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並木浩一著作集のヨブ記論2 [読書メモ]


前回、『並木浩一著作集1』の中のヨブ記論を取り上げたので、今回は、並木浩一、『並木浩一著作集2 批評としての旧約学』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。

この中のヨブ記論は2つ。

「ヨブ記からの問いかけ」

  • pp.168-176。
  • 初出は『福音と世界』2011年8月号(特集「ヨブ記と神議論」)。
  • 『アエラ』2011.4.11号で、東日本大震災の惨状の写真とそれに付された文章が神の虚妄性を訴えるものであったことに対して、神が幻想に過ぎないのなら、幻想に過ぎない神が人を殺すのは論理矛盾ではないかと厳しく批判することから、震災後の状況の中でヨブ記に耳を傾ける。

「ヨブ詩人の後継者、マルガレーテ・ズースマン」

  • pp.177-182。
  • 初出は内村鑑三研究所『所報』第17号、2012年。

並木浩一『並木浩一著作集3 旧約聖書の水脈』(日本基督教団出版局、2014年)には、特別にヨブ記をテーマにした論文はない。目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。


並木浩一著作集のヨブ記論 [読書メモ]


並木浩一、『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』の目次

  • まえがき
  • 第一部 ヨブ記の全体像を求めて
  • 1 ヨブ記 緒論
  • 2 神の弁論は何を意味するか
  • 3 対話のドラマトゥルギー ヨブと神
  • 第二部 ヨブ記の主張と表現の特色
  • 1 ヨブ記のレトリック
  • 2 ヨブ記とヤハウィスト
  • 3 神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性
  • 第三部 ヨブ記と取り組んだ人々
  • 1 ヨブ記と内村鑑三
  • 付論 ヨブ記における契約──創造と契約
  • 2 ヨブ記と賀川豊彦

メ モ

ざっと目を通しただけだけど。

「まえがき」

「ヨブはなぜ、これほどまでに友人たちが説く従順の勧めを拒み続け、神に対する執拗な抗議を続けたのであろうか。それは神に対する信頼を失わなかったからではなかろうか。神への深い信頼なしに神の厳しい叱責を心からの感謝をもって聞くことができたであろうか。・・・神はヨブが「確かなこと」を語ったことを宣言した。それはヨブが神への信頼に基づいて、神の正義を問い続けたからにほかならない・・・。」

(p.9-10)

「「終曲」をヨブ記にとっては余計なものだと見なす判断は、今日なお根強いものがある。一般に納得されるようなかたちでこの問題に解答することはできないだろう。「終曲」をヨブ記に不可欠だと見なす根拠は、神学的な感覚に基づく判断である。それは残念ながら万人に共有されることはない。」

(p.11)

1.ヨブ記 緒論

  • 『旧約聖書ⅩⅡ ヨブ記 箴言』、岩波書店、2004年の巻末の「解説」。
  • 参考文献(日本における近年の文献からの抜粋)には、2011年のフランシスコ会訳聖書や佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館)まで記されている。

2.神の弁論は何を意味するか

  • 日本旧約学会『旧約学研究』No.1(2004年)所収の「神の弁論(ヨブ記38-41章)は何を意味するか」に、導入部分を加筆して収録(p.326の「初出一覧」では『旧約学論集』になっちゃってる)。
  • 「読みの多様性を紹介するものであり、「概説」(本書の第一論文「ヨブ記 緒論」のこと)を補完する意味を持つ」とのこと。(p.14)
  • C.G.ユング『ヨブへの答え』について、佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館、2011)の中で適切な紹介と批判がなされているとのこと。(p.86)
「ヨブ記は「応報思想」を批判したが、「応報原理」は正義の基本であるゆえに、これを否定してはいない。ただ、人は個人的、社会的な視野を越えて、創造世界における秩序と世界の隅々にまで行き届く神の配慮を視野に収める必要がある。個人的、共同体的な正義だけが正しさのすべてではない。ヨブ記は読者に、この世界における共同体的な正義の特殊な意味づけを知るようにと訴えている。
 創造世界はさまざまな悪を含みつつ生の秩序を維持する。・・・人間も神の保護なしには生を維持できないが、・・・最初の夫婦がエデンの園を出て以来、人類は自己の生を配慮しなければならないという運命を背負った。人は・・・社会を形成し、自律的に秩序を形成しなければ生存できない。・・・モラルは社会生活を維持するための人間の条件であり、・・・社会生活の悲惨と不正義を防ぐのは人間の責任である。この責任を担って生きることが神と人間との関わりの基盤である。」

(p.85-86)

3.対話のドラマトゥルギー ヨブと神

  • 旧約聖書翻訳委員会編、『聖書を読む 旧約篇』、岩波書店、2005年に所収。
  • 「付記」あり。「ヨブ記」を理解する基礎としての「相互テクスト性」については『「ヨブ記」論集成』の中の「ヨブ記における相互テクスト性・・・」と「神義論とヨブ記」を参照せよとのこと。
  • 42:2の動詞を子音字本文に従って「あなたは知っている」と訳す試みは、ジャンセン(飯謙訳)『現代聖書注解 ヨブ記』(日本基督教団出版局、1989)(原著1985年)によってすでになされていたことを記している。

4.ヨブ記のレトリック

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。アンティフラシスについての部分は、『旧約学研究』No.9(2012年)、『旧約聖書と説教』(日本基督教団出版局、2013年)収録のものから専門的な叙述を省き、説明文には細かく手を入れたとのこと。

