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無神論と無宗教の違い [宗教の神学]

 朝日新聞2012年8月13日の9ページの「まなあさ」面に掲載されていた姜尚中(かん・さんじゅん)の講演より。

 講演の趣旨は、宗教と政治を学ぶことが行き詰まりを見せている日本にとって必要だということだが、無神論と無宗教の違いが語られていて、興味深かった。

 そのあたりの部分のわたしなりの言い換え。


 大学生に「どんな信仰を持っているか」と聞くと、異口同音に「無宗教」と答える。しかし「それは無神論ということか」と重ねて問うと、答えられない。

 無神論は「神はいない」と考える立場を明確にしている。それに対して「無宗教」というのは、宗教への思考停止の状態だ。ところが多くの学生は、なぜか、無宗教は無色透明で中立的な立場だと考えている。

 同様に、「どんな政党を支持しているか」と聞くと、多くは「無党派」と答える。これは、宗教も政治も、「話さない方がいい話題」とされてきたためだ。

 しかし、宗教と政治こそ、世界を動かす大きな力だ。この二つを避けてきたことが、今の日本の苦境や、展望が開けない状態につながっているのではないか。だから、この二つを学ぶことを勧める。

宗教の絶対性と排他性――絶対性による相対化と排他的ゆえの普遍性 [宗教の神学]

1.信仰の対象の絶対性によって、信仰者は相対化される
信仰は、信じる者にとって自分自身の存在と生に関わる(もちろん死にも関わる)。他との比較との問題ではない。それゆえ、信仰は自ずから絶対的である。しかしその絶対性は、その人の信心の絶対性ではなく、信心の対象がもつ絶対性である。それが、信仰が絶対的であることの意味である。信じる者とその信心は、信じる対象の絶対性の前で相対化されて、信心や生き方がまったく改められ正され、理解が転換され、他者(異なる信仰を持った者も含めて)との関係についても、先入観や固定観念が打ち崩されていく。

2.信仰の対象の絶対性によって、宗教も相対化される
同様に宗教も、他の宗教と比較して自身を絶対化するのではなく、対象が絶対的であって、宗教は絶対的な対象に帰依する。対象が絶対的でなければ、他の宗教でも良いことになり、それでは、その宗教を信じる意味がなく、その宗教が存在する意義がない。
そして、宗教はその信仰の対象である絶対性を持ったもの(神)の前で相対化されて、信仰の対象である絶対的なもの(神)から批判を受ける。もし、このように自らを批判に晒すことがなければ、自分自身が絶対化された独善的で恐ろしい宗教団体となるだろうし、逆に、この相対化と批判を謙虚に受けるところにこそ、絶対者の臨在や出会いがある。

3.宗教とは排他的なもの
宗教は、一神であれ多神であれ、その信仰の対象に絶対性を見いだしている。そうであるならば、宗教は自ずと排他的である。この排他的ということも、他の宗教との関わりにおける排他性のことではなく、絶対的な対象との関わりによって規定されている性格である。そしてまた、上に述べたことと同様に、排他的でなければ他の宗教でも良いことになり、それでは、その宗教を信じる意味がなく、その宗教が存在する意義がない。宗教とは排他的なものなのである。
したがって、排他性を取り上げてこの宗教はだめだと言うことはできない。かえって、そのとき、そのような判断をくだす者が自らを諸宗教の上に立つ絶対的な存在としていないだろうか。

4.排他的ゆえの普遍性
絶対的で排他的であるからこそ、その宗教は、誰でも信じる者に救済を与える。絶対的で排他的な宗教の救済は普遍性を持つ(ここでの普遍性は、信じなくても救われるというような普遍性ではなく、信じるならば誰でもという普遍性である)。逆に言えば、普遍的な救済は、宗教の排他性の中にこそある。

以上、特に小田垣雅也のいくつかの論文に刺激されつつ。たとえば、
小田垣雅也「キリスト教と諸宗教の神学」in 古屋安雄編『なぜキリスト教か――中川秀恭八五歳記念論文集』、創文社、1993年。
小田垣雅也『憧憬の神学――キリスト教と現代思想』、創文社、2003年、pp.155-166、180-181あたり。
など。

ゲーテ、ミュラー、ハルナック [宗教の神学]

1.ゲーテ"Maximen und Reflexionen"(邦訳は「格言と反省」とか「箴言と省察」とか)に次のような言葉がある。

「外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない。」
高橋健二編訳『ゲーテ格言集』(新潮文庫赤15-6)、新潮社、1952、p.111。

「外国語を知らない人は、母国語を知らない。」
大山定一訳「ゲーテ格言集」 in 小牧健夫他編『ゲーテ全集 第十一巻』、人文書院、1961、p.164。

「外国語を知らぬ者は、自国語についても何も知らない。」
岩崎英二郎、関楠生訳「箴言と省察」 in 『ゲーテ全集13』、潮出版社、1980、p.360。

2.マクス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1923-1900)『宗教学入門』("Introduction to the Science of Religion," 1873)の中で、このゲーテの言葉が「一つの言語しか知らない人は、どの言語も知らない」として引用されている。
 この言葉は、例えばシェークスピアが自国語しか知らなかったから英語を知っているうちには入らないという意味ではなく、どんなに言語を巧みに用い、上手に表現できたとしても、言語とは何かという問いに対しては答えることができないという意味であると、ミュラーは言う。そしてこれを宗教学(ミュラーの表現ではthe science of religion)(比較宗教学の意味合いが強いようだ)にも当てはまるとして、「一つしか知らない者は、一つも知らない」(He who knows one, knows none.)と言う。つまり、山を動かすほどの信仰を持っていても、宗教とは何かという問いには答えられないということである。したがって、一つの宗教しか知らない者は宗教について何も知らないのである。
 マクス・ミュラー(湯田豊監修、塚田貫康訳)、『宗教学入門』、晃洋書房、1990年、p.11-12あたり。

