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平和の挨拶 [礼拝]


礼拝の中の「平和の挨拶」は、どの位置で、どのように行ったらよいか。

1.歴 史

(1)起 源

  1. ①ユダヤ教の「シャローム」の挨拶
  2. ②復活の主イエスによる「あなたがたに平和があるように」 ルカ24:36、ヨハネ20:19
  3. ③初代教会での「平和の接吻」ローマ16:16、1コリント16:20、1テサ5:26、1ペト5:14

(2)その後の経緯

  • 『キリスト教礼拝辞典』(岸本羊一・北村宗次編、日本基督教団出版局、1977年)の「平安の挨拶、平安の接吻」の項:ユスティヌス、ヒッポリュトス、アウグスティヌスなど。
  • 特に、ユスティヌスに見られる聖餐の前に位置づけられた「平和の挨拶」の意味について、越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』(キリスト新聞社、2004年)、pp.137-139。
  • 5世紀以降の歴史について、宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-59。
「1474年の『ローマ・ミサ典礼書』以降は、接吻をもって平和のあいさつを交わす習慣はなくなり、司祭が唱える「主の平和がいつも皆さんとともにありますように」に、会衆が「またあなたの霊とともに」と答えるだけになりました。」

宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

2.現代のカトリック

日本のカトリックでの、現代の「平和の挨拶」について。

  • 日本では、手を合わせて「主の平和」と言いながら互いに一礼する方法が一般的
  • パンを裂く直前、「主の祈り」に続く祈りで全世界の平和を願い、教会の平和と一致を願った後、その場に集まった共同体の一員として、平和の挨拶を交わす。
  • ローマ教皇庁から、司祭が祭壇を離れて会衆席に出向いたり信徒が会衆席の中を回ったりして平和のあいさつを交わすことは控えるように指示があった。

以上、宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

3.現代のプロテスタント

近年のプロテスタント教会における、「平和の挨拶」の回復について。

「アメリカのプロテスタント教会でも、これが広く実践されるようになってきたのは、今からせいぜい三〇年ほど前からではないかと思います。ですから、ずいぶん長い間、忘れられていた礼拝行為だったことになりますが、今ではプロテスタントもローマ・カトリックも、いろいろな形式でこの挨拶を復活させ、礼拝の中で行われるようになってきました。」

越川弘英『今、礼拝を考える』(キリスト新聞社、2004年)、p.137。

4.礼拝の中での位置

プロテスタント教会における「平和の挨拶」の礼拝の中での位置については、様々な考え方や実践がある。

(1)

「平和の接吻(平安の接吻)は執り成しの祈りの結びにおける愛と一致のしるしであり、その後に奉献が続く。」

ホワイト『キリスト教の礼拝』p.334。

(2)

「多くの場合は聖餐式の中で・・・。・・・礼拝の最初の部分で持たれることにも意味があると思います。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

(3)

執り成しの祈り―平和の挨拶―聖餐という順序を基本として、
「聖餐が行われる場合は、平和の挨拶は『主の祈り』の後、または陪餐後になされてもよい。」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33。

(4)

「サクラメントが執行されない場合は、<罪の告白>の後か、あるいは<告知における神のことば>の礼拝の最後に」

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.34。

5.挨拶の方法

会衆が互いに挨拶しあう方法にもいろいろある。

「平和(のあいさつ)は、ことば・笑顔・握手・接吻・抱擁、あるいは会衆の社会的状況にふさわしい動作で分かち合われるのがよい。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.34。

(1)挨拶の所作

①接吻 ②抱擁 ③握手 ④会釈

(2)挨拶の言葉

「主の平和」、「キリストの平和」、「主の平和がありますように」、「キリストの平和がありますように」

6.「平和の挨拶」の意味

平和の挨拶は、キリストの体に結ばれた者たちの、聖霊による和解と一致(エフェソ4:3、コロサイ3:15)を表す。

「相互の交わりと和解を確認する。」「平和と和解のしるし」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33、34。

「相互における和解による一致のしるしとして、会衆は、<平和のあいさつ>を交わす。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.32。

「平和のあいさつは希望と喜びに満ちた礼拝的伝統です。・・・キリスト者を人と人との関係に向かわせます。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

「平和の挨拶」とは、「平和」でないところにあっても、「平和」を信じて、平和を作り出すために行う行為」

越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、p.142。

立ち上がり、今日共に礼拝する仲間の前に足を運び・・・、手を差し伸べ握手をし、キリストの言葉に倣って挨拶を交わす、というこの所作の中になんと多くの気づきが隠されているでしょうか。」

山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)p.25。
(強調は春原による)

7.まとめ

平和の挨拶の位置について、聖餐とのつながりを考慮するか、特にそうしないかという大きく二通りの筋道があるが、プロテスタント教会では、毎回の礼拝で聖餐を祝うわけではないので、礼拝の中での位置は柔軟に考えて良い。

聖餐がある場合、プロテスタント教会では聖餐を「御言葉」として理解するので、説教と聖餐はできるだけ近くし、間にあまり多くの要素が入らない方がよい。

(逆に言えば、プロテスタント教会で陪餐前などに平和の挨拶を入れるのは、古代~中世の礼拝への懐古趣味か、カトリックに対する無批判な同化か、聖餐の御言葉性・出来事性の理解の欠如かのいずれかである。

したがって、「平和の挨拶」の礼拝の中での位置は、

  • a)礼拝の前半で、集められた会衆が一致を表すために行うか、
  • b)礼拝の最後の部で献金の前に、
    • 執り成しの祈り
    • 平和の挨拶
    • 献金
    という流れにするか、

どちらかが基本となるだろう。

文献リスト

  • 岸本羊一・北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977年。「平安の挨拶、平安の接吻」の項。
  • 小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.108。
  • 越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004年、pp.134-143。
  • J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000年、p.334。
  • アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、pp.32-34。
  • 日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版) 主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』、日本基督教団出版局、2006年、pp.33-34。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-61。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)、pp.22-26。

記述がありそうでなかったもの

  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本基督教団出版局、2006年。
  • 『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、2007年。


ルターの礼拝から学ぶこと [礼拝]


ルターの礼拝の要点

  1. 礼拝は人間の業ではなく神の奉仕であり、神の御業の現れるところであるから、聖書に反する部分を取り除き、神の言葉を強調。(説教の重視、二つに限定されたサクラメント、実体変化や犠牲奉献を取り除き、制定の言葉を重視など)
  2. 全信徒祭司性による会衆の参与。(自国語の使用、二種陪餐、会衆賛美など)

ルターの礼拝改革の進め方

  1. 人々への配慮から、急進的な改革はしない。特に弊害のない事柄は、廃れる時や取り除くにふさわしい時が来るのを待つ。
  2. 一つの形が絶対化されてはならない。どのような礼拝順序を取るかについて自由を尊重する。

