So-net無料ブログ作成

十字架刑 [信仰]


主イエスの十字架刑について

1.残酷な十字架刑

ローマ帝国の処刑方法

犯罪人を十字架にはりつけにする処刑方法は古代の諸民族に多く見られるようですが、ローマ帝国は、奴隷などが大きな罪を犯した際に十字架刑を行いました。ローマの市民権を持つ者には十字架刑は用いられなかったほど、厳しい刑罰でした。

はりつけの木の形

はりつけにする木の形にはX型、T型などがありましたが、主イエスが掛けられたのは十字型のものでした。それは、罪状書きが上に掲げられた(マタイ27・37、ルカ23・38、ヨハネ19・19)ことからも分かります。

横木は背負わされて

十字架刑は、犯罪人を付けてから地上に立てる場合と、十字架を立ててからそこに犯罪人を付ける場合とがありました。主イエスの場合は、十字架の横木を背負わされて町の外の刑場まで歩かされ、そこにはすでに十字架の縦木が立てられていました。

釘は掌か手首か

十字架への付け方は、犯罪人の手首に釘を打ち込むか、縄で縛るのが通常だったようです。主イエスの場合はヨハネ20・24~29から、手のひらに釘を打たれたと見なされています。

すぐに絶命したのか

十字架刑に掛けられると、通常1~2日かけて死に至りました。しかし主イエスの場合は、わずか6時間ほどでした(マルコ15・25、34~。44節も参照)。

そのまま晒された死体

十字架刑は、人前で見せしめに行われ、また、すぐに絶命するのではなく時間をかけて死に至らされ、さらに、死後もそのままに晒されて猛禽の餌食とされました(主イエスの場合はアリマタヤのヨセフがその日のうちに遺体を引き取った。マルコ15・42~45ほか)。それゆえ、十字架刑はきわめて屈辱的で残酷な刑罰でした。

2.ローマ帝国による刑罰

ポンテオ・ピラトの判決

主イエスはローマ帝国の裁判によって十字架刑の判決を受けました(ヨハネ19・10)。その判決を下したのが、ローマ帝国から任命されてローマの属州ユダヤの総督になっていたポンテオ・ピラトでした。

世俗の裁判の意味

ユダヤ教の宗教裁判ではなく、世俗の裁判で死刑判決を受けたことが重要です。それは、主イエスの十字架刑による刑死が、世俗の全領域に及ぶことを意味しています。わたしたちの日常生活のすべてのみならず、国家や政治にも、主イエスの十字架の死の支配が及んでいます。

3.神の呪い

「木にかけられ者」の意味

旧約には十字架刑は出て来ませんが、申命記で、木に掛けられた者は神に呪われたものとされています(申命記21・22~23)(なお、この箇所の新共同訳の「木にかけられた死体」という訳は「木にかけられた者」に訂正されています)。おそらく、死体が晒されて猛禽の餌食となったむごたらしさが、神の呪いを受けたと理解されたのでしょう。

この言葉はガラテヤ3・13で、主イエスがわたしたちのために呪いとなってくださって、律法の実行によって義とされようとする呪いから信仰による義へとわたしたちを贖い出してくださったのだと受け止められています。

神への全き従順

主イエスの十字架刑は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」ものであり(一ペトロ2・24)、主イエスがこのような十字架につけられたことは、神への全き従順によるものでした(フィリピ2・8、ヘブライ12・2)。

4.十字架の愚かさと伝道

十字架のつまずき

主イエスが残酷な十字架刑に処せられたことは、一般の人からすればまことに目を覆いたくなる忌まわしいものでしたが、しかしそれがわたしたちのためであったと受け止める者にとっては救いの出来事です。

現代においても、十字架は人々にとってつまずきとなるものですが、信仰者へと召された者にとっては神の力がそこに現されているものです。十字架のキリストは、「召された者には、神の力、神の知恵」(一コリント1・24)です。

十字架を誇りとする

それゆえ、世の人々にとってはまったくつまらぬものに見える十字架を、しかしわたしたちは誇りとします(ガラテヤ6・14)。それは、十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めるほどです(一コリント2・2)。

神の救いの力

わたしたちは、このようなキリストの十字架を宣べ伝えます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」(一コリント1・18)なのです。

(初出:『柏教会月報』、第405号、2017年3月号、p.1。)


証し、殉教、神学生 [信仰]

神学校日関連で、考えたこと、聞いたことのメモ。


証し

他の人の証しを聞いて、「ずいぶん大変な経験をされたのね。知らなかった」と思って終わりでは意味がない。

他の人の証しは、神の恵みの具体的実例である。そこに人間の思いを越えた神の導きや偉大さを見出すのである。


殉教者

殉教者が命を賭して証しした信仰も、その人の信仰がすばらしかったとか、我々の理想だとかするだけでは意味がない。

殉教者の生き様を知って、それほどまでに信頼すべきキリストの真実に触れたい。そうしてこそ、「キリスト者の血」が「種」となるだろう。

(もっとも、テルトゥリアヌスは違う意味で "semen est sanguis Christianorum"「キリスト者の血は種である」(『護教論』、50:13)と言ったと思うが。)