5.ヨブ記とヤハウィスト

  • 『国際基督教大学学報Ⅳ-B 人文科学研究 キリスト教と文化』No.42、2011年に所収。
  • 山我哲雄『海の奇蹟 モーセ五書論集』(聖公会出版、2012年)について、第1章「モーセ五書の成立」は「従来の資料説を要領よく紹介し、第11章でモーセ五書の最終形態を論じている。・・・五書に関心を持つ者には必読の書である。」(p.205)。
「ヤハウィストは・・・人類全体を視野に入れて、人類と民族を導く神の恵みを叙述した。」一方、ヨブ記は「一人の例外的に正しい人間に下る未曾有の苦難を取り上げ・・・、神の正義と被造世界の統治の問題を論ずる。両者はその視角と内容においてまったく違う。それにもかかわらず、・・・両者における思考方法と人間らしい生の条件の設定には、著しい構造的な類似性が認められる。」

(P.203)

6.神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性

  • 『回顧即感謝 清水護先生百歳記念論文集』、2008年に所収。
  • 「付記」あり。清水護の簡単な紹介。

7.ヨブ記と内村鑑三

  • 内村鑑三研究所『所報』No.17、2012年に所収。

付論 ヨブ記における契約――創造と救済

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。

8.ヨブ記と賀川豊彦


左近淑『詩編を読む』 [読書メモ]


左近淑『詩編を読む』(旧約聖書3)(筑摩書房、1990年)の紹介とメモ。

詩編の類型について知る入門としてとてもよい。もっとはやくこれを読んでいればよかった。

目 次

※まえがきもあとがきもない。

  • 序 説 詩編をどう読み解くか
  • 第一章 嘆きの詩編
  • 第二章 感謝 報告的ほめ歌
  • 第三章 賛美 描写的ほめ歌
  • 第四章 典礼歌 王の歌とシオンの歌
  • 第五章 知恵の詩編とトーラー詩編

「序説」

「序説 詩編をどう読み解くか」は、マソラと七十人訳の番号の異同、五巻の分類、表題、小歌集の存在と編集、詩的技巧などを取り上げた、詩編全体についての概説。

詩編の分類について

  • 「深い淵の底」という極と主なる神というもう一方の極との間に置かれて、そこから生まれる祈りを綴ったのが詩編だ。
  • 人間の宗教的生の基本的な在り方に即応して、「懇願」から「ほめたたえ」への動的な動きがある。
  • 人間の懇願に発する詩は「嘆きの歌」と呼ばれ、その懇願が聞き届けられたなら、「ほめたたえ」という宗教的生の基本的な在り方の他方の極へと移行する。
  • 「ほめたたえ」には、「主は・・・してくださった」という感謝の報告と、「主は・・・(のような)かたである」という賛美を綴った描写とがある。

第1章「嘆きの詩編」

(1)分 類

  • 嘆きの詩編は、個人の嘆きと集団の嘆きとに分けられるが、その区別は明確ではなく、ほとんど多くの場合に相互流動的である。
  • 集団の嘆き 12、(14≒53)、25、44,(52)、58、60,74,79,80,83,85,89,90,94,123,126,129,137。
  • 個人の嘆き 3、4,5,6,7,9-10,(12)、13、(14)、17、22,25,26,27:7-14、28、31,35,36,38,39,41,42-43,51、(52)、(53)、54、55,56,57,59,61,63,64,69,70,71,77,86,88,102,109、120,130,139,140,141,142,143。
  • これらのうち、病の中での嘆き:6、13,28,35,38,39,41,88。(p.55)
  • 伝統的に悔い改めの詩編と言われているもの:6、32、38、51、102、130、143。これらのうち罪と赦しに集中しているのは51と130。(p.55、86)

(2)基本構造

  • 1(イ)神への呼びかけと導入の訴え
  • 1(ロ)過去の救いの御業の回顧
  • 2.嘆き
  • 3.信頼の告白
  • 4.訴え
  • 5.神の同情・行動を促す動機づけ
  • 6.祈りが聞かれたとの確信とほめたたえ(の誓い)

(3)敵を呪う意味

なぜ詩編では、激しい言葉で敵を呪い、自己の潔白を主張するのか。

それは、旧約の人々が、正義が踏みにじられ、正しい者が不利益を被り、社会的弱者が抑圧を受けているといった、現実の世界の矛盾の中に生きているからであり、義が確立されて正しい支配が成り立つことを激しく渇望しているからである。詩編ではしばしば敵への報復が訴えられるが、ヘブライ語の報復とは、崩れているバランスが正されて、正しい統治が回復することである。

(現実の支配者が神の意志に反しているとき、預言者は、この世が真の支配者によって統治されていることを宣言する。)

神は、御自身が義なる方であることを明らかにされる。神によって世に正義が貫徹される。そのためになされた神の御業が、キリストによる人間の救いである。キリストにおいて義が達成されている。

(4)信頼の詩編

  • 信頼の詩編(嘆きに由来する) (4)、11、16,23,27:1-6、62、63,91,121,125,131。
  • 信頼とは、「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」(詩編91:6)の中でも勇敢に堂々となされる生き方。