ルターの礼拝改革に学ぶこと

  1. 御言葉の強調。神の言葉の説教と、聖餐における制定語の重視。(パンのかたまりを裂く行為などは、「見せ物的ミサ」への逆戻りである。)
  2. 礼拝への信徒の参加や会衆の参加を、様々に工夫する。(読み交わす部分を多くするとか、聖書朗読も教会員が当番で行うなど。賛美の伴奏もオルガンだけで行うのではなく、合奏にしたりコーラス隊を入れたり。)
  3. 自国語で賛美歌を歌う。(キリエ・エレイソンとかグロリア・インエクセウシス・デオとかの伝統的典礼的に定着している言葉は別として、「アラル・アラメ」(21-272)、「サレナム、サレナム」(21-508)、「バーニング・ハート」(21-555)などとは歌わない。そうすると、「ノエル、ノエル」(21-258)も微妙。クリスマスに歌わないわけにはいかないけけど。)(聖歌隊も、気取ってラテン語などで歌うことはしない。)
  4. ふさわしい賛美歌がなければ、作る。(個人で賛美の詞を書いてます、曲を作ってますという人もたくさんいるけど、教会として礼拝のために。教会オリジナルの讃美歌を作っていると聞いたことがあるのは、阿佐ヶ谷教会、西千葉教会(合唱曲?)、鎌倉雪ノ下教会(いまでも?)、行人坂教会などなど。)
  5. よりよく礼拝するために信仰を理解する学びも重要。(三要文(さんようもん)すなわち、十戒、使徒信条、主の祈りの学び。「この三篇には、キリスト者が知る必要のあるほとんど全てが、簡潔に短く示されている。」(ルター「ドイツミサと礼拝の順序」『ルター著作集 第1集第6巻』p.424))(『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』を用いた学びを教会全体で行うことも、宗教改革500周年の記念として意味がある。)
  6. 従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちに配慮し、また、目新しいものにすぐに飛びつく人たちがいることに注意し、急進的な改革はしない。
  7. 礼拝の順序自体が絶対化されてはならない。ただし、ころころ変えるのは混乱するのですべきでなく、一方、弊害があればすぐに変更すべき。

ルターの礼拝 [礼拝]


ルターの礼拝についての基本的な著作は、
 「会衆の礼拝式について」(1523年)
 「フォーミュラ・ミサ」(1523年)
 「ドイツミサ」(1526年)
の三つ。
礼拝順序が示されているのは「フォーミュラ・ミサ」と「ドイツミサ」。しかしいずれも、いわゆる式文ではない。


1.Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine


1523年の聖霊降臨日。ドイツ語で書かれた。

邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。

礼拝順序を示しているわけではないが、礼拝から不純物を取り除き、御言葉による礼拝の回復と、神の言葉が説教されることを訴えている。


2.Formula missae et communionis


1523年末。ラテン語で書かれた。

一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。あるいはこれをもとに鈴木浩、湯川郁子によって改訂されたものが『ルター著作選集』(教文館、2005)のpp.437-460。

特徴は、
  • ①他の考え方をするのは自由であり、ルターはこれが強制されることを望んでいない。
  • ②ラテン語であり伝統的な様式を踏襲しているのは、従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちへの配慮であり、また、目新しいものにばかり飛びつく連中がいるため。
  • ③伝統に沿いつつも、人間が犠牲を献げることにつながる要素を徹底して排除。具体的には、奉納と奉献文を否定して実体変化と犠牲奉献に関わる言葉や所作を取り除いた。かわりに制定語を重視。
  • ④自国語による説教を勧め、自国語の讃美歌の必要を述べている。


3.Deutsche Messe und ordnung Gottisdiensts


1526年元旦。ドイツ語で書かれた。

一般に「ドイツ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)。

特徴は、
  • ①自国語による礼拝。
    (ただし、
    • a) 自国語による礼拝の実践はすでにカールシュタットらが行っていた。
    • b) 賛美歌をドイツ語で会衆も歌うが、ドイツ語の讃美歌が十分に揃うまではラテン語も許容。
    • c) 目的は信徒の信仰理解のためと、異教徒や未信者、若者・子ども、召し使いへの伝道・教育のため。)
  • ②礼拝の順序も言語もそれ自体が絶対化されたり強制されてはならず、各人の自由であることを強調
    (ただし、ころころ変えるのは民衆が混乱するのですべきでない。また、弊害があればすぐに変更すること。)。
  • ③信徒の信仰理解、異教徒への伝道、子どもへの教育のために、教理問答を重視。
  • ④急進的な改革をせず、時が来るのを待つ。祭服などは、廃れるか、廃止したいと思うようになるまでそのままにしておく。
  • ⑤標準説教集(説教範例)の必要を提起。

ドイツミサは、フォーミュラ・ミサを廃止したり変更したりするものではない。必要に応じて用いる自由がある(『ルター著作集 第一集第六巻』P.421-422)。結果として、ドイツミサよりもフォーミュラ・ミサがドイツ語の形で定着し、また、宗教改革の広がりに伴って各国語で行われることになった(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』p.437)


文 献(順不同)


見たもの


  • 前田貞一「ルター派の礼拝」、『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)pp.369-373。
  • W.ナーゲル(松山與志雄訳)『キリスト教礼拝史』(教文館、1998年)のpp.158-169。
  • J.F.ホワイト(越川弘英監訳)『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』(日本基督教団出版局、2005年)のpp.63-85。
  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)の「礼拝の系譜」の項目の中の徳善義和「ルター派」、pp.436-438。「礼拝の歴史」の項目の中の出村彰「宗教改革時代」、pp.486-488。
  • 徳善義和「ルターと讃美歌2 信仰改革は礼拝改革へ具体化」、『礼拝と音楽』158号、2013夏、pp.52-56。

見たけど役立たなかったもの


  • 『ルターと宗教改革事典』(教文館、1995年)の「礼拝改革」の項目(徳善義和)。記述の分量が少なく、フォーミュラ・ミサやドイツミサの中身の話はない。
  • 『礼拝と音楽』No.175、2017年秋号。特集「礼拝改革者ルター」。ルターの礼拝改革に取り組む具体的な話はないし、フォーミュラ・ミサやドイツミサについても上の文献を補うような知見はなかった。カトリック、フォーミュラ・ミサ、ドイツミサ、ミュンツァーのドイツ語ミサ、ブツァー、カルヴァンの礼拝式順を比較できる一覧表(p.18)があるのは便利かも。

見ていないもの


  • V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969年。
  • ゴードン・W・レイスロップ(平岡仁子訳)、『21世紀の礼拝――文化との出会い』 、教文館、2014年、125頁、1500円+税。


補 足


前田貞一は『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977)の「ルター派の礼拝」の項目で、ルターの著作で礼拝順序に関わる基本的なものとして英語版ルター著作全集"Luther's Works"から、上記3つの他に、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"(1525)を挙げている。

これの原題は"Eyne Christliche vormanung von eusserlichem Gottis dienste vnde eyntracht, an die yn lieffland." WA18, 417-421. 現代ドイツ語では"Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland."

しかし、これは当時のバルト海沿岸のリボニアの町ドルパートでの宗教改革を励ますために送られた手紙で、ルターの礼拝観は表れているだろうが、ドイツでの話ではないので、基礎的な文献ではこの著作については全く触れられていない。邦訳もなし。



説教は説教者を越えていく [礼拝]


わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。
1テサロニケ2:13より
1.

説教者は、説教の準備において自ずと、その時の教会の課題や時代の状況の中で聖書を読むことになる。同じように、説教者の信仰の傾向やその時々の信仰的関心が説教に影響を与える。言わば、説教者の信仰が説教に表れ出る。それゆえ説教者は、自分の信仰を客観的に見つめ、それに囚われないように聖書を読むことを心がけなければならない。

2.

説教は、説教者の解釈を披瀝するものではなく、説教者が見出した真理を提示することでもない。説教の準備と語りに真摯に取り組むならば、説教者は、その中で自らの信仰が問い直され、理解が深められ、枠組みが変えられていく。説教を語っている最中や語り終えた後に、準備の時には気づかなかった恵みを見い出すこともある。自分の説教に自分自身が養われることがある。説教は、それまでの説教者を越えていく。

3.