すべての信仰者

殉教者が出るような時代でなくても、信仰者がここに集められているという事実が、神の選びの恵みの具体的実例である。


神学生

神学生が教会にいる意義は、教会員にとって、主の召しの具体的実例に日々触れることができるということである。

(この趣旨のことをある先輩牧師から伺った。)



父、子、聖霊の呼び方 [信仰]

 文章や神学的な講演であれば、「父」、「子」、「聖霊」と言ってよいだろうが、説教や、特に祈りの中では、呼び捨てにしているようで、しっくりこない。

 そこで、「御」を付けて、「御父」、「御子」、「御霊」としてみるが、これをどう読むか。

1.邦訳聖書の表現
 新共同訳では、「おんちち」、「みこ」である。聖霊や霊に「御」を付けた表現は見あたらない。
 新改訳は、「みちち」、「みこ」、「みたま」で統一されている。
 フランシスコ会訳(1984年改訂版)は、「おん父」、「おん子」で、聖霊や霊に「おん」を付けた表現はざっと見た限りでは見あたらない。

2.統一する?
 べつに無理に統一しなくてもよいが、あえて表現を揃えるとしたら、「おん子」、「おんたま」と言うよりは、「みちち」、「みこ」、「みたま」の方がはるかにしっくりする。

3.祈りの呼びかけ
 しかし、実際に祈りとして父なる神に呼びかけるとき、「み父!」とか「み父よ!」という呼びかけはなんだかしっくりこない。「おん父!」の方がまだいい感じがするが。
 そうすると、やっぱり「御」は付けずに、「父よ!」と呼びかけるか、「父なる神よ!」、「父なる神さま!」と呼びかけるのがよい。あるいは「天のおとうさま!」か。

4.御子
 日本基督教団信仰告白も「みこ」と振り仮名を付けている。とにかく「みこ」と言い慣れているので、「みこ」と言うしかない。
 そういうわけで、やっぱり「おん」か「み」のいずれかに統一することは無理なことであった。

5.では、聖霊は?
 「おんたま」とか「みせいれい」も聞いたことがないが「ごせいれい」は聞いたことがある。
 ちなみに、「さま」をつけて「聖霊さま」という言い方はペンテコステ系、カリスマ系を中心に割と(?)よくあるだろう。ただ、「ご聖霊さま」という言い方も聞いたことがあるが、これはちょっと言い過ぎの感じがする。
 そんなわけで、どうも聖霊には「御」は付けにくい。付けるとすればやはり「みたま」しかないが、まあ何も付けないで「聖霊」と言うのが無難なところか。

 祈りの中の呼びかけとしてはどうか。
 『讃美歌』500番は「みたまよ、みたまよ」と歌っている。しかし、どうやら「御霊」というのは「国家神道的表現」ということで『讃美歌21』には「みたま」という表現はない。だいたい、『讃美歌』500番自体がない。「御霊」という表現の是非はともかく、聖霊への呼びかけとして「みたまよ」という言い方は個人的に馴染みがない。

 呼びかけの言葉として、「父よ!」はあるのに、「聖霊よ!」は口に出してみても何となくしっくりしない。「みたまよ!」「おんたまよ!」「み聖霊よ!」「おん聖霊よ!」いずれも違和感を感じる。

 結局、「聖霊なる神よ!」とか「聖霊なる神さま!」と呼ぶしかない。それとも、「聖霊さま」と言う習慣がこれまでなくても、これからは「聖霊さま!」という言い方を解禁するか。

タグ:祈り

父なる神に呼びかけて祈る [信仰]

 祈りは、父なる神への呼びかけの言葉で始められる。
 
① 主イエスご自身が父に祈られた。
マタイ11:25-26(並行ルカ10:21),26:36(並行マルコ14:36、ルカ22:42),42、ルカ23:34,23:46、ヨハネ11:41,12:27-28、17章、14:16も。

② 主イエスはわたしたちに父に願いなさいと教えておられる。
マタイ6:6、ヨハネ16:23、ヨハネ15:16も。

③ 特に、主イエスがこう祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」が父への呼びかけの言葉で始められている。
マタイ6:9、特にルカ11:2。

④ 使徒書も父への呼びかけや祈りを記している。
ローマ8:15とガラテヤ4:6(アッバ、父よ)、エフェソ3:14、コロサイ1:3,12。

そのようなわけで、
1.祈りのはじめの呼びかけの言葉には、「御在天の父なる神よ」とか「主イエスキリストの父なる神さま」とかいろいろあるが、基本は父に呼びかけることである。(特にルカ11:2!)

