜びをもって信じることである。キリスト者こそ、己の死を正しく見つめて、その死に至るまで本当に生きることを知っているものだ。(p.179)

●救いとは
救いは、苦痛や刑罰からわたしを解放することではない。神は、苦しみに耐えうる聖霊を与えることによって、わたしを救いたもうたのだ。(p.191)

●自分を愛するように
自分の心を見せられたら卒倒しかねないわたし自身だが、その自分自身を本当の意味で大切にできる人が、また、人を愛し、人を大切にしていくことができる。(p.193)

●この世のもの以上に
教会生活の中で、いつしか、はじめのころの喜びと感謝が消えていく。イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロと同じように信仰以前の自分の生活に帰っていくより他ないと思っているわたしたちに、復活の主は問いかけておられる。「あなたは、キリスト者の少ない社会の中で、未信者の家庭の中で、誘惑の多い学校の中で、そして、自分の趣味や、もっと自分がしなければならないと思っている勉強や仕事の中で、・・・それらのもの以上に、わたしを愛するか」と。(p.203)

●悔い改めとは
悔い改めとは、どれだけ悪いことをしたか、どんなでたらめな生活をしてきたかということではなく、生き方そのものの方向転換である。自分を絶対化していた者が、神を絶対とする生活をすることである。真の悔い改めのために、第一に罪の自覚をすること、第二に罪を捨てることである。自分の罪を告白し、赦しを求めるだけでなく、自分が今までよしとしてきた生き方を全部捨てるのである。間違った罪の生き方から、すべて離れて生きる決心である。イザヤ書55:7。(p.220-221)

神は、人が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。具体的には、日曜日ごとに神の家なる教会に帰ることである。真に悔い改め続ける者は、いつも教会に帰るべきところを見いだしている人である。(p.221)

●慎むべきときと、逃げ出してはならないとき
教会の中で問題を感じ批判をもったときに、安易に自分の正しさを主張することは慎まねばならない。しかし、福音の本質、聖書の基本的な原理がないがしろにされていく現実に対しては、わたしたちは逃げ出してはならない。(p.235)




石井錦一『教会生活を始める』1 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。


信仰の甘えを克服して成長する

1.主の鍛錬
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。」(ヘブライ12:5)
神は、父なる神であるゆえに、わたしたちを真実な信仰者とするために、訓練される。これまでの人生で一度もこのような痛みを経験したことがないならば、その人は本当に神の子であるかどうか疑わしい。(p.14-15)

2.凝り固まった自分が変えられる修養会
教会生活を続けていると、いつの間にか、自分の理性や生活の中でキリスト教や教会生活をとらえてしまい、一つの固定観念によって自分の信仰をよしとしてしまう。それが変えられるのが、修養会だ。
数日の修養会は、自分の信仰と生活が徹底的に変えられることを求める時だ。修養会に参加していながら、礼拝は月一度しか出られないとか、わたしはこの程度の信者なのだなどと、居直ったおしゃべりををしていては、何の信仰の前進も生まれない。(p.60)

3.自分の信仰に満足しない
もし、わたしたちがほんとうに生けるまことの神を信じるなら、自分をごまかして、まあこのくらいでいい、これでも一応信じているのだという自己満足に我慢ができなくなるはずだ。(p.139)

4.「隠れキリシタン」のような生活では信仰は滅びる
教会の中でどんなに熱心に活動し伝道していても、教会の外で「隠れキリシタン」のように生活していたら、なし崩し的に信仰は滅んでいく。自分の信仰をはっきり言い表して、信仰について恐れず語ることができる信徒でありたい。このように決心して信仰に生きるとき、必ずあなたのすべての問題に希望と喜びと感謝が与えられる。(p.159)

5.甘ったれた信仰
今のわたしたちの教会生活は、甘えの教会生活である。牧師には自分の都合と要求を満たしてくれることを期待し、信徒同士では、自分の信仰はだめだが、相手に対しては完全なキリスト者像を要求する。少しでも期待に反すれば、あれでも牧師か、これでもキリスト者かと言っている。 甘ったれた信仰、甘ったれた教会生活がある。信仰の訓練を受けるということが、今日のキリスト者に最も大切な事柄である。訓練はつらいし、きびしい。逃げ出したくなるが、その訓練に汗を流し、涙をぬぐってやっていくときに、本当の自立したキリスト者が成長してくる。(p.161)