3.アドルフ・フォン・ハルナックは、ベルリン大学の総長就任記念講演「神学部の課題と一般宗教史」(1901)で、ミュラーの言葉を逆にして、「この宗教(キリスト教)を知らない者は(宗教について)何も知らないが、この宗教をその歴史とともに知っている者はすべて(の宗教)を知っている」と言った。
 古屋安雄『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1986初版、1987第二版、p.126(p.170でも言及)。

トレルチの「素朴な絶対性」について [宗教の神学]

トレルチ「世界宗教の中でのキリスト教の位置」(1924)を読んで。

宗教はそれぞれの歴史的・地理的・社会的諸条件のもとにおける個性的な形態をとっており、その意味で諸宗教は相対的な現象である。それゆえ、各宗教が素朴に信じている自らの絶対性は、ひとつの本物の絶対性である。したがって、諸宗教の価値を比較することは意味がなく、ある一つの宗教の普遍妥当性や最高妥当性を証明することは不可能である。

キリスト教の絶対性を考えるならば、それは、特定の民族に束縛されない普遍性でもなければ、思考や思想的作業に基づくのでもなく、圧倒的な力を持って我々に臨まれる神の啓示に基づくものである。啓示は、我々にとって拘束力を持ち、我々を救済するものであり、我々にはこれ以外の啓示は与えられておらず、また、この我々に与えられてる啓示において我々は神の言葉を聞くゆえに、我々にとって絶対的なものである。

そして、キリスト教の絶対性や普遍妥当性の認識は、このような啓示を承認する個人的・主体的な確信に基づいている(「素朴な絶対性」、「主観的絶対性」)。個人的とか主観的と言っても、単に幻想や独善的信念ではなく、絶対的なる真理を求めて止まぬ心から生まれ、不断の自己純化と向上努力との中で育まれていく確信である。そうであるならば、我々は、他の諸宗教の普遍妥当性の程度などは気にかける必要なく、あるいは、宗教というものがより進んだ高い段階へと進化論的に発展するというような問題も、放っておいて差し支えない。

トレルチ(大坪重明訳)、『歴史主義とその克服』、理想社、1968年。この中の第2章「世界宗教の中でのキリスト教の位置」(1924)。

寛容と独自性 [宗教の神学]

「寛容とは、相対立する真理要求に無関心な態度を示すことではない。それと反対に、寛容は、何が真実で規範的なのかということに関する決定に基づいてのみ可能である。・・・人間は、究極的真理をまだ完全に見てはいない。それゆえキリスト教の真理意識は、他者への寛容を要求する。」
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分」 1Cor13:9。
しかしこのことは、キリストにのみ救いがある(Acts4:12)ことを放棄するものではない。「もしもイエスがこの世で唯一の救い主ではないとすれば、われわれはなぜキリスト者とならなければならないのであろうか」。

パネンベルクは、ここから、この真理を主張するために、ただイエス・キリストのうちにのみ唯一の神が臨在している、すなわち、イエスは受肉した神の永遠の御子であるという命題を明らかにするキリスト論の課題を語る。

というわけで、ポイントは、
(1)他者への寛容は、決して、自らの特殊性や具体性、独自性を放棄するものではない。むしろ、絶対的な真理のもとに自らを相対化できていてこそ、他者に寛容であることができる。
(2)究極的真理をまだ完全には見ていないという終末論的観点が、自らを謙遜にし、謙虚にする。

パネンベルク(佐々木勝彦訳)、『組織神学入門』、日本基督教団出版局、1996年、pp.76-77。

諸宗教の中の啓示の可能性 [宗教の神学]

カール・バルト『教会教義学』の「和解論」の中

被造物と歴史の世界全体は、その右にイエス・キリストが座しておられる神の支配領域であるのだから、神は教会の外の領域で御自身を証しする自由を持ち給う。しかし、もしそのような領域で神の言葉が語られるとしたら、それは神御自身がイエス・キリストにおいて語り給う言葉以外にありえない。そのような聖書的・教会的でない領域の言葉は、イエス・キリストから委託されその権限を与えられたならば存在しうる。

そうであるならば、そのようなところで語られた言葉に対して、それがどんなに我々にとって縁遠い言葉であろうと、耳を閉ざす理由があろうか。それに耳を閉ざすような態度は聖書に対して従順だと言えるだろうか。

しかし、そのような言葉に耳を傾けることは、全教会がしなければならない事柄ではなく、一部の人に拘束力を持つにすぎない。聖書と関わるように、それらの言葉に関わることはできない。また、これらの考察は、教義学として、神のただ一つの言葉であるイエス・キリストの限界づけられることのない力を論じるためになされたのであって、その種の言葉が理論的・実際的に考慮できるかという問題の原理的な考察であった。

井上良雄訳、『和解論Ⅲ/1』、新教出版社、pp.160-226。

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