2.しかも、イエス・キリストの父であるばかりか、わたしたちの父として呼びかけるのであるから、

 「わたしたちの父よ」とか「わたしたちの父なる神さま」とか「わたしたちのお父さま」

と呼びかけるのがよいだろう。

3.そして、この基本はどれだけ信仰生活を歩もうと常に大切にすべきところであり、身に着いたら応用編へ行ってもよいなどというものではない。

4.しかしもちろん、祈りの中で、祈る内容に即して主なる神、霊なる神、永遠なる神、全能の父などと、簡潔に呼びかけの言葉を変えて祈りを重ねていくこともふさわしいだろう。

神はなぜ「父」なのか――補足 [信仰]

 親から虐待を受けたなどで、父という言葉に対して否定的なイメージをぬぐえず、神に対しても「父」と呼びかけることが困難な場合、無理に「神を父と呼びなさい」と言うことはふさわしくない。

 しかし、だからといって、「そのような人々に配慮して、教会は神を父と呼ぶことをやめましょう」などと言うのは、おかしなことである。個別的配慮を優先させて一般的普遍的真理を限定的に一時留保することはあり得るだろうが、それによって一般的普遍的真理そのものを変えてはならない。

 その人がやがて、神が「父」であることを受け入れ、心から神を「父」と呼ぶことができるようになることを、教会全体で祈り続けていかなければならない。

神はなぜ「父」なのか [信仰]

1.父なる神がイエスを「子」と呼ばれた(イエスの洗礼の時:マタイ3:17,マルコ1:11,ルカ3:22、及び、山上での変貌の時:マタイ17:5,マルコ9:7,ルカ9:35)。
 イエス・キリストも、御自身を世に遣わされた方を「父」と呼んだ(ルカ2:49、ヨハネ5:18、6:44,57、マタイ11:25-26(イエスの歓呼)、ヨハネ17章のイエスの祈り、マルコ14:36(ゲツセマネの祈り)、ルカ23:34,46(十字架上で)、などなど)。

2.わたしたちは、洗礼によってイエス・キリストに結び付けられて、イエス・キリストの体の一部とされ、その命に生きる者とされる。そのようにしてわたしたちは「神の子」とされて(ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)、イエス・キリストを遣わされた方を「父」と呼ぶ(マタイ6:9、ルカ11:2:「主の祈り」)。

3.したがって、神を「父」と呼ぶことは、イエス・キリストが神を父と呼んだことをそのまま受け入れる信仰であり、また、このイエス・キリストに結ばれてわたしたちにも神を父と呼ぶことが許されていることを受け入れる信仰である。

4.そもそも永遠なる神には性別はないのだから、神は男性でも女性でもない。それゆえ、なぜ「母」ではないのかという問いには意味がないし、神は男性なのかという問いも的外れである。また、この世の「父」という言葉の概念をここに当てはめてはならない。言わば、この世の父は「肉の父」であるのに対し、神は「霊の父」である(ヘブライ12:9)。この世の言葉の意味やイメージを超えたところで、イエス・キリストは神を父と呼んだのである。

5.つまり、「父」と「子」の関係をこの世の親子関係から捉えてはならない。「父」と「子」は、三位一体の神御自身の内の特別な関係である。神が父であるとは、(内在的三一論的には)唯一の神が御自身の内で独り子の父でいらっしゃるという事実を言い表しており、また、(経綸的三一論的には)神がイエス・キリストにおいて御自身を父として世に現された事実を述べている。

6.神を「父」と呼ぶことをわたしたちに可能にしてくださっているのは、聖霊である(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。したがって、神を「父」と呼ぶことは、救いの恵みに生かされている者にとって不可欠な信仰表現であり、これを割り引いて考えてはならない。

7.イエス・キリストがご自身を遣わされた方を「父」と呼び、わたしたちもそのお方を「父」と呼ぶ。神を「父」と呼ぶ者たちはイエス・キリストの兄弟姉妹であり(ヘブライ2:11)、また、イエス・キリストと共にわたしたちは「神の家族」である(エフェソ2:19)。

8.神は、信じる者にとってはもちろん「父」であるが、信じていない者も含めて全ての人の父である。

無力な神 [信仰]

1.神は、絶大な力を持って大津波を押しとどめるお方ではない。神は、吸い取るように放射性物質を取り除き、奇跡の手を延ばされて原子力発電所を冷温停止させるお方ではない。神は、世にあって無力な神である。

2.わたしたちが思い描くような神は、世にいない。困窮の時に都合よく助けてくれる神は、「機械仕掛けの神」である。その意味で、わたしたちは「神なし」で生きることを余儀なくされている。

3.ボンヘッファーの言葉:
「神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助ける。」

「聖書は、人間を神の無力と苦難に向かわせる。苦しむ神だけが助けを与えることができる。」
E.ベートゲ編(村上伸訳)『ボンヘッファー獄中書簡集 「抵抗と信従」増補新版』、新教出版社、1988年、pp.417-418。

4.神は、この世と力で対峙するのではない。まったく世に対して無力になられ、苦しまれ、死なれた。そのようにして、わたしたちと全く同じ人となってくださった。このようにして、神は我々と共にいてくださる。世にあってまったく無力で死なれた神こそ、「インマヌエル」の神である。