第2章「感謝 報告的ほめ歌」

(1)分 類

  • 感謝の歌は個人の感謝の歌と集団の感謝の歌に分類される。
  • 個人の感謝の歌 18, (21), 22:22ロ~32, 30, 32, 34, 40:1~12, 66:13~20, 103, 116, 118, 138. (このうち、戦いと勝利:18, 20, 118。病気:30, 116 人生の悩み:34, 40:1~12, 138, 22:22ロ~32, 32 救済史に関わるもの:66:13~20)
  • 集団の感謝の歌 65, 67, 68, 75, 107, 124, 129, 136. (このうち、勝利の歌:68, 124, 129)
  • 個人の感謝の歌も、人々が集まっている礼拝の中などを想定していることが多いので、個人の感謝の歌と集団の感謝の歌とを厳密に分類することは難しい。

(2)特 徴

  • 神がわたし(たち)を救ってくださったという報告的一文が、感謝を込めて告白される。
  • 歎きの歌と構造上、対応・対照関係がある。
  • 神の救いの御業に対して、「ほめたたえの誓い」がなされる。「満願の献げ物を主にささげよう」(詩編116)、「主の御業を語り伝えよう」(詩118)、「とこしえにあなたに感謝をささげます」(30:13)
  • 歎きの歌における現在の苦しみの歎きとそこからの神への救いの訴えと対照的に、感謝の歌においては、過去の苦しみの回顧とそれからの解放の報告がある。
  • 特に個人の感謝の歌の大きな特色として、死の力からの解放を報告する詩編がある。死の支配に対して神が立ち上がり、迫り、屈服させ、撃ち、助け出される。

第3章「賛美 描写的ほめ歌」

(1)特 徴

  • 「ほめたたえ」で始まる。
  • (あなたがたは)~せよ(喜び踊れ、喜びの声を上げよなど)という二人称複数命令形の場合と、「わたしは~します」(感謝をささげます、御名をほめ歌うなど)という一人称単数未完了形の場合(104、146など)とがある。二人称複数命令形の場合が圧倒的に多い。
  • 「ほめたたえ」で始まる導入部の後、賛美の理由を叙述する部分があり、神のほめたたえへの新たな勧めで結ばれる(145編など)。
  • 賛美の理由としては、創造主の御業やその偉大さをたたえるもの(いと高き神をたたえる)と、歴史の主あるいは救済の神のイスラエルに対する慈しみやまことをたたえるもの(低きに降りたもう神をたたえる)とがある。
  • 旧約聖書では、いと高き神が歴史の中に降ってくださったというダイナミックな神の業に対して、民の側もさまざまな楽器を用いたり、踊りや手を打ち鳴らすなどによって集団で喜びを表現して賛美がなされる。

(2)分 類

  • 導入と結びで同じ語句が繰り返されて囲い込み構造になっているもの:8、104、113、135、146~150。
  • 96、98、100などは特別な構造になっている。
  • 祝福や祈願で終わるもの:29、33、(95)、105、(111)、134。

(3)自然と救済の御業をたたえる

  • 「賛歌の究極の主題は、高きにいます偉大な神と、低きにくだる慈しみの神の結合にある。」(p.164)
  • 自然における神の御業をたたえる詩:8、19:2-7、29、104。
  • 自然における創造の御業と歴史における救済の御業を結合した詩:33、66:1-12、89:6-19、95、96、100、135、145、146、147、148など。
  • 歴史における救済の御業をたたえる詩:105、111、114、117、135、149など。114編において、自然は、救いの出来事の前に屈服している。
  • 「歴史の詩編」:78、105、106、114、135、136など。
  • ヤハウェの即位式の詩編(終末論的詩編) 47、93、(95)、96、97、98、99。「主こそ王」「偉大なる主」「王なる主」などの言葉で、世界と諸国民、さらに自然まで含めて、被造世界全体を統治されている王なる主をたたえている。(これらのうち、47、97、99はイスラエルの民と聖なる山シオンの関係に言及している。)

第4章「典礼歌 王の歌とシオンの歌」

  • 典礼歌は、人称の交替や託宣の引用、問答形式などによって、明らかに礼拝における劇的展開や役割の変化が想定できる詩編。
  • 15(聖所入場)、24(聖所入場)、50(契約更新)、78(ダビデ契約)、81(契約更新)、89(ダビデ契約)、132(神の箱搬入を伴う儀礼)。
  • 「王の詩編」:2(王の即位式)、18,20,21,45(王の婚礼),72,101,110(王の即位式),144。
  • 「シオンの歌」: 46、48,76,84,87,122。
  • 「巡礼歌」(「都に上る歌」という表題が付いている):120~134。

第5章「知恵の詩編とトーラー詩編」

  • 知恵の詩編 1、37,49,73,112,127,128,133。 (ただし、本文中で知恵の詩編として例示されているのは、37、39,49,73,127。)
  • トーラー詩編 1、19:8-15,119。

Notes

構造の詳しい解説

  • 23編の構造の解説が、p.96~103にある。
  • 42~43編の構造の解説が、p.116~122にある。
  • 33編の構造の解説が、p.146~148にある。
  • 29編の構造の解説が、p.152~157にある。(29:1-2と96:7-9aの類似と比較、「七つの雷の賛歌」、「洪水」(マッブール)の語は創世6-9章とこの詩のみ。)
  • 100編の構造の解説が、p.158~159にある。
  • 135編の構造の解説が、p.162~163にある。
  • 113編の構造の解説が、p.164~168にある。
  • 96編の構造の解説が、p.170~175にある。(「新しい歌」とは最後の歌であり、人生と歴史の最後に、最も新しい完成があるという希望の歌である。)
  • 24編の構造の解説が、p.179~182にある。
  • 132編の構造の解説が、p.184~188にある。