さらに、会衆が説教を聞くとき、説教者が気づいていない恵み、説教者の意図を越えたものを聞き取ることがある。語られた説教の内容と聞かれた説教の内容とは同じではない。説教の言葉は、説教者を越えて会衆に聞かれる。そこで説教は、神の言葉として語られ、聞かれている。

4.

説教が神の言葉として語られ聞かれるとき、聖霊なる神が働いておられる。一人の人間である説教者が語る説教は、聖霊によって、神の言葉として語られ、聞かれる。そのとき、説教の言葉は、単に情報の伝達にとどまらず、会衆一人ひとりをそれまでとは異なる一人ひとりにし、教会全体をそれまでとは異なる教会にする。神の言葉の説教が語られるとき、そこに新しい何かが引き起こされる。説教が語られるところでは、わたしたちが気づかなくても、そこで新しい何かが生じている。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
イザヤ43:19より

11の使える招詞 [礼拝]

『讃美歌21』93-1やカンバーランド長老キリスト教会の『神の民の礼拝』、その他に挙げられている招詞を集めた招詞のリスト4(総集編)の中から、

神が、

わたしたちを、

礼拝に、

呼び集め招く


感じの御言葉を30箇所ピックアップ。


 申命記6:4-5
 歴代上16:36≒詩編106:48
 詩編29:1-2
 詩編33:1-3
 詩編46:11
 詩編50:14-15
 詩編95:6-7
 詩編96:1-3 ≒歴代上16:23-24
 詩編100:1b-3a
 詩編100:4-5
 イザヤ43:1
 イザヤ55:1
 イザヤ60:1
 ヨエル3:1、5a ≒使徒2:17、21
 ハバクク2:20
 ゼカリヤ2:14
 ゼカリヤ8:7-8
 マタイ7:7-8
 マタイ11:28
 ヨハネ3:16
 ヨハネ4:23
 ヨハネ6:35
 ヨハネ8:12
 ローマ12:1b
 ヤコブ4:8
 1ペトロ2:9-10
 1ペトロ3:18a
 黙示録3:20
 黙示録19:5
 黙示録21:6-7


さらに厳選して11箇所にしぼってみた。

 詩編29:1b-2
 詩編46:11
 詩編96:1-3
 詩編100:1b-3a

 イザヤ43:1def
 イザヤ60:1
 ハバクク2:20

 マタイ11:28
 ヨハネ4:23ab
 ヨハネ6:35
 ローマ12:1b


一年間、招詞聖句を一つに固定して用いる場合、たとえば、

詩編→預言書→新約

のパターンを3回繰り返し、4回目だけは 詩編→新約 とすれば、招詞の御言葉を11年周期で用いることができる。

11という素数にするのは、頌栄の讃美歌やその他との組み合わせがなるべく重ならないようにするため。



追加:
エレミヤ33:3も悪くない。



votumとは何か(3) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

votumという語はどこから出てくるのか。


1.
カルヴァンの礼拝式文1542、1545、1559には、votumという語は出てこない(CR,OSで確認)。

Calvin himself never called it a votum, as far as we know.

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," p.159.



2.
1545年にストラスブールでフランス人教会の礼拝に出席したひとりの学生が礼拝の順序や様子を手紙に書いた。それによると、礼拝の最初はvotumである。
H.G.ヘイゲマン(矢崎邦彦、高橋隆教訳)、『礼拝を新たに』、日本基督教団出版局、1995年、p.43。

おそらく、votumとしてミサの準備に司祭が唱える詩編124:8がストラスブールの礼拝の最初に出て来たので、votumと書き記したのではないだろうか。


3.
1562年のジュネーヴ教会の礼拝順序には出てくるのか?
秋山の紹介の中で、「はじまりのことば(「ヴォタム」という)」と記されている。
秋山徹「カルヴァンのジュネーヴ教会の礼拝」、『礼拝と音楽』142号、2009年夏号、p.20。



4.
1574年のドルト教会会議(Synod of Dordrecht)で、詩編124:8をvotumとして用いることになった。ただし、順序は、Scripture reading and the singing of a Psalmが最初で、その次がvotum。

Geoffrey Wainwright and Karen B. Westerfield Tucker eds., "The Oxford History Of Christian Worship," Oxford University Press, 2005, p.465.


The Synod of 1574 also made use of a fixed votum, a mandatory beginning to the service. Later editions of the liturgy omit mention of the votum.

Donald J. Bruggink and Kim N. Baker, "By Grace Alone: Stories Of The Reformed Church In America (Historical Series of the Reformed Church in America No.44)," Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2004, p.112.


アブラハム・カイパーは、votumとして選ばれる言葉は短い文がよいという議論の中で次のように言っている。
The Synod of Dortrecht (1574) was quite right, thefore, to prescribe the words of Psalm 124:8 as the votum.

Abraham Kuyper, ed. by Harry Boonstra, trans. by Harry Boonstra et al., "Our Worship" (Calvin Institute of Christian Worship Liturgical Studies), Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009, p.109.
原著は、"Onze Eeredienst," 1911.
この15章(pp.107-115)が"The Votum"という章で、小見出しは、When to Be Pronounced? / Which Votum? / God's Presence / The Words of the Votumとなっている。





No-one is quite sure of how this awkward Latin word crept into and managed to stay in a Reformed liturgy...

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," p.159.





タグ:礼拝式文

votumとは何か(2) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

ラテン語の元々の意味と当時のカトリック教会でのvotumについて。


1.ラテン語の元々の意味

①(神への)誓約
②(満願成就のお礼としての)奉納物、供物
③祈願;願望、欲求誓い、誓約
④結婚の誓い、結婚

水谷智洋編『羅和辞典 改訂版』、研究社、2009年。


なお、中世のラテン語としては「ヴォートゥム」と発音する。「ヴォータム」は英語読み。


2.カトリック神学

『キリスト教神学用語辞典』の「意向」の項:
votum〔ラ〕「誓い」 カトリック神学において(はっきりと表明したもの、そうでないものを問わず)人がその機会に恵まれていない時に、教会の秘跡に与りたいといういう意志。またある行為が実現される前に表明された、通常司教あるいは長上の意見。

ドナルド・K.マッキム(高橋俊一、熊澤義宣、古屋安雄監修、神代真砂実、深井智朗訳)『キリスト教神学用語辞典』日本基督教団出版局、2002年。



3.キリストに仕える信者

紀元1000年以降、修道院以外で修道士と同じようにキリストに仕える信者は"votum"と呼ばれていた。つまり、そのような人の望みは主にあったというところにこの言葉の語源がある。

W.ジャンセン「アメリカ改革派教会における礼拝の祝い」、『季刊教会』51号、2003.6、p.19。


votumということばは、・・・中世では修道院に入った人々と同じように、厳粛にキリストに仕えようとする信徒のために用いられていた。後に、それは修道士の誓願に使用された。

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝の理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.10。



4.司祭の沈黙の祈り

the votum first appeared in the service around the year 1000, but it was a silent prayer by the priest.

F. Gerrit Immink, trans. by Reinder Bruinsma, "The Touch of the Sacred: The Practice, Theology, and Tradition of Christian Worship," Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2014, p.17.



5.司祭がミサの準備として

votumと呼ばれていたわけではないが、詩編124:8は、カトリックのミサの準備として、司祭が個人的に唱えていた聖句とされていた。

The saying of Psalm 124:8 was originally said privately by the priest; he whispered it along with his private confession of sin as he entered the sanctuary to celebrate mass. Thus, ・・・it was part of the priest's private preparation for worship.