自然災害の意味(9) [信仰]

後 記

 自然災害についていろいろ記したが、関連する事柄を自分なりに整理してまとめないではいられなかった。その中で記したとおり、まさに、どう主体的に受け止めるかということであろうが、しかし、「わたしたちは、不条理としか思えない事柄に遭遇したとき、そこに理由や意味を見出すと安心する」とも書いたように、このような作業も、事柄を整理することで安心しようとする点で、同じかもしれない。


 十分読み返す暇はなかったけど、参考になると思う文献を二つ。
V.E.フランクル(山田邦男、松田美佳訳)、『それでも人生にイエスと言う』、春秋社、1993年。
 何か客観的な人生の意味を問うても答えはない。そうではなく、意味のある人生をどう送るかが問われている。そのように、自然災害についても意味を問うのではなく、わたしたちの方が問われている。香山リカも新聞で紹介していた(朝日新聞、2011.4.3)。

H.S.クシュナー(斎藤武訳)、『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』 (同時代ライブラリー 349)、岩波書店、1998年。
 今は、岩波現代文庫で(2008年刊)。地震や事故などに神の意志があるのではない。わたしたちは、この現実の中で生きていくことを学ぶだけである。なぜこんなことが起きたのかという問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのかという新しい問いに生きることが、わたしたちにできることである。

 執筆中に読んで、考えの参考になったブログ
「大和郷にある教会」という巣鴨聖泉キリスト教会の牧師によるブログの「自然災害と終末論的解釈」という記事。

自然災害の意味(8) [信仰]

(8)なぜ自分ではないのか

 なぜ自分ではなくあの人たちなのかと問うことがあるかもしれません。しかし、彼らが特別罪深かったわけではありませんし、逆に、わたしたちが賢かったわけでもありません。そこに理由はありません。

 自然災害に遭うのは、だれであってもおかしくありません。地震や津波で持ち物のすべてを失ってしまったのは、自分だったかもしれません。このわたしであっても何もおかしくないことです。ただ住んでいたところが違うだけです。
 すると、なぜあの人たちなのかと問うことはふさわしくないでしょう。そうではなくて、自分だったかもしれないと思うことが大切です。そして、このわたしが受けても何らおかしくない苦難を、彼らが代わりに受けたと受け取ることも許されるでしょう。

 ここから、キリストの代償を思うことはできないでしょうか。このわたしの代わりに彼らが苦難を受けてくださったことは、キリストの身代わりの贖罪を指し示していると受け止めることができます。キリストがわたしたちの罪を担ってくださったように、彼らはわたしたちの代わりに苦難を担ってくださっています。キレネ人シモンのように(マルコ15:21)。

 それゆえ、わたしたちは、新聞やテレビで報道される被災地の惨状や避難所生活の困窮を見て、それで終わりではなく、彼らのところにキリストが共におられるのを見ます。そのキリストは、わたしたちの身代わりに罪を担い、あらゆる苦難に勝利された復活のキリストです。そこからわたしたちは、罪を赦してくだっている勝利のキリストがわたしたちにも共にいてくださることをあらためて知ります。
 ボランティアに駆けつける勇気もなく、被災地の人々に寄り添う力もないわたしたちですが、そうしてこそわたしたちは、わたしたちなりにこの出来事を主体的に受け止めて、自分を納得させ安心させることができるでしょう。

自然災害の意味(7) [信仰]

(7)終末は近いのか

 さて、大きな自然災害が起きると、「終末が近い」と言い出す人が必ずいます。しかし、わたしたちは、終末が近づいたとか近づいていないとか論評したり騒いだりするのではありません。

 第一に、終末は、すでにイエス・キリストの到来によって始まっています。すでに始まっている終末の時の中で、わたしたちのなすべきことは、主なる神を礼拝し、イエス・キリストの福音を伝道することです。

 第二に、まだまだイエス・キリストの福音を知らない人がたくさんいます。もちろん終わりの時がいつ来るかはわたしたちには全く分かりませんが、しかし、その一方で、神は、そうたやすく世を終わりにはしないでしょう。なぜなら、神は、すべての人が信じるように、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、忍耐しておられるからです(2ペトロ3:9)。したがって、ここでも、終末はまだしばらく来ないなどと議論したり安心したりするのではなく、わたしたちは、まだ救いを知らない人にキリストの十字架と復活の福音を告げ知らせることに力を注がなければなりません。

 結局、わたしたちのなすべきことは、自然災害があるなしにかかわらず、主を礼拝し、福音を宣べ伝えることに集中することです(2テモテ4:2)。

自然災害の意味(6) [信仰]

(6)わたしたちは浅はかでした

 主体的に受け止めるということを前項で述べましたが、被災地や原子力発電所から比較的離れたところにいる者として、どのように考えれば、今の事態を少しでも主体的に受け止めることができるでしょうか。たとえば、この災害を、原子力発電に依存して享受してきた生活への戒めと受け止めることもできるでしょう。