その他

  • p.86の「詩編五十一は夏目漱石の『こころ』に引用されて有名になりました」とあるのは、『三四郎』の間違い。なお、漱石はこれを聖公会祈祷書から採ったとみられる(『文語訳新約聖書 詩篇付』岩波文庫の鈴木範久による解説)。
  • 「裁く」という言葉は「治める」という意味を持ち、主による統治がなされている裁きは、本質的に喜びである(詩編97:8)。(p.174)

詩編に関する他の記事:


左近淑の詩編研究 [読書メモ]


左近淑『詩篇研究』.JPG

左近淑、『詩篇研究』、新教出版社、1971年。

後に、新教セミナーブック9。

20の詩編を文学形態に分類して取り挙げて、それぞれに、私訳と本文批評、段落構成や詩的技巧・統一性・類型など、注釈、そして、むすび。

雑誌(『福音と世界』)の連載が元になっているので、字数の都合上、比較的短い詩編が取り上げられている。

「はしがき」から

「釈義とは、聖書を説き明かすことにより、心が内に燃えることである。」(小塩力)

(「はしがき」p.2で紹介されている。句点・読点を付加、送り仮名修正。)

「神がわからなくなったら、詩篇を声を上げて繰り返し読め。」

(「はしがき」p.2、句読点とかな表記を修正。)

「本文批評の背後にある基本的な立場とか古代訳の評価の規準などについては、・・・『新聖書大辞典』の中の拙文「聖書の本文(旧約)」、「聖書の古代訳」を参照されたい。」

(「はしがき」p.6)

「序 注解書について」から

「序 注解書について」では、本書で引用される詩篇注解者(書)の、詩篇研究史の中での位置を明確にする。

● 注解書の読み方

「注解書というものはただ手当たり次第に沢山読めばよいのでもなく、またその反対に評判のよいものを一、二冊それが唯一の正しい解釈であるかのように思い込んで読むのも正しくない。注解書は聖書に代わりうるものでなく、われわれが聖書から上なる言葉を聞きとる助けのひとつであり、確かにわれわれの恣意的な読み方を正し、深め、高めてくれるものもあるけれども、それ自体方法論的限界をもち、ひとつの相対的な解釈を示すにすぎないからである。」

(p.17)

● 詩編の研究史

近代旧約学の方法論的展開に即して、やや細かく五期に分類して概観。

第一期 文法的・歴史的方法論(デリッチ、キルパトリック)

第二期 進歩発展論的方法論(ドゥーム、ブリッグス)

第三期 形態史的方法論(グンケルとその流派)

第四期 祭儀史的方法論(モヴィンケルとその流派、A.H.シュミット、B.ワイザー、C.クラウス)

第五期 構造論的方法論(仮称) ヴェスターマン

本編について

「賛美のうた」、「哀歌」、「典礼歌」の三つに分類

  • 「賛美のうた」「賛美」として29、114、8、65。「個人の感謝のうた」として32。
  • 「哀歌」「個人の哀歌」として6、38、42-43、51。「民族の哀歌」として60、90、20、21、46。
  • 「典礼歌」15、24、132、2、50。

取り上げられている詩編(番号順リスト)

2、6、8、15、20、21、24、29、32、38、42-43、46、50、51、60、65、90、114、132。

詩編に関する他の記事:


ルターのりんごの木2 [読書メモ]


「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

前回の記事で、この言葉の起源や広がり、作者について調査した、M.シュレーマン(棟居洋訳)『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』(教文館、2015年)を紹介し、読みにくい本であったが、ポイントをまとめた。

さらに、日本での引用に関する、いくつかの点について。

ゲオルギウは?

この言葉の出典に関する日本での話題でよく出てくる、ゲオルギウ(谷長茂訳)『第二のチャンス』、筑摩書房、1953年(原著1952年)は、シュレーマンのこの本の本文中には出てこない。ちょっとがっかり。。。

「訳者あとがき」で、徳善義和先生がこの本の最後の箇所で、ルターの言葉として引用されているのを見たのが最初であったということが触れられている。そこで、ちょっと考えてみた。

ゲオルギウは、ルーマニア生まれだが、フランスに亡命した。この著作はフランス語で書かれた。C. V. Gheorghiu, "La seconde chance", 1952. ゲオルギウは、この本の中で「りんごの木」の言葉をドイツ語で記しているので、ドイツでこの言葉が広く知れ渡り始めた1950年5月以降かあるいはそれ以前に、この言葉を知ったのであろう。

『第二のチャンス』のドイツ語訳が出たのは、邦訳より遅く、1957年(ドイツ語タイトルは "Die zweite Chance")。したがって、ドイツ語訳の出版が遅かったため、ゲオルギウ『第二のチャンス』は、ドイツ語圏では「りんごの木」の言葉の広がりには貢献しなかったということだろう。

最近の引用

(1) 徳善義和

『マルチン・ルター 生涯と信仰』(教文館、2007年)。

「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
世界の終わり、それは神のみ手の中のことだ。この世界の完成としての、世界の終わりが神のみ手から来る。そのことをルターははっきり信じていました。それが神のみ手から来るものであるならば、あれやこれやと私たちが詮索してみたり、考えて悩んでみたりしてもしょうがない。それは神にお任せしよう。そして、私としては今日一日私に託されている仕事を精一杯行っていこうという、そういう気持ちはもうルターの生涯の中に絶えずあったわけで、それに似た言葉をルターはよく言っていますので、たといこの言葉がルターのものでなくても、考え方、信仰的な基本はルターのものだと言っていいと思うわけです。」

p.152-153。

徳善義和は、「滅びる」ではなく「終わりの日」と言っているところがポイント。「終わりの日」は、聖書に基づくキリスト教終末論の用語である(イザヤ2:2、エレミヤ23:20、30:24、48:47、49:39、ヨハネ6:39-54など)。この表現ならば、シュレーマンが指摘しているような世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰の終末観に立った表現になっている。