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," Christian Reformed Publishing House. この中のSupplement 3 'Liturgical Committee'の部分(pp.134-198)。引用はp.159。
(この報告文書は、"Psalter Hymnal Supplement: With Liturgical Studies and Forms," Board of Publications of Christian Reformed Church, 1974にも収録されているようだ。)
この情報は、カルヴィン大学とカルビン神学校が設置しているCalvin Institute of Christian Worshipのサイトの中のChristian Reformed Church Worship Snapshotというページによる。



なお、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)にはこれに関する項目も記述も全くない。
"New Westminster Dictionary of Liturgy and Worship" (J. G. Davies ed., 2nd ed. 1986 / Paul Bradshaw ed., 2003)は見ていないので不明。




タグ:礼拝式文

votumとは何か(1) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

引用1-1
VOTUM
Our help is in the name of the Lord,
who made heaven and earth.
Amen.

"Order of Worship for the Lord's Day," Reformed Church in America, 1987.


引用1-2
votumという用語は、改革派教会では、主の礼拝を開始する宣言として、願い求めを言い表すために、用いられる。

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝の理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.10。


引用2
招きの言葉の前に次のような言葉を読むことも、プロテスタント教会の古くからの伝統です。この部分はvotumと呼ばれ、神に願い求めることを意味します。
司式者「父と子と聖霊の名によって」
会 衆「アーメン」
司式者「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(詩編124・8)

小栗献『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.81。



1.アメリカ改革派教会
アメリカ改革派教会Reformed Church in America(RCA)の礼拝式文"Order of Worship for the Lord's Day"(1987)は、"Liturgy of the RCA"というページの中のhttp://images.rca.org/docs/worship/lordsday.pdf

礼拝指針"The Directory for Worship"はhttps://www.rca.org/resources/directory-worship


2.キリスト改革派教会
もう一つのアメリカの主要な改革派教会である北米キリスト改革派教会Christian Reformed Church in North America(CRCNAあるいは単にCRC)の式文についての情報は、CRCのサイトの中の"Liturgical Forms & Resources"というページ。

これによると、"Psalter Hymnal" (1987)に収録されているようだが、見たことないので詳細は不明。

CRCのサイトにService for Word and Sacrament (1981)というページがある。ここにはvotumという言葉は出てこないが、冒頭のThe Openingの最初に、
Minister: In the name of the Father, and the Son, and the Holy Spirit.
People: Our help is in the name of the Lord, who made heaven and earth.

とある。

votumについては、Acts of Synod(1968)(PDF 20.39MB)の中でSupplement 3として収録されているLiturgical Committeeからの報告の中で詳細に論じられている(pp.159-160あたり)。

ただし、この報告では、礼拝の始まりにおいてvotumはinvocationとほとんど同じ意味を持っており、主は御言葉が告げられることによってというよりも祈りへの応答として現臨されるのであるから、invocationを使うことにしてvotumという言葉を使うのは止めましょうと提案している。(p.161)


3.
もっとも、RCAやCRCでこれらがどのくらい規範性・拘束力をもっているか、どのくらい実際に使われているかという問題もあるが、CRCの方はどの教会もこの通りに行うようだ。

アメリカ改革派教会の問題はといえば、典礼や礼拝に関して余りにも自由である、という点にある。・・・実に多種多様な讃美歌が置かれており、また礼拝順序も雑多なものの寄せ集めである・・・。キリスト改革派教会では・・・典礼は一つと決まっていて(しかもそれが守られており)、讃美歌も一冊しかない・・・。

I.J.ヘッセリンク(廣瀬久允訳)『改革派とは何か』教文館、1995年、pp.54-55。



4.長老教会
ちなみに、長老教会では、Presbyterian Church(U.S.A.)とCumberland Presbyterian Churchの共同の礼拝式文"The Service for the Lord's Day"が"Book of Common Worship"(Westminster/John Knox Press, 1993)の中にある。

→ ネット上の全文(PDF 4.90MB)

そこには、votumという言葉はないが、Call to Worshipの部分で、Greetingの次のSentences of Scriptureとして読まれる聖書箇所の例の筆頭に詩編124:8が挙げられている。

なお、PC(U.S.A.)は現在、The Directory for Worshipの改訂作業を行っている。



タグ:礼拝式文

招詞のリスト4(総集編) [礼拝]

招詞のリスト1(日本基督教団式文(試用版))、
招詞のリスト2(カンバーランド長老キリスト教会、2007年)、
招詞のリスト3(キリスト改革派、PC(USA)、RCA)
をマージしたもの。

こうしてみると、神が我々を招く言葉も、人間の側が神を礼拝しようと宣言したり呼び掛けたりする言葉も、votumも、威勢のよい開会の言葉も、何でもありという感じだ。

(詩編は節番号がずれているものがあるかも)

(太字は複数回挙げられている箇所)


創世記1:1,3
出エジ15:2
出エジ20:8
申命記6:4-5
ヨシュア1:5
歴代上16:34,36
ヨブ19:25

詩編24:1
詩編24:9-10
詩編29:2
詩編33:1-5
詩編34:3
詩編34:13-15
詩編43:3-4
詩編46:10
詩編50:14-15
詩編51:12-14
詩編51:19による
詩編68:20-21
詩編95:1,2
詩編95:1-3
詩編95:1-7
詩編95:6-7
詩編96:1-2
詩編96:1-3
詩編96:1-4
詩編98:1,3による
詩編100
詩編100:1-2
詩編100:1b-3a
詩編100:1-5
詩編100:1,2,5
詩編116:12,13
詩編118:23-24
詩編118:24
詩編124:8

イザヤ35:1-2
イザヤ40:4-5
イザヤ40:9b-10a
イザヤ40:28,31
イザヤ42:1a
イザヤ43:1
イザヤ43:18-19a
イザヤ53:6,12c
イザヤ55:1,6-7
イザヤ55:6-7
イザヤ55:6,7b
イザヤ57:15
イザヤ60:1-2
エレミヤ6:16abcd
エゼキエル36:26a,28bによる
ホセア10:12abc
ヨエル2:12-13a
ヨエル3:1
ミカ6:6,8より
ハバクク2:20
ハガイ1:8
ゼカリヤ2:14,17
ゼカリヤ8:7-8
ゼカリヤ9:9による
マラキ1:11
マラキ3:1

マタイ5:3
マタイ5:9
マタイ6:33a
マタイ7:7-8
マタイ8:11
マタイ11:28
マタイ16:24
マタイ19:14bcd
マタイ21:9b
マタイ24:44
マタイ28:5b-6b
マタイ28:18-20
マルコ1:15
マルコ2:17bc
ルカ2:10b-11
ルカ3:4b-6
ルカ10:20
ヨハネ1:14
ヨハネ3:16
ヨハネ4:23
ヨハネ4:23-24
ヨハネ4:24
ヨハネ6:35
ヨハネ6:51ab
ヨハネ6:51
ヨハネ8:12
ヨハネ10:9
ヨハネ10:11
ヨハネ10:14,15b
ヨハネ11:25
ヨハネ12:24
ヨハネ14:6
ヨハネ14:26
ヨハネ16:13a
ヨハネ16:33bc
ヨハネ20:21-22