 たとえ、自分の家の電力をすべて自家発電でまかなったとしても、さまざまな工業製品の製造や物流、販売は、電力需要全体に対する原子力発電の寄与に負っています。このパソコンも、このパソコンの先につながっているプロバイダのサーバも、原子力発電による電力供給のおかげです。食品ですら、製造から販売に至るまで電気なしではわたしたちの手元に届かないでしょう。

 すると、今のこの事態を主体的に受け止めるならば、東電の対応や政府の動きを批判するよりも、あるいは、やっぱり原子力は危ないなどといまさらながら原発に反対するよりも、あるいは、津波の高さが想定外だったと開き直るよりも、わたしたちは、原子力発電に依存しなければまかなえないほどの電力需要によって生活を享受してきて「浅はかでした」と言わなければならないのではないでしょうか。

自然災害の意味(5) [信仰]

(5)主体的に受け止める

 すでに述べたように、自然災害に神の意図はありません。そのような意味で、自然災害に意味はありません。しかし、わたしたちは、自然災害のような苦難を通して、被造物の不完全さを思い、神の国を待ち望み、キリストの勝利に目を向け、神の執り成しを願い求めます。

 でも、そうすると、困難を通して信仰が強められるのでしょうか。すると、自然災害はやはり、信仰が強められるための試練なのでしょうか。

 信仰が強められるとか戒められるといったことは、自然災害に対して何らかの意味を見出すというよりも、受け止め方の問題でしょう。無理に客観的な意味を見出そうとすることよりも、ある意味で主観的なことと言えますが、どう受け止めるかが重要です。積極的に受け止めていこうという態度としては、主体的な受け止め方になります。

 したがって、それは、第三者が言うのではなく、苦難を体験した当事者が、信仰によってそのように受け止めるものです。第三者が、この自然災害はこういう意味だとか、ましてや天罰だなどと言うべきではありません。苦難を体験した人が、この自然災害はおごり高ぶり豊かな生活をしている現代人に対する天罰だと、主体的に受け止めるならば、誰もそれを否定できません。かえって、重い言葉として耳を傾けるべきでしょう。しかし、第三者が外から客観的な仕方で言うことはできません。これは主観的で主体的な受け止め方の問題であるからです。

 そして、たとえ直接に災害を被っていなくても、わたしたちは、起きた事態を自らのこととして主体的に受け止めていくことはできます。直接に被害を受けた方々の思いや置かれた状況と、そうでない者との隔たりは極めて大きいでしょうが、多少なりとも被災者に寄り添うことはできると思うのは、許されるでしょう。そのところで、わたしたちは、困難の中にいる方々と共に歩むことができますでしょうし、大きな隔たりを抱えながらも何とか共に歩もうとすることしかできないのでありましょう。

自然災害の意味(4) [信仰]

(4)神の執り成し

 わたしたちは、完全なる神の絶大な力を信じます。世は不完全ですが、神は完全なお方であり、全能なお方です。

 そのような神は、不完全な世すらも、神の御計画に益するものとしてくださいます(ローマ8:28)。わたしたちにとっては悲惨としか思えない現実であっても、神はそれを意味あるものとしてくださいます(たとえどのようにしてかわたしたちにはわからなくても)。神の霊がわたしたちのために執り成してくださるのです。

 だからわたしたちは、不条理としか言えない苦しみや悲しみの中からでも、勝利のキリストを仰ぎ、神を誉め讃えるのです。

自然災害の意味(3) [信仰]

(3)キリストの勝利

 わたしたちは、自然の不完全さを通して、わたしたち自身の不完全さをも知らされます。あるいは、自然の猛威を通して人間の小ささを知るということもあるでしょう。いずれにしても、人間もまた被造物であり不完全であって、神に対して意味のあることを実行できない存在です(ローマ7:18以降参照)。すなわち、わたしたち人間は罪人です。自然の猛威を通して、わたしたちは自らの被造物としての罪人の姿を思い知らされます。

 しかし、わたしたちの罪はイエス・キリストがすべて引き受けてくださり、処分してくださいました。キリストは、あらゆる苦難、あらゆる悩み、苦しみにすでに勝利されています(ヨハネ16:33)。

 自然の驚異を目の前にして、わたしたちは、自分自身の罪深さを思い、神の御前に赦しを請い、キリストの勝利を見つめます。この勝利のキリストは、世に来られたキリストであって、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

 わたしたちは、不条理としか思えない事柄に遭遇したとき、そこに理由や意味を見出すと安心するかもしれませんが、わたしたちが本当に安心するのは、勝利のキリストが共にいてくださることによってです。わたしたちは、主イエスによって平和を得ます(ヨハネ16:13)。わたしたちは、自然災害の中に置かれていても、平和のキリストが共にいてくださることを知っています。勝利と平和のキリストに伴っていただいて、わたしたちは、苦難を乗り越え、くぐり抜けていきます。

自然災害の意味(2) [信仰]