(2) 江口再起

日本聖書協会編『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(日本聖書協会、2018年)に収録されている、江口再起「贈与の神学者ルター」の最後で、

ルターが語ったと語り継がれている、あの有名な言葉を引用して私の講演を終わりにしたいと思います。
「たとえ明日世の終わりが来ようとも、それでも今日わたしはリンゴの木を植える。」

p.59-60。

ここでも、「滅びる」ではなく「世の終わり」と言っている点がポイント。世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰における終末の表現である。しかし、それならば、徳善義和のように「終わりの日」と言った方がより明確だろう。

ではどうするか?

おそらく、人々の口に上るごとに、少しずつ形成されていった言葉でありつつ、最終形に至ることなく、様々なバージョンが生まれ続けている言葉である。

では、引用する際、どのバージョンがよいだろうか。あるいは、どういう風に言うのがふさわしいだろうか。

  • 「明日」と「今日」の対比は活かしたい。
  • できるだけシンプルに言いたい。
  • 「世界が滅びる」というのは我々の終末観に合わない。むしろ、神の計画が成就し、世界が完成されるというキリスト教的な意味で「終わりの日が来る」あるいは「終末が来る」と言うのがよい。
  • しかし、いつ終末が来るかは、人間にはまったく分からないことである。そういう意味で、明日かもしれないが、その時を人間が前もって知ることは決してない。あらかじめ知ったとしたらという仮定は、まったくナンセンスである。
  • 後半に、「それでも」とか「それでもなお」という言葉が入るのは、明日終末が来ることをあらかじめ知ったとしたらということが前提になるので、これらの言葉を入れるのはおかしい。
  • キリスト教的終末観を表す言葉とするならば、世界の滅びとか人生の終わりに抵抗して希望を抱き続けるという言葉ではなく、いつ到来するか分からないが必ず到来する終末に向けて、たゆまず黙々となすべき務めに励むという意味に解すべきであり、できるだけそのように解せる表現にすべきである。

そうすると、前半は「たとえ明日終末が来ようとも」あるいは「たとえ明日終末が来るとしても」となる。「来るとしても」の方がいいか。

後半は、「わたしは今日りんごの木を植える。」でよいだろう。

そして、重要なことは、「これはルターの言葉であるという説は否定されているが」というような但し書きを必ず付け加えること。

結 論:

これはルターが言ったという説は否定されているが、
「たとえ明日終末が来るとしても、わたしは今日りんごの木を植える。」

柴田昭彦「真実を求めて」

この「りんごの木」の言葉の、日本での様々な引用について詳細に追究した、柴田昭彦のホームページ「真実を求めて」は力作であり、よく知られている。

  • 寺山修司はこの言葉を確信犯的に革命の言葉にしたとか、
  • 石原慎太郎が誰の言葉として紹介しているかの変遷や、
  • 梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院)で版を重ねても誤りが修正されていないどころかかえって改悪になっているとか、
  • 開高健の色紙の文言の異動を整理して、紹介している人が勝手に「リンゴ」を「林檎」としてしまっているなどの問題を指摘、
  • 書籍やテレビドラマなどでの引用を一覧にし、
  • リルケの詩集やトラークル全集を調べ上げてこの言葉がないことを確認、
  • ゲオルギウ『第二のチャンス』のフランス語原著まで入手して調査

しているのにはまったく脱帽する。


ルターのりんごの木 [読書メモ]


シュレーマン『ルターのりんごの木』.JPG

M.シュレーマン(棟居洋訳)、『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』、教文館、2015年(原著1994年)、321+9頁、2700円+税。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

この言葉がルターのものであることは否定されるものの、どこに起源があるのかという問題と、この言葉が戦後のドイツでどのように理解されて広まったかを、史料やアンケート調査をもとに丹念にたどった研究結果。

408箇所に付けられた注が、巻末の76頁を占めているが、参照されているのは、ほとんどドイツ語の文献。

文章は読みにくい。「著者の文章には、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあって苦労も多かった・・・」(「訳者あとがき」p.320)。

おおざっぱなまとめ。

A 言葉の起源と広がり

1.1940年代に出現

最も古い典拠は、領邦教会全国評議員会議長カール・ロッツの1944年10月5日付の内輪の回状(タイプライター打ち)。

「たとえ明日世界が滅びようとも、われわれは今日りんごの苗木を植えようではないか。」

※他との大きな違い:「われわれは」、「~ようではないか」。

この文書が現れる前に、教会の何かのグループの中で少なくとも口伝えで広がったと想定できる。

2.最初の印刷物は1946年

「女子聖書サークル」(MBK)がカール・ハイザー社から発行したカード。

「たとえわたしが明日世界が破滅することを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「滅びる」ではなく「破滅する」。

3.「ひとりの著名な人」の言葉として

レナーテ・(フォン・デア・)ハーゲン、『火の柱』、ギュータースロー社、1947年。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、わたしは今日それでもなおわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「それでもなお」。