6.自分自身を問われているか
説教を通して、御言葉に厳しくせめられ、自分自身を問われる時、それを一番強く共感し、自らの痛みとして受け取る人たちは、もっとも誠実に信仰に生きている人たちである。ほんとうに聞いて従わなければならない人たちは、しばしば、それは自分のことではないと考えている。(p.201)

7.厳しさを通しての成長
人が成長していくには、様々な蹉跌に会うし、挫折に出会う。蹉跌や挫折に会うごとに、今まで知らなかった自分に出会っていく。(p.217)

8.実際の生活の上で信じているか
理屈としては、主イエスはどんなことでも可能であるお方だと信じている(ヨハネ11:22)。しかし、実際の生活においては、その信仰とはまったくかけ離れた生活をしていないだろうか(ヨハネ11:39)。今ここにいる主イエスが復活であり、命である(ヨハネ11:25)。わたしたちは、マルタと共に、死人のよみがえりを現在のこととして示すイエスの前に立って生きる。(p.229)



祈りについて

1.己の無力さを知る
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)。このことが分からないと、祈り求めても、自分で少しはできるという気持ちになってしまう。しかし、どんなにすばらしい知恵も力も、神の前には無力である。わたしには何もないという無力を自覚したとき、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という偉大な全知全能の神のすばらしさを知る。(p.34-35)

2.できる限り大きな夢を持て
どうしたらすばらしい信仰生活ができるか、どうしたら自分の家庭をしあわせにできるか、どうしたら仕事や勉強をよりよくしていくことができるか、という夢を毎日、新しく持つ。すると、これを実現するための具体的な祈りをすることができるようになる。そのように、神のために、主イエスのために、教会のために、たくさんの大きな夢を持て。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・」(1ヨハネ5:14-15)。この御言葉に信頼して、できる限りの大きな夢を持つことが大切である。(p.36-37)

3.祈りのはじめに神を賛美する
神を礼拝し賛美するときに、中心は自分から神へと変えられていく。自分中心のままで神を賛美することはできない。神への賛美が祈りのはじめに出てくるとき、わたしたちはまことの祈りの場所に立っている。(p.38)

4.神にすべてを打ち明ける
神にすべてを打ち明けることは、祈りの中で一番つらく苦しいことである。しかし、まず自分の弱さと罪を率直に神に打ち明けるなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハ1:9)。それだから、神にすべてを打ち明けるために、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。・・・どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と祈るのである(詩編139:23-24)。(p.39-41)

5.聴かれない祈り
(内村鑑三「聞かれざる祈祷」(娘ルツ子の死の直後に語られたもの)から)
わたしたちは、ただひたすらに、神の御心に従順になり、イエス・キリストによってのみ、祈りのすべてが聴かれることを確信しなければならない。聞かれない祈りは、神が御自身へとわたしを引きつけようとして設けられた、恵みの手段である。祈りが聞かれるかどうかを神に対してためすのではなく、むしろ、恵みに与るため、恵みのもとにあることが明らかになるために、聞かれない祈りがある。霊自らが、わたしたちのために取りなしてくださる(ローマ8:26)。これを知っている者は、祈りが聴かれないことがあったとしても、ひたすら祈り求め続けることを忘れない。(p.126-127)



伝道について

1.証しの訓練
教会は、主を証しする訓練を教会員にしなければならない。そして、一人ひとりの信徒が証し人となって、他の人々をキリストのもとに導くのである。このことを忘れた教会は成長せず、この主の招きに答えない信徒は、自分ひとりの信仰にとどまってしまう。(p.49)

2.伝道的のための捧げ物
伝道のためには、時間も生活も、わたしたちが考えるよりはるかに多くのものを捧げなければならない。そうしなければ、一人の信仰者を得ることができない。(p.51)

3.伝道の困難
伝道には困難がある。仕事でも勉強でも、苦労しなくてできるものはない。まして、一人の人を導いて神を信じるに至らせるには、もっとも大きな苦労と困難がある。(p.162)

4.伝道的に生きる
伝道は、計算したり、損得を考えたりしたら何もできない。伝道するのだとかまえないで、日常的に伝道的に生きる生活をするほかない。自分の生きている姿勢を変えることだ。それは、いつも聖書をぶら下げ、人に会えばキリストの話をするということではない。いま、このときに、このわたしにだけできること、このわたしがしなければならない生き方を真実にし続けることによって、証しされるような伝道をすることはできないだろうか。(p.165)



続きは、「石井錦一『教会生活を始める』2」で。