(2)「神の国」を待ち望む

 自然災害に意味も理由もないならば、ただ諦めるしかないのでしょうか。いえ、わたしたちは神の国を見つめます。

 神の国には、死も罪も悪もなく、いかなる苦難も悩み悲しみもありません。神の国で、それらは一切存在することができません。自然災害も同じです。被造物の不完全さは神の御心に反するものですから、自然災害すら神の国には存在しません。

 それゆえわたしたちは、自然災害を通して、あらためて神の国に思いを向け、神の国を願い求めます。わたしたちは、主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」を祈る中で、「御国を来たらせたまえ」と常に神の国を祈り求め続けていきます。自然災害に見舞われたとき、わたしたちは、いつも御国を求める祈りを祈っていることをあらためて確認し、なおも切に神の国を求めていきます。

 ただし、神の国はまだ到来していません。したがって、苦難や自然災害は世から完全に消え去ったわけではありません。しかし、十字架と復活のイエス・キリストが世に来られたことによって、神の国の到来が既に始まっています。わたしたちは、このキリストに結ばれて、神の国が完全に到来する前に、その恵みをいただきます。こうしてわたしたちは、神の国の到来の確かさのうちに、神の国を待ち望んでいきます。

自然災害の意味(1) [信仰]

(1)造られたものの不完全さゆえ

 地震や津波で、多くの人の命が奪われました。どうしてそのようなことが起きるのでしょうか。なぜ自然災害があるのでしょうか。神の側に何らかの意図があるのでしょうか。

 大地も海も神によって造られたものです。被造物は造られたものに過ぎず、神ではないゆえに、不完全です。

 それで、被造物のすべてのことに意味があるわけではありませんし、自然のすべての動きに、お造りになった神の意図があるわけではありません。不完全であるゆえに、意味の見出せない部分があり、意味のないことが起こります。

 したがって、地震や津波などの天災がなぜ起きるのかと問われれば、「造られたものの不完全さゆえに」としか言いようがありません。神が何らかを意図して行ったというようなことでは全くありません。

でも、それだけではありません。

三要文 [信仰]

使徒信条、十戒、主の祈りを合わせて三要文(さんようもん)と言う。

1.「三要文」という言葉が日本ではじめて見られる史料としては、以下三つの文献いずれも、1871~2年頃のヘボン・奥野昌綱訳の『三要文』のトラクトが挙げられている。主の祈りの訳文は現代のものとかなり近いので、このヘボン・奥野訳が後の訳文に影響を与えてきたのではないかと考えられる。

2.文献
(1)海老沢有道、「三要文」(『日本キリスト教歴史大事典』、教文館、1988年)。
事典項目としてはこれのみ。その他のキリスト教辞典には三要文の項はない。『キリスト教大事典』にも『岩波キリスト教辞典』にもない。

(2)加藤常昭、「改めて問う、三要文の位置と意味」(『季刊教会』No.50、2003年春)。
三要文の日本における歴史と教会における三要文の意義について述べられていて、重要。礼拝の中での主の祈りの位置についても述べられている。「三要文によって、私たちの教会は、その公同性を確保する。それによって洗礼入会の手続きを整えることによって、教会員は、世界の教会の一員となる。」ネット上にテキストファイルあり。

(3)秋山憲兄、『本のはなし――明治期のキリスト教書』、新教出版社、2006年。
p.61で、ヘボン・奥野昌綱訳(1891、2年頃)の『三要文』のトラクトが紹介されており、主の祈りと使徒信条が読みやすく引用されている。(なお、2008年の増補改訂版があるらしい。)

 その他、佐波亘編、『植村正久と其の時代』第4巻(教文館)を見る。また、海老沢有道は、村田百可「ヘボン訳三要文に就いて」(『基督教史研究』第2巻、1939)を挙げている。

3.三要文についての関心は、
(1)礼拝の中でそれぞれがどう用いられてきたか、
(2)カテキズム教育の中でそれぞれがどう位置づけられてきたか、そして、
(3)教会の言葉・信仰の言葉・いのちの言葉としての意義(この面は加藤常昭の文章で特に印象づけられた)。

まことの理性 [信仰]

理性は礼拝においてはじめて真に理性的になりうる。

竹森満佐一「スコットランド神学と日本の教会の神学」 in 『日本の神学』14号、1975年、p.170。

誰が洗礼を授けるか [信仰]

 「私は○○先生から洗礼を受けました」などという言い方がよくなされるが、洗礼を授ける主体はどこにあるだろうか。

1.復活の主イエスは、弟子たちに洗礼を授けよと命じられた(マタイ28:19)。それゆえ、洗礼が授けられる根拠は、復活の主イエスにある。

2.洗礼を授けることを主から命じられたのは教会であり、教会が洗礼を執行する。「教会は主の日毎に礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行する」(日本基督教団教憲第8条)。

3.その際、実際に洗礼を司る務めにあたるのは牧師である。牧師は、御言葉に仕える職務にある者として、洗礼を司式する(司式は単なる司会進行ではない)務めを教会から委ねられている。
 もう少し厳密に言えば、洗礼を司るのは、按手礼を受けた正教師である。「聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる」(日本基督教団教憲第8条)。