使徒1:8
使徒2:17ab,21
使徒3:6c
使徒16:31bc
ローマ5:5
ローマ5:5-6
ローマ12:1
ローマ13:12
1コリント10:13bc
1コリント13:13-14:1a
1コリント15:54b-55
2コリント5:17
2コリント9:10
ガラテヤ3:28
エフェソ3:12
エフェソ4:22-24
エフェソ5:9-11
エフェソ5:14
エフェソ5:14cde
フィリピ4:6-7
コロサイ3:16
コロサイ4:2
1テモテ1:15
2テモテ3:16-17
2テモテ4:1-2
テトス2:11
ヘブライ4:14-16
ヘブライ12:14
ヘブライ13:7
ヘブライ13:15
ヤコブ1:12
ヤコブ4:8
1ペトロ2:3-4a
1ペトロ2:9-10
1ペトロ3:9
1ペトロ3:10-11
1ペトロ3:18a
1ペトロ5:6
1ペトロ5:7
2ペトロ1:5-7
1ヨハネ3:5
1ヨハネ3:16による
1ヨハネ3:16-18
1ヨハネ4:9
ユダ21
黙示録2:7
黙示録2:10de
黙示録3:8
黙示録3:18-19
黙示録3:20
黙示録19:5
黙示録19:5b
黙示録21:5
黙示録22:20



タグ:礼拝式文

招詞のリスト3 [礼拝]

■日本キリスト改革派の式文

『日本基督改革派教会式文』(1984年)(リンクはpdf)招詞の例として記されている個所:

詩編95:1-7
詩編96:1-4
詩編100:1-5
ヨハネ4:23-24
黙示録19:5


■PC(USA)

PC(USA)とCumberland Presbyterian Churchの"Book Of Common Worship" (Westminster/John Knox Press, 1993)で、主日礼拝式文The Service for the Lord's Dayの一番最初の"Call to Worship"の中の"Sentences of Scripture"の部分(p.48-50)に挙げられている聖書箇所:

詩編124:8
詩編118:24
詩編95:1,2
詩編116:12,13
詩編34:3
詩編96:1,2
詩編100:1,2,5
ミカ6:6,8より
マラキ1:11
詩編24:1
(その他、教会暦に沿った個所などがたくさん別記されている)


■RCA

RCAの1987年の"Order of Worship"の"Votum"(詩編124:8)の次の"Sentences"に挙げられている聖書箇所:

詩編95:6-7
詩編33:1-5
詩編43:3-4
詩編96:1-3
詩編100
出エジ15:2
イザヤ55:1,6-7
ゼカリヤ8:7-8
ヨハネ4:24

(日本語に訳されたものは、アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年。)



タグ:礼拝式文

招詞のリスト2 [礼拝]

■カンバーランド長老キリスト教会

『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』(一麦出版社、2007年)で招詞として挙げられている個所は、式文中に記されている詩編95:6-7と、追加として後ろにまとめられている81個所がある。

追加分の中には、「教会暦と行事に沿った招詞」と「主題に沿った招詞」も含まれている。

これら82の招詞個所を聖書の順に記すと次のようになる。

(新約からたくさん選ばれているのが特徴的)

出エジ20:8
申命記6:4-5
歴代上16:34,36
詩編34:13-15
詩編50:14-15
詩編95:6-7
詩編100:1b-3a
詩編124:8
イザヤ40:28,31
イザヤ53:6,12c
イザヤ55:6-7
イザヤ60:1-2
エレミヤ6:16abcd
ホセア10:12abc
ハガイ1:8
ゼカリヤ2:14,17

マタイ5:3
マタイ5:9
マタイ6:33a
マタイ7:7-8
マタイ8:11
マタイ19:14bcd
マタイ24:44
マタイ28:5b-6b
マタイ28:18-20
マルコ2:17bc
ルカ2:10b-11
ルカ3:4b-6
ルカ10:20
ヨハネ1:14
ヨハネ4:23-24
ヨハネ6:35
ヨハネ6:51ab
ヨハネ6:51
ヨハネ8:12
ヨハネ10:9
ヨハネ10:11
ヨハネ10:14,15b
ヨハネ11:25
ヨハネ14:6
ヨハネ14:26
ヨハネ16:33bc
ヨハネ20:21-22
使徒1:8
使徒2:17ab,21
使徒3:6c
使徒16:31bc
ローマ5:5-6
1コリント10:13bc
1コリント13:13-14:1a
2コリント9:10
エフェソ3:12
エフェソ4:22-24
エフェソ5:9-11
エフェソ5:14cde
フィリピ4:6-7
コロサイ3:16
コロサイ4:2
2テモテ3:16-17
2テモテ4:1-2
テトス2:11
ヘブライ4:14-16
ヘブライ12:14
ヘブライ13:7
ヘブライ13:15
ヤコブ1:12
1ペトロ2:3-4a
1ペトロ2:9-10
1ペトロ3:9
1ペトロ3:10-11
1ペトロ5:6
1ペトロ5:7
2ペトロ1:5-7
1ヨハネ3:5
1ヨハネ3:16-18
1ヨハネ4:9
ユダ21
黙示録2:7
黙示録2:10de
黙示録3:18-19
黙示録3:20
黙示録19:5b



タグ:礼拝式文

招詞のリスト1 [礼拝]

■日本基督教団の式文

日本基督教団信仰職制委員会編『日本基督教団式文(試用版)主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』(日本基督教団出版局、2006年)は、「主日礼拝式A」の招詞の部分で、『讃美歌21』96-1に招詞の例があるとしつつ、詩編95:1-3を記している。

ただし、詩編95:1-3は『讃美歌21』93-1では挙げられていない。

『讃美歌21』93-1には、特定の教会暦のものも含めて53例が挙げられている。

そこで、これらに詩編95:1-3を加えた54の招詞個所を、聖書の順に記すと次のようになる。


創世記1:1,3
ヨシュア1:5
ヨブ19:25
詩編24:9-10
詩編29:2
詩編46:10
詩編51:12-14
詩編51:19による
詩編68:20-21
詩編95:1-3
詩編96:1-2
詩編98:1,3による
詩編100:1-2
詩編118:23-24
詩編124:8
イザヤ35:1-2
イザヤ40:4-5
イザヤ40:9b-10a
イザヤ42:1a
イザヤ43:1
イザヤ43:18-19a
イザヤ55:6,7b
イザヤ57:15
イザヤ60:1-2
エゼキエル36:26a,28bによる
ヨエル2:12-13a
ヨエル3:1
ハバクク2:20
ゼカリヤ9:9による
マラキ3:1

マタイ11:28
マタイ16:24
マタイ21:9b
マルコ1:15
ヨハネ3:16
ヨハネ4:23
ヨハネ12:24
ヨハネ16:13a
使徒1:8
ローマ5:5
ローマ12:1
ローマ13:12
1コリント15:54b-55
2コリント5:17
ガラテヤ3:28
エフェソ5:14
1テモテ1:15
テトス2:11
ヤコブ4:8
1ペトロ3:18a
1ヨハネ3:16による
黙示録3:8
黙示録21:5
黙示録22:20



タグ:礼拝式文

説教題と礼拝のテーマ [礼拝]

1.説教題は礼拝全体のテーマ
 講解説教でも主題説教でも、説教のテーマに従って、その他の聖書箇所や讃美歌が選ばれる。
 すると、説教題はもはや説教のタイトルである以上に、礼拝全体のテーマとなる。

2.礼拝にはテーマがある
 教会暦や行事暦がまずあって、それに従って聖書箇所や讃美歌が選ばれることもある。その場合には、その日の教会暦や行事暦が、その礼拝のテーマである。

 いずれにしても、讃美歌と読まれる聖書箇所、そして説教が一つのテーマで統一される。礼拝には毎回、テーマがあるのである。

3.主日聖書日課のテーマ
 教団の聖書日課では、毎主日の礼拝のテーマが示されている。例えば、聖霊降臨日には「聖霊の賜物」というテーマが付けられている。聖霊降臨節第二主日(三位一体主日)には、4年サイクルの各年で異なり、「神の富」、「神の子とする霊」、「教会の使信」、「真理の霊」となっている。