4.まったく別の分野で

フリッツ・カスパリ、『実り豊かな庭』、1948年。

この本はガーデニングの本らしい。しかも、この言葉の作者をフリードリヒ・ラウクハルトとしている。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、それでもわたしは今日なお木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「りんごの苗木」ではなく「木」。

5.1950年5月のラジオ放送

1950年5月20-21日、ヘルマンスブルクで行われた「ジャーナリスト会議」でニーダーザクセン領邦教会監督ハンス・リリエが語った。この会議の報告が、5月25日の22時~22時10分、北西ドイツ放送のラジオ番組で、ジャーナリストのティロ・コッホによってなされた。

「ある日マルティン・ルターが、もし明日世界が滅びることを確かなこととして知ったとしたら、あなたは何をしますか、と問われた時、わたしはそれでもなおりんごの木を植えるでしょう、と答えました。」

6.1950年5月末

マールブルクにおける少年警備団・福音主義教会(中等教育)生徒聖書研究サークル(BK)の全国会議で、(後の報告書によると、)ハンス・リリエと福音主義教会総会議長のグスタフ・ハイネマンが共にルターの言葉をもって発言の結びとした。

「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしはなお今日わたしのりんごの苗木を植えようと思う。」

二人が全く同じ文言で語ったかは不明。

7.1958年、ブリュッセル万博

「農業」部門のパビリオンの中に設けられたエントランス・ホールに、この言葉が様々な言語で掲げられ、マルティン・ルターの名が添えられた。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

結 論

この言葉を確認できる最も古い史料の年は、1944年である。

1950年5月のラジオ放送とマールブルクの全国会議を通して、この言葉は、ドイツのプロテスタント及びその他の各方面に知れ渡り、また、一般社会にも広がった。その極めつけが1958年のブリュッセル万博だった。

B 誰の作か?

この言葉がルターのもとでは見つからない、ルターに由来を求めることは無駄であることは、1954年、1959年に確認された。

では、誰の作か?

1.シュヴァーベンの敬虔主義

シュヴァーベンの敬虔主義者が最初に言ったという説があるが、確認できない。

2.キケロ

キケロの「それでも彼は、将来初めて役に立つ木を植える」という言葉が我々が問題としている言葉と結びついていることを裏づけることはできない。

3.ヨハナン・ベン・ザッカイ

紀元一世紀のヨハナンの言葉が20世紀まで伝えられてきたという手がかりはまったくない。

4.フリードリヒ・クリスティアン・ラウクハルト

彼に由来するという説は極めて疑わしい。

ただし、聞き間違いがあった可能性はある。「ルター」と「ラウクハルト」は発音上、まったく違っているとは言えない。

また、フリッツ・カスパリの『実り豊かな庭』(1948年)という、宗教とまったく関係のないガーデニングの本で、ラウクハルトの作として言及されていることは、どう判断すればいいのか。

結 論

誰の作かは分からない。これまで出て来た様々な説は現在のところすべて否定される。

C ルターと関係があるのか?

ルターの詩編46:3の聖書翻訳に「すぐに世界が滅びようとも」とあり、また、「たとえ・・・であっても」という言い回しは、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」の第3節に見られる。

しかし、「りんごの苗木」という表現はルターに見当たらず、ルター以外にも見受けられないなじみのない表現であり、決定的に独創性がある。

この言葉は世界の滅亡ということをまったく世俗的に理解しており、ルターの終末論や倫理を表現したものとは言えない。明らかに、20世紀半ば以前の時代の信仰、あるいは人生観の関心事を表現している。

結 論

今後、この言葉を「これはルターが言ったらしい」などと曖昧にすることは、もはや許されない。


鈴木崇巨『礼拝の祈り 手引きと例文』 [読書メモ]


鈴木崇巨『礼拝の祈り』.JPG鈴木崇巨(すずき・たかひろ)、『礼拝の祈り 手引きと例文』、教文館、2014年、164頁、1400円+税。

特 徴

  • 祈祷や祝祷の「祷」の字はすべて、異体字であるunicode:U+79B1(示偏に壽)が用いられている。
  • 著者は、礼拝の中で司式者が聖霊の導きのままに即席の祈りをすべきであるという伝統の中で育ってきた。(p.3)
  • しかし、礼拝をより豊かにするために、祈祷文の準備をしておくことも決して悪いことではないと思っている。(p.3)
  • 牧会祈祷の例文も招詞の聖句箇所も、教会暦にしたがって掲載されているが、この本での教会暦は、
    • 待降節
    • 降誕節
    • 顕現節
    • 受難節
    • 復活節
    • 聖霊降臨節
    • 王国節(8月最終主日から待降節前)
    という区分である。(p.24)
  • 「日本的な祈りからの決別」を訴えている。(p.10,13-14など)
  • イエス、キリスト、聖霊に「さま」を付ける場合と付けない場合とがある。慣れ親しんでいない表現には違和感を覚えるかもしれないが、「日本の教会の現状を考慮して、両方の表現を採用しました」とのこと(p.23)。