4.というわけで、別に「○○先生から洗礼を受けました」という言い方をなくそうと言うわけではないが、誰から洗礼を受けたかよりも、復活の主イエスの命令に従って洗礼を授けていただいたということのほうが重要であることを改めて思わされる。復活の主を信じ、その命令に従う信仰によって、わたしたちは洗礼を授けていただくのである。

天使について [信仰]

 聖書には、創世記から黙示録まで「天使」や「御使い」がしばしば登場する。特に、クリスマスの時期に読まれる箇所には天使がよく出てくる。しかし、聖書辞典には、現代のわたしたちが天使をどう考えればよいかまでは、述べられていない。現代のわたしたちは、天使をどう考えたらよいのだろうか。

1.「天使」あるいは「御使い」は、聖書の中で、古代の神話的な表現と見なすに留まらない極めて重要な役割を果たしている。また、特に終末における光景の中で登場する。マタイ13:36~43、49~50、16:27(マルコ8:38、ルカ9:26)、24:31(マルコ13:27)、25:31、1テサ4:16~17、2テサ1:7、黙示録にたくさん。それゆえに、天使の存在を否定してはならない。

2.もちろん、天使は神ではないから、天使を礼拝してはならない。コロサイ2:18、黙示録19:10、22:8~9。

3.天使が神と人間との間に立つ存在である点では、わたしたちは復活の主イエス・キリストに直接結び付けられており、また、聖霊なる神がわたしたちのうちに宿ってくださっているのだから、取り立てて、天使の働きを求める必要はない。また、天使が神の使いとして神の言葉を人に伝える役割を果たす点では、わたしたちにとっては説教と聖礼典(とりわけ聖餐)が神の言葉を直接伝えるのであるから、この点でも、天使の役割を特に期待する必要はない。

4.天使も被造物として、神の言葉を告げ知らせ、神を誉め讃えるのであるから、天使のことを考えると、自ずとわたしたちも、御言葉を人々に告げ知らせることと、神を礼拝することに心を向ける。つまり、天使が主に仕えるように、わたしたちも天使と共に主なる神に仕える。

5.わたしたちは、もし天使が遣わされてくるようなことがあった時には、特に終末において、その告げるところに耳を傾ける。そのためにも、いつも神の言葉が伝えられる説教と聖餐の恵みにあずかり、神の御前にへりくだって、目を覚ましていなければならない。

神の存在の証明は不可能、しかし、神の存在を否定することも不可能 [信仰]

1.神は、人間の認識の対象を超えた超越者である。その意味で、神と人間は質的に断絶している。神は人間が定義することのできない「絶対他者」である。それゆえ、神が存在するとかしないとか議論する人間の思考の中で、神を捉えきることはできない。人間は、神の存在を証明することはできないし、神はいないとか神は死んだなどと否定することもできない。
 
2.では、どうして人間は神を知ることができているのだろうか。それは、神の方から私たちの認識の内に来てくださっていることによる。神は、御自身の方から私たち人間に、私たちと共にいます(「インマヌエル」)お方として現れてくださる。神はわたしたちと「我と汝」の関係として出会ってくださる人格的なお方である。
 神が私たちのところに来てくださるとき、ただ単に神を認識できるということに留まらず、神と出会い、神を絶対者、超越者であるどころか、救済の主として、喜んで認めることとなり、恐れおののきつつその御前にひれ伏し、感謝に溢れ、喜びに満たされる。
 そこでは、神が存在するとかしないとかはもはや問題とならない。神は私たちと共におられるという事実があるのみである。

3.そもそも神を超越者だとか絶対他者だとか人格的なお方だとかすることができるのも、人間が己の思考の内に神をそう定義したのではなく、このような神との出会いによって、与えられた認識である。神は、その存在を証明できるお方でもなければ、人間の思考や理性で捉えきれるお方でもない。しかし、神がどのようなお方であるか、神が人間に対して何をなされるのかを、神と出会った者は、神のすべてではなく、「鏡におぼろに映ったもの」のようにではあるが、理性でも捉え、思考することができる。
 神の人格と業とを理性でも捉えていくことを通して、わたしたちは、神をより知ることとなり、ますます、感謝と喜びが深まる。それが、信仰の学びや神学の営みである。

4.しかし、神の方から私たちと出会ってくださるなどということが、本当にあるのだろうか。実に、そのような神との出会いの場が、教会である。教会は、神が人間と出会ってくださるべく、神が建て給うところである。神の教会が世に存在しているならば、神はおられるのであり、私たちとと共におられる。
 それだから、教会は不断に、人間の理性や思考を神との出会いの先に立ててしまって自分たちが神を捉えたなどという高慢に陥らないように気をつけつつ、神との出会いの後(うしろ)から、理性的な思考を通して、理解を深め信仰を深め神への崇敬を深めていく。
タグ:神認識

"Nobody is perfect" [信仰]