 教団の現在の聖書日課は、イギリスのジョイント・リタージカル・グループの1990年の『四年サイクル主日聖書日課』(通称:JLG2)を参考にして作成されている。1967年のJLG1には「テーマ」があったが、JLG2では「テーマ」がなくなったという。しかし、日本基督教団の主日聖書日課では、「テーマ」が「主日毎の三つの聖書箇所を繋ぐもの」として残された。
 「テーマ」は、「説教のメッセージを規定するものではなく、三か所の聖書箇所を繋ぐもの」であって、「説教者が一つのテキストに基づいて説教をする時にも他の章句が朗読されることによってその章句自身が語っている」。

日本基督教団出版局聖書日課編集委員会編『新しい教会暦と聖書日課――4年サイクル主日聖書日課を用いるために』、日本基督教団出版局、1999年、148ページ。

4.説教題?
 さてそうすると、礼拝のために提示するのは説教題がふさわしいのだろうか。むしろ、礼拝全体のテーマを提示する方が、会衆全体がその礼拝を理解して心を合わせてささげるのに有効ではないだろうか。まして、礼拝の中で説教の時になったら“○○先生から□□と題してお説教をいただきます”と聞かされていては、いつまでも説教が“牧師先生のお話”としか理解されないだろう。

 あるいは、教会の前の掲示板に次主日の説教題を掲示する習慣はどうだろうか。むしろ、教会の外掲示板に掲示すべきは、教会の前を通る地域の人たちが礼拝に足を運んでくださるような言葉ではないだろうか。
 すなわち、「十字架の贖いの恵み」という信徒にしか分からない説教題を外掲示板に掲示するのではなく、より伝道的に「あなたにも差し出されている恵み」とか、「どの人の人生も肯定されている」とか、説教題や礼拝テーマとは別に伝道的テーマを設定する、あるいはこれを礼拝テーマとするのがよいのではないだろうか。


タグ:教会暦

礼拝全体の流れに気を配る [礼拝]

1.礼拝の中心は、説教と聖礼典、とりわけ時を定めて繰り返される聖餐である。しかし、礼拝全体も大切である。礼拝全体が主の現臨される場である。それゆえ牧師・伝道師は、主が現臨される場としてどうしたらよりふさわしい礼拝となるか、常に礼拝全体に気を配り、心を砕いていなければならない。
 日曜日の夜は感謝しつつその日の礼拝を振り返り、翌月曜日は主に期待して次の礼拝に向けての対策を練る。

2.もちろん、礼拝の中心は説教と聖餐である。それならば、説教に向かう礼拝の流れや聖餐の流れ、そして、祝福と派遣への流れが大切である。
 この流れとは、讃美歌が歌われて次に祈りがなされてというような「礼拝式順」とか「礼拝順序」のことではない。会衆が御言葉に向けて心を一つに合わせていく流れであり、主からの祝福の受領に向けて主に結び付けられた群れとされていく流れである。礼拝には、「順序」があるのではなく、「流れ」がある。

3.そこで、牧師・伝道師は、礼拝全体の流れに気を配り、心を砕く。
会衆がもっと心を主に向けるためにどうしたらいいか。
会衆が一人ひとりばらばらに心を主に向けるのではなく、心を合わせ思いを一つにするにはどうすればいいか。
心を一つにして賛美できるように、奏楽のテンポ、弾き方などを綿密に打ち合わせているか。
御言葉を味わい、主との交わりを見出すためにどうしたらいいか。
主の民として主にある交わりを喜び合うには、どうすればいいか。

 主に従った弟子たちが心を合わせているところに聖霊が降り(使徒1:14「心を合わせて」、2:1「一同が一つになって」)、思いを一つにしているところに神礼拝がある(フィリピ2:1~11。特に2節「心を合わせ、思いを一つにして」)。
 牧師・伝道師は、説教の準備に追われるばかりであってはならず、会衆がまことの礼拝をささげられるように礼拝を整えることを疎かにしてしまってはならない。

4.礼拝は、教会がなすべき務めである。それゆえ、礼拝全体の流れを整えることは、役員会の大切な任務の一つであろう。礼拝のことは牧師にすべてお任せということになってしまってはいないだろうか。
 しかし、役員会の意思決定とそれを教会員に周知徹底させることでもって礼拝が整えられるのではなく、牧師の心配りとアイディアで礼拝がまことの礼拝となるのでもない。
 主は、ただ聖霊によって現臨される。礼拝は、よかれと思ってなされる人間の企てがすべて打ち砕かれたところで、ただ聖霊によってまことの礼拝となる。それゆえ、礼拝のためにわたしたちのなすべきことは、結局のところ、ただひたすらに聖霊なる神の助けを祈り求めることに終始する。

「主の祈り」のカードを作る (2)「主の祈り」の表記 [礼拝]

前の記事「「主の祈り」のカードを作る(1)」へ

 「主の祈り」のカードを作るにあたって、その表記が問題となる。声に出せば同じだが、どこを漢字にするかなど、本によってまちまちである。例えば、『讃美歌』1954年版の564番は、「試み」、「赦す」、「力」などが仮名書きになっているが、これはおそらく、振り仮名の付かない小さな字の読みやすさとか判別のしやすさなどを考慮してそうしたのであろう。『讃美歌21』の93-5Aは、これをそのまま採用し、句読点と改行を加えた礼拝文となっているが、安易すぎる。これを「主の祈り」の表記の参考にすべきではない。

 「主の祈り」の表記を検討する際の原文とすることの出来るものは、日本基督教団に属する者としては、『日本基督教団口語式文』に記されているものをなるべく尊重したい。ただし、この本は全体的に日本語がおかしかったり、校正されていないところが多いので鵜呑みにはできない。

1.名称の表記は、現代の送りがなに従って「主の祈」ではなく「主の祈り」とする。「主の祈り」の本文と送りがなの使い方で統一されなくなるかもしれないが、礼拝順序などに記すことを考えて、題は「主の祈り」とする。

2.『信徒必携 新改訂版』p.2に、『日本基督教団口語式文』と全く同一の表記に、現代仮名遣いが添えてある。それに従って現代仮名遣いで表記すると、次のようになる。
「天にまします我らの父よ、願わくはみ名を崇めさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になる如く地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。」(実際には漢字に振り仮名つき)

3.「如く」と「ごとく」が混在しているので、仮名書きに統一する。
4.「み名」と「み国」は熟語であって一方のみを仮名書きにしては読みにくいので漢字を使い「御名」、「御国」とする。ただし、「みこころ」は「こころ」が仮名書きであり、しかも文頭にあるので、そのままとする。
5.その他の漢字の使用と送りがなは原文のままとする。すなわち、「願わくは」や「赦す」、「試み」などを仮名書きにしている例があるが漢字を使う、「あわせず」は仮名書きのまま。「栄」は「栄え」としない。「汝」も漢字を使い、すべての漢字に振り仮名を付ける。
6.句読点は変えず、そのところで改行する。

以上の手続きを経た「主の祈り」は次のようになる。(ルビはその漢字の後にかっこ書き)
主の祈りカード.jpg
天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、
願(ねが)わくは御名(みな)を崇(あが)めさせたまえ。
御国(みくに)を来(きた)らせたまえ。
みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。
我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。
我(われ)らに罪(つみ)を犯(おか)す者(もの)を我(われ)らが赦(ゆる)すごとく、
我(われ)らの罪(つみ)をも赦(ゆる)したまえ。
我(われ)らを試(こころ)みにあわせず、
悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。
国(くに)と力(ちから)と栄(さかえ)とは限(かぎ)りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。