内 容

1.「礼拝の祈りについて」

礼拝での祈りについて、8~24ページで解説。

  • 「聖霊に向かって祈ることはあり得ますが、聖霊は祈りの対象というよりも、むしろ私たちが受けて満たされるべきお方、また私たちを祈らしめる神の力ととらえるべきだ」。(p.9)
  • 「日本語の特性から言って、「神がたたえられよ」というような表現はまれですから、日本人クリスチャンの祈りは賛美が少なくなり、感謝が多くなります」。(p.13)
  • 願いが祈りの中心になっていることについて、「日本人特有の神社的な「祈願」」が祈りになっているからだ。「キリスト教の祈りは、神中心の信仰ですから、「賛美」が中心を占めるべきです。」(p.13)
  • 近年は、讃美歌(当然祈りの一種)の終わりに「アーメン」をつけていない歌があったり・・・しています。これは現代の「不確かな時代」「世俗化の時代」の反映ではないかと思われます」。(p.16)

2.「牧会祈祷の例文」

  • 教会暦にしたがった53例
  • ひとつひとつが1見開きに収めてられている。
  • ここでの牧会祈祷とは、「プロテスタント教会の礼拝の中で牧師や長老、執事、役員、信徒などが、会衆を代表して祈る祈祷」のこと。
  • おおむね、賛美(感謝)、懺悔、信仰の表明、祈願の順に構成されている。(p.13)

3.「献金祈祷の例文」

  • 15例
  • 「献金祈祷は、その目的である献身の表明の祈りに絞った方が礼拝そのものを引き締まったものにしてくれる」。(p.134)

4.「招詞の聖句」

  • 教会暦の区分ごとに掲載。それぞれで聖書の順になっている
  • 聖書箇所だけでなくて、聖句の最初の部分とか途中の部分が記されていて、「ああ、この聖句ね」と分かるような配慮がなされている。

招詞と祝祷の理解について

  • ※祝祷を「祈りではない」という理解(p.16~19)はわたしと同じだが、では何であるかというと、「牧師から会衆に発せられる挨拶の言葉」とする点は、わたしと礼拝観を異にする。わたしは、会衆への神の祝福を牧師が取り次いで、会衆を世に送り出すのが祝祷だと理解している。
  • ※招詞についても同様で、著者は「司式者からの挨拶」と記し(p.19)、神が招いているのではなく、司式者が招いているとするが、これはわたしの理解と異なる。わたしは、神が礼拝に招いている言葉が招詞だと考えている。
  • 招詞は聖書朗読ではないので短い聖句がよいという指摘(p.20)は、同感である。なお、著者は触れていないが、説教と関連させて招詞の聖句が選択されることがよくあり、そのような方法は、その日の御言葉への招きのつもりだろうが、礼拝への招きにはなっていない。

関連のわたしのブログ記事

わたしが招詞のリストを洗い出したブログ記事「招詞のリスト4(総集編)」

そのうち、「神が、わたしたちを、礼拝に、呼び集め招く」意味合いがよりはっきりしていると感じられる30箇所ピックアップしたブログ記事「11の使える招詞」


石井錦一『教会生活を始める』2 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。
前回のブログの続き。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。



奉仕について

1.不満や愚痴のあるところ、奉仕なし
奉仕というものは、自発性が基本であり、神のためにせずにはおられないという気持ちから出発する。その思いなしに奉仕をするときに、必ず不満や愚痴が出てくる。不満や愚痴のあるところに、まことの奉仕はない。(p.55)

2.まことに救われた者こそ
まことの救いを体験した者は、どうしても、主の十字架の道を共に歩まずにはおれなくなる。まことの奉仕の生き方は、何よりもまず、わたし自身のまことの救いから始まる。(p.145)

3.忙しい人こそ
様々な奉仕や伝道活動に参加をして、忠実な教会生活をしている人は、家でも仕事でもヒマのある人がしているかというと、逆である。職場や家庭で責任をもって活動している人が、教会の中でも重要な働きの担い手となる。忙しい生活であればあるほど、教会生活から充実した信仰が与えられる。(p.199)



信仰の継承

1.子どもも一緒に礼拝
日本の教会は説教中心の礼拝になっているため、説教を理解できる大人だけが礼拝に出て、説教が分からない子どもは説教を邪魔する存在と見なされてしまっている。しかし、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、御言葉語られている、その中に、分かっても分からなくても置かれるということ、子どもと共に礼拝の場にいるということが大事である。このことは、教会教育の大事さとは別のことである。(p.66-67)

2.信仰の継承と子育て
子どもにも信仰の自由があるという美名のもとに、結局何もしないことは、無責任である。(p.185)

子どもを育てるということは、親が親として、共に育っていくことだ。(p.195)

3.教育とは忍耐である
教育とは忍耐である。この忍耐には二つのことがある。一つは他人に対する忍耐、もう一つは、自分自身に対する忍耐である。この、自分自身に対する忍耐が、一番難しい。一人の人間が成長していく道筋は、長い時間を待つ心と忍耐、そして、自分自身に失望しない忍耐が大事である。神は、数千年の間、絶えず忍耐をして、旧約の民を教え、導き、ついに、イエス・キリストを遣わして、人間の救いを成就された。この忍耐と希望の神を、わたしたちは信じている。(p.209)

4.家族の救いを求める信仰
自分だけ信じていればという考え方は、間違っている。日本の教会がいつまでも、家庭から孤立して逃げ出してきた信仰者の集団であるかぎり、一代限りのキリスト者で終わり、教会の成長発展は望めない。(p.170)

5.家族の救いのために
たとえ見える現実は不可能であろうとも、神、もし許し給わば、必ず家族のすべての者が救われると確信しなければならない。信仰を趣味のように考えて、自分の都合で出たり出なかったりの教会生活をしていて、どうして家族を信仰に導けるか。(p.170-171)