1.2010年6月2日、アメリカ大リーグのデトロイト・タイガース対クリーブランド・インディアンス戦で、タイガースのガララーガ投手が完全試合まであと一死のところ、審判の誤審で、完全試合を逃してしまった。 誤審をした審判は激しい非難を浴びたが、しかし、ガララーガ投手は"Nobody is perfect"「完全な人間はいない」と言った。これは、もちろん誤審した審判に対する言葉であるが、さらに、perfect gameのperfectと掛けられているとみれば、このような仕方で偉業を逃すことになってしまった自分自身をユーモアをもって言い表した言葉とも見ることができるのではないだろうか(そのとき本人がそこまで意図していたかいないかは別として)。というのも、"Nobody is perfect"はビリー・ワイルダー『お熱いのがお好き』(1959)の最後に出てくる有名なうまい台詞なのだから。

2.さて、朝日新聞2010.6.8「天声人語」は、この出来事を取り上げて、「『審判も間違える』ことを前提にゲームが成り立っているのを、よく分かっているのだろう。」と記している。「審判も間違える」とは、単に審判も人間だということ以上に、“誤りうる人間に権威を与えて、判断を委ねている”ということであろう。ここからいろいろ考えさせられる。

3.このことは、教会における教師にも通じる。神は、罪深い人間を御言葉に仕える職務に就かせて、御言葉を語らせる。教会は、その者の年齢とか経歴とかあるいは性格や何かの能力といった個人的特徴にはよらず、ただ神から御言葉に仕えるべく立てられていることでもって、その者を教師として受け入れる(一テサ5:13、ヘブ13:17)。
あるいは、信仰者一人ひとりにも言える。神は、罪深い人間に信仰を与えて、我々を御国の約束に生きる者、世に御国を照らし出す者としている。一人ひとりの信仰の歩みは様々であるが、洗礼を受けた者はみな、御国の世継ぎとされているのである。その点で、教会に属している者は皆、互いに、神に用いられ愛されている者として尊重し合う(ローマ12:10)。

4.このようにして主は、我々人間をご自身のご計画のために用い給う。詩編144:3。

神の恵み――年度末にあたって [信仰]

2009年度が終わった。個人的には、これまでで一番ヘビーな一年であった。この一年の中で一番恵みだと感じることは何かと聞かれても、詰まってしまうだろう。
年末もそうだが、こういう時期に、神の恵みを数えて感謝するということが言われる。これは、信仰の歩みをおくる上で大切なことである。しかし、どういうことが神の恵みなのであろうか。自分が良かった、嬉しかったと思う事柄が恵みだろうか。それとも、決して良かったとは思えないことでも、神は必ず良きものへと変えてくださると信仰によって信じることができるということが恵みだろうか。

わたしたちにはマイナスの出来事に思えても、神は必ずプラスに変えてくださる。しかしそのプラスとは、直接わたしたち人間にとってのプラスとは限らない。もちろん、時が経ってから、自分にとってプラスになる、自分の知らないところで誰かにとって益となるということもあろう。しかし、いくら時が経っても、人間にとってマイナスのままであることもあるのではないだろうか。しかしそれでも、神は、御自身の御計画にとって必ずやプラスに用いてくださる。神にとってのプラスが大切なのであり、わたしたちにとってのマイナスが、わたしたちにとってはマイナスであるそのままに、神はそれを良き実へと結んでくださるのである。

ところで、わたしたちのマイナスの極致は、罪である。しかし、罪というマイナスはマイナスのままではない。神は、わたしたちの罪はそのままで、わたしたちの罪、あるいは、罪あるわたしたちをプラスに用いてくださるのではない。わたしたちの罪は、わたしたちが負うのではなくキリストが負ってくださった。そして、罪の支配を打ち破ってくださった。それで、わたしたちは、罪深いままではなく、罪を赦されて、御国を継ぐ者とされてプラスに用いられているのである。
ただし、完全にプラスとされてマイナスの面は全くなくなってしまったので考えなくて良いというわけではないことに注意しなければならない。世にあってはなおわたしたちは罪人である。しかし、キリストのゆえに罪の赦しをいただいている。罪人にして同時に赦されているのである。

わたしたちは、神の御計画の中に置かれている。やがて御国をもたらす御計画の中に生かされている。わたしたちにとってはマイナスにしか思えないどんな経験があろうと、神はわたしたちを御国へ向かわせる御計画を止めず、確実に進めておられる。わたしたちにとって恵みとはこのことではないか。何があろうと御国が来るということこそ、わたしたちの恵みである。そのために御子をわたしたちのところに遣わし、世にあってはどこまでも罪人のわたしたちに赦しを与えてくださり、御国へ導き入れようとしてくださっていることこそ恵みである。
そうであるならば、なお一層、わたしたちは御国を求めていく。「御国を来たらせたまえ」。必ず来るという確信をいただいて、同時に、節に願い求めて、祈る。「御国を来たらせたまえ」。こう祈るとき、神の恵みがわたしたちに注がれる。

2010.4.1午前記