「主の祈り」のカードを作る (1)継続して礼拝出席している未信者のために [礼拝]

 礼拝の中で「主の祈り」を共に唱和するために、新来会者や礼拝に出席し始めて間もない方にどう配慮するか。

 新来会者には「主の祈り」のポストカードを差し上げているが、その後も毎回ポストカードでは費用がかかる(1枚32円~)し、「『讃美歌21』の93の5のAをご覧ください」などと司式者がアナウンスしても、「主の祈り」を覚えていないくらい教会に来始めて日の浅い方は開けない。そこで、
 方法1 週報に「主の祈り」全文を掲載する。
 方法2 会衆席に備え付ける(カードケースに入れたり、『交読詩編』などの表紙裏に貼り付けたり)
 方法3 プロジェクターで投影する。
 方法4 ポストカード大のものを自作して、毎回受付で渡す。

 週報にスペースがなく、会衆席に備え付けるのも雑然としてしまうし、プロジェクターは使っていない場合、方法4で行くことになるだろう。その際、B6とかA5くらいのサイズのプリントを作って、どんどん渡すことになろうが、礼拝後、会衆席に無造作に置き残されていたりする。
 そこで、ハガキ大で紙厚がある程度あるしっかりしていて、印刷もきれいなものを作ったほうが、安易に捨てられることなく、聖書などに挟んでとっておかれやすい。

「主の祈りのカードを作る(2)」へ

信仰の継承と家族伝道のために、親子礼拝・家族礼拝を。 (次世代のために その3) [礼拝]

1.
日曜日、親子で教会に来ても、親は大人の礼拝、子どもは子どもの礼拝と、それぞれ別々の礼拝に出席するというケースが多いのではないだろうか。
年に何度か教会学校との合同礼拝と称して行っても、こどもたちは礼拝堂の一か所に固まって座っていて、静かにしているようにと教会学校の先生が目を光らせているというようなことはないだろうか。

 そこで思うのだが、親子が一緒に並んで主日礼拝を守ることはできないだろうか。
家庭での生活を通して親と子それぞれの信仰が養われることも大切だろうが、それ以上に、親子が一緒に並んで主日礼拝を献げてこそ、親の誠実な礼拝の姿勢が子どもに伝わり、あるいは子どもの素直で純粋な礼拝の姿勢が親の信仰を変えることにつながるだろう。
親子が共に主の御前にぬかずいてこそ、その家庭に祝福が注がれるだろう。親と子が共に祈り、共に賛美し、共に御言葉を聞き、共に信仰を告白する機会がなくて、どうして信仰を継承することができるだろうか。

2.
そういうわけで、親と子が一緒に礼拝、あるいは、おじいちゃん、おばあちゃんも一緒に、あるいは、子どもが成人していてもかまわない、孫もひ孫もいっしょでもちろんOK、とにかく家族みんなが一緒に並んで献げる主日礼拝を、信仰の継承と家族伝道のために行いたい。

 自分の親が教会に来るようにと切に祈っている子どもがいる。

 自分の子が礼拝に出席するようにと切に祈っている教会員がいる。

 夫が妻が救われるようにと涙を流して祈っている教会員がいる。

そういう人たちが、少しでも礼拝に誘える機会を作りたい。さりげなく、「こんどは家族礼拝の日だから、一緒に来てね」と言えるように。

 あるいは、教会学校に子どもを送ってくださる家庭もあるが、親は送り迎えだけというケースもよくある。そういう親も誘いたい。

3.
大人と子どもが一緒に礼拝する方法には、大まかに言って、次の3つのパターンがある。

 a) 最初から最後まで一緒

 b) 前半だけ一緒で、後半は子供たちは退出し、別室で分級。

 c) 途中で子供たちが退出するが、礼拝の最後の部分(献金や祝福)で戻ってくる。

 大人と子どもが一緒に礼拝すべきと主張しても実際はb)やc)などの部分的な子どもの参加に留まっていては、不十分どころか、やっぱり一緒に礼拝することはできないと認めてしまっている。そこには、

 子どもと一緒が可能な部分だけ一緒にするという安易さがないだろうか。

 説教などはやはり大人向けがないと困るという思いがないだろうか。

 1時間以上子どもが礼拝に出席することは困難だと思っているのではないだろうか。

 あるいは、子どもが1時間以上参加できないような雰囲気の礼拝になっていてそれを変えられないでいることはないだろうか。

 そして、b)やc)の場合は、子供たちがすぐに退出しやすいように、礼拝堂の中で子どもだけで固まって着席することになりがちであろう。親と子が並んで礼拝するという形にはなりにくい。

4.
本当に大人も子どもも一緒に礼拝するのなら、親と子が並んで、あるいは、子供たちも自由に礼拝堂の中に大人たちに混じって着席するようにしてはどうか。様々な年代の教会員と子供たちが一緒に並んで礼拝するのである。
家族の中で一人で礼拝出席している高齢者が、他の教会員の子どもと並んで礼拝し、子供たちは自分の祖父母よりも高齢の方と並んで礼拝する。子育て奮闘中で疲れ果てている方と、子育てを一段落した方とが一緒に礼拝して、支え合う。高校生・大学生の若者が、普段接することのない高齢者や幼い子どものために聖書や讃美歌を開いてあげる。・・・

 礼拝の最初から最後まであらゆる世代が一緒に礼拝したい。家族全員が、そしてあらゆる世代が、共に祝福を受け、共にキリストの恵みを携えて、世に派遣されていくのである。

(2010年7月26日初稿、2010年8月12日加筆修正)

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礼拝の構造(4) [礼拝]

6.いろいろ考えさせられたこと

(1)
従来、「神から人へ」「人から神へ」という観点で礼拝の要素や流れを捉えようとする考え方があったが、それでは礼拝の構造を捉えきれず、流れも明確に示すことができない。

また、礼拝の一つひとつの要素は、必ずしも「神から人へ」と「人から神へ」のいずれかに区分けできるものではない。例えば、讃美歌は、神に賛美をささげるものでもあるし、歌われている歌詞を通して福音が示されるものでもある。祈りも、神に感謝や願いなどを申し上げつつ、祈りを通して聖霊が働いてくださり慰めや励ましなどをいただくものである。

(2)
聖餐を感謝の部に入れる例があるが、聖餐は感謝ではない。

ユーカリストというのは、典礼の一部分を取り上げて名付けられたものであって、集いの終わりの言葉「イテ・ミサ・エスト」から礼拝自体が「ミサ」と言われるようになったのと同じようなものである。名称の意味がそのまま事柄の本質を表すのではない。

(3)
上で述べたように、礼拝の要素は「神から人へ」と「人から神へ」のいずれかというようには割り切れないものであるが、礼拝の構造の名称の実践例としては、「招き」や「祝福」のように神からのものと、「感謝」や「悔い改め」のように人からの応答の意味合いが強いものとが混在している。

そこで、礼拝が、人間が参与しつつも主なる神の主権の元にあることを強調した名称で整えてはどうか。

(4)
新来会者などのために分かりやすくするという観点では、あまり細かく構造を分けるよりも、3部くらいに分けておくのが分かりやすい。

(5)
以上のことから、たとえば、次のような3部構成を試みてみてはどうだろうか。

    1.神の招き 2.神の御言葉 3.神の祝福

  (もちろん、「招き」の中には招きに対する応答としての「悔い改め」もある。もちろん、聖餐は「神の御言葉」に含まれる。もちろん、「祝福」の中には「派遣」の意味も込められている。)


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礼拝の構造(3) [礼拝]

5.実践例の分析と構造を明確にする意義

(1)礼拝の流れには「構造」がある。
 ・礼拝の要素が一つ一つ並べられているのではない。
 ・礼拝には、意味を持った大きな流れがある。

(2)教会によっていろいろな実践例がある。
 ・大きな流れにそう違いはない。
 ・いくつに分けるか、どういう名称にするかの違い。
 ・そこに、その教会の強調点や特徴が出る。
   たとえば、これまで礼拝における悔い改めが欠けていたことを憂慮して悔い改めの部分を明確にしたり、礼拝の最後は祝福だけではなく派遣でもある点を強調して「祝福と派遣」としたりなど。

※ただし、意味づけによっては、どの部に入るか明確に割り切れないこともあり得るのではないだろうか。たとえば、交読文は、神の招きに対して詩編の言葉でもって応答するのであれば神の招きの部に入るだろうし、説教箇所と関連させて交読箇所が選ばれていれば、御言葉の部に入るだろう。そして、両方の意味を持っている(意図して持たせているかどうかは別として、両方の意味を持っていると考えることができる)場合もあるだろう。意図して持たせている方の区分に入れれば良いと思うが、各区分が完全に区切られてしまうのではなく、あくまでも流れとして理解する必要がある。

(3)礼拝の構造を明確にする意義
a)流れをはっきり示して、信仰者の礼拝理解を深める。
b)新来会者などに、少しでも礼拝の流れを分かりやすく提示する。
c)以上のことを通して、礼拝そのものをより生き生きと献げ、主が現臨される礼拝として相応しく礼拝を整える。


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礼拝の構造(2) [礼拝]

4.礼拝の構造の具体例

(1)アメリカ

● アメリカ改革派教会(1988年版)
(『主の日の礼拝と礼拝指針』、キリスト新聞社、2003年。)

1.神のみ前に近づく(The Approach to God)
2.告知とサクラメントにおける神の言葉(The Word of God in Proclamation and Sacrament)
3.神への応答(The Response to God)

● アメリカ改革派教会(1968年版)
(『主の日の礼拝と礼拝指針』、キリスト新聞社、2003年、p.83。)

1.神への接近(The Approach to God)
2.神の御言葉(The Word of God)
3.御言葉への応答(The Response to the Word)

● アメリカ長老教会(1993年)
1.招集(Gathering)
2.御言葉(The Word)
3.聖餐(The Eucharist)
4.派遣(Sending)

● アメリカ合同メソジスト教会(1992年)
(United Methodist Church, "Book of Worship" の "The Basic Pattern of Worship"

1.Entrance
2.Proclamation and Response
3.Thanksgiving and Communion
4.Sending Forth


(2)日本での同様な取り組み

● 日本基督教団試用版(2006年)
  1.神の招き 2.神の言葉 3.感謝の応答 4.派遣

● カンバーランド長老キリスト教会
(『神の民の礼拝』、一麦出版社、2007年。)

  1.招集 2.御言葉 3.聖餐 4.派遣

(3)諸教会の実践例
(ネット検索と手元にある諸教会の週報による。時期はまちまち。)

● 楠本史郎『教会に生きる』p.38
  1.礼拝への備え 2.悔い改め 3.神の御言葉 4.感謝 5.祝福と派遣

● 水戸教会
  1.招き 2.神の御言葉 3.応答・献身

● 目白町教会
  1.神の招き 2.神の御言葉 3.信仰告白 4.主の晩餐 5.神への応答・交わり 6.祝福・派遣

● 経堂北教会
  1.神の招きと悔い改め 2.御言葉 3.感謝と献身 4.派遣と祝福

● 柿ノ木坂教会
  1.神の招き 2.神の言葉 3.御言葉への応答

● 仙台広瀬河畔教会
  1.神の招き 2.悔い改め 3.神の言葉 4.感謝 5.派遣

● 白銀教会
  1.神の招き 2.罪の悔い改め 3.神の言葉 4.感謝・献身 5.祝福と派遣

● 小松教会
  1.礼拝への招き 2.神の御言葉 3.感謝の応答 4.祝福と派遣

● 松永教会
  1.神の招き 2.神のことば 3.感謝の応答 4.派遣

● 金沢教会
  1.神の招きと悔い改め 2.御言 3.感謝と献身 4.祝福と派遣

● 高岡教会
  1.招き 2.悔い改め 3.み言葉 4.感謝

● 三田教会
  1.招き 2.み言葉の礼拝 3.信仰告白 4.応答 5.派遣

● 東大宮教会
  1.神の御前に近づく 2.神の言葉の宣教 3.神への応答

● 国分寺教会
  1.神の招き 2.神の言葉 3.神への応答

● 安行教会
  1.神のみ前に近づく 2.神の言葉の宣教――み言と聖礼典 3.神への応答

● 東村山教会
  1.主の招き 2.悔い改め 3.御言葉 4.感謝の応答 5.派遣

● 秋田桜教会のこどもと大人一緒の礼拝
 1.神さまは、今、私たちを招いておられます 2.神さまは、今、私たちに語られます 3.神さまは、今、私たちのささげものを受けてくださいます。 4.神さまは、今、私たちをつかわしてくださいます

● 日本キリスト教会栃木教会
  1.神の招き 2.悔い改め 3.神の言 4.感謝 5.派遣

● 日本キリスト教会袋井北教会
  1.礼拝への招き 2.御言葉に聞く 3.祝福と派遣


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礼拝の構造(1) [礼拝]

1.礼拝改革運動のうねり

(1)全体的に
ルーテル教会や聖公会を除く福音主義プロテスタント教会の中の、礼拝式文に関心がある長老教会や改革派で、19世紀末頃から、大きな礼拝改革の「うねり」が始まった。

これは、エキュメニカル運動と関わり合っているリタージカル・ムーブメントや、第二バチカン公会議による典礼刷新などとは別の「うねり」である。もちろん相互に影響はあるだろうが。


(2)スコットランド
具体的には、1645年のウェストミンスター礼拝指針から200年以上を経た19世紀半ばから、スコットランド教会内で礼拝改革運動が始まった。
(たとえば、後藤憲正、『改革派教会の礼拝――第一部・礼拝式の構造』大森講座Ⅱ、新教出版社、1987年、p.33。)

紆余曲折を経て、1940年の"The Book of Common Order"に結実。
  Church of Scotlandの礼拝式文改訂:
    1940、1979、1994。

(3)アメリカ
スコットランド教会の動きから影響を受けて、アメリカ長老教会やアメリカ改革派教会は1906年に礼拝式文を作成した。

  アメリカ長老教会の礼拝式文改訂:
    1906、1932、1946、1970,77、1993。

  アメリカ改革派教会の礼拝式文改訂:
    1906、1968、1987。

2.日本への影響

日本に伝えられたプロテスタント教会の礼拝は、アメリカやカナダの伝道熱心な福音主義自由教会からの、リタージカルな面が重視されていない伝道的で簡素な礼拝順序であった。

まさに、それを見直そうという19世紀末からの大きな礼拝改革のうねりの中に、日本の主流派と言われる教会も置かれている(はずであるが、波に乗り損ねて取り残されている)。

そのようなわけで、アメリカ長老教会やアメリカ改革派教会の礼拝式文が参考になる。

3.礼拝の構造の明確化
そういった近年の礼拝改革の特徴として、礼拝式順全体をいくつかの部分に区切って、礼拝の構造を明確にして、礼拝の流れや意味を分かりやすくするという試みが挙げられる。

これは、信仰者にとって礼拝の意味をあらためて確認させられる利点があるだけでなく、未信者に対して配慮された工夫でもある(この点はあまり指摘されていない感じであるが)。


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