その他

●まことの聖霊信仰
わたしたちがキリストを信じ、キリストに従い、教会の中に生きることは、聖霊の導きなしには起こりえない。そして聖霊は、御言葉の説教と聖礼典を通してわたしたちに力強く働いていてくださる。この聖霊を信じて生きることが、まことの聖霊信仰である。(p.31)

●霊の結ぶ実
霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22-23)は、わたしたちがキリスト者として成長、成熟することであり、キリストにしっかりとつながっているなら、キリストの命がわたしたちの中に流れて、わたしたちは霊的に成長して実を結ぶようになる(ヨハネ15:4)。キリスト者が結ぶ実は、わたしたちの隣人に福音を伝え、伝道することである。(p.232-233)

●信仰生活と教会の法
わたしたちは洗礼を受けたとき、「日本基督教団の教憲・教規に従い、・・・」という誓約をしてキリスト者となった。教会の法のもとに教会生活をすることを決意したのである。しかし実際には、教会の雰囲気とか、あの信徒・この牧師が気に入らないからしばらく礼拝を休むなどと、非常に感覚的、情緒的な教会生活を送っていないだろうか。
(p.115)

●出発点としての洗礼
洗礼を受けるとは、神に信頼すること、すべてをまかせることである。「神さま、あなたを信頼して洗礼を受けます。これから幾度つまずき倒れるかもしれませんが、何度でもあなたから洗礼を受けた出発点を忘れずに生きていきます。よろしくお願いします。」ということである。(p.119)

洗礼を受けてキリスト者となるということは、冠婚葬祭をすべてキリスト教ですると決意することだ。様々な抵抗や問題があるかもしれない。結果として、やむを得ずキリスト教でできないようなことがあっても、できるかぎり、このような生活のあり方をしていきたいという努力をすることが必要である。(p.130)

●すべての信仰者に求められている献身
献身は、神が求めておられる人間の生き方である。神を信じて生きることは、献身して生きることである。献身とは、あらためて何かをすることではなく、信仰に忠実に生きることである。(p.154-155)

●緊張味のある役員会を
役員会は、教会員の転出入や財政に関することの事務的なことを協議しているだけでは、緊張味を欠いている。こんなことでは、教会をして堅実ならしめていくことはむずかしい。(p.160)

●己の死を正しく見つめる
キリストの福音は、十字架の死より復活の生を、喜びをもって信じることである。キリスト者こそ、己の死を正しく見つめて、その死に至るまで本当に生きることを知っているものだ。(p.179)

●救いとは
救いは、苦痛や刑罰からわたしを解放することではない。神は、苦しみに耐えうる聖霊を与えることによって、わたしを救いたもうたのだ。(p.191)

●自分を愛するように
自分の心を見せられたら卒倒しかねないわたし自身だが、その自分自身を本当の意味で大切にできる人が、また、人を愛し、人を大切にしていくことができる。(p.193)

●この世のもの以上に
教会生活の中で、いつしか、はじめのころの喜びと感謝が消えていく。イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロと同じように信仰以前の自分の生活に帰っていくより他ないと思っているわたしたちに、復活の主は問いかけておられる。「あなたは、キリスト者の少ない社会の中で、未信者の家庭の中で、誘惑の多い学校の中で、そして、自分の趣味や、もっと自分がしなければならないと思っている勉強や仕事の中で、・・・それらのもの以上に、わたしを愛するか」と。(p.203)

●悔い改めとは
悔い改めとは、どれだけ悪いことをしたか、どんなでたらめな生活をしてきたかということではなく、生き方そのものの方向転換である。自分を絶対化していた者が、神を絶対とする生活をすることである。真の悔い改めのために、第一に罪の自覚をすること、第二に罪を捨てることである。自分の罪を告白し、赦しを求めるだけでなく、自分が今までよしとしてきた生き方を全部捨てるのである。間違った罪の生き方から、すべて離れて生きる決心である。イザヤ書55:7。(p.220-221)

神は、人が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。具体的には、日曜日ごとに神の家なる教会に帰ることである。真に悔い改め続ける者は、いつも教会に帰るべきところを見いだしている人である。(p.221)

●慎むべきときと、逃げ出してはならないとき
教会の中で問題を感じ批判をもったときに、安易に自分の正しさを主張することは慎まねばならない。しかし、福音の本質、聖書の基本的な原理がないがしろにされていく現実に対しては、わたしたちは逃げ出してはならない。(p.235)




石井錦一『教会生活を始める』1 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。


信仰の甘えを克服して成長する

1.主の鍛錬
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。」(ヘブライ12:5)
神は、父なる神であるゆえに、わたしたちを真実な信仰者とするために、訓練される。これまでの人生で一度もこのような痛みを経験したことがないならば、その人は本当に神の子であるかどうか疑わしい。(p.14-15)

2.凝り固まった自分が変えられる修養会
教会生活を続けていると、いつの間にか、自分の理性や生活の中でキリスト教や教会生活をとらえてしまい、一つの固定観念によって自分の信仰をよしとしてしまう。それが変えられるのが、修養会だ。
数日の修養会は、自分の信仰と生活が徹底的に変えられることを求める時だ。修養会に参加していながら、礼拝は月一度しか出られないとか、わたしはこの程度の信者なのだなどと、居直ったおしゃべりををしていては、何の信仰の前進も生まれない。(p.60)

3.自分の信仰に満足しない
もし、わたしたちがほんとうに生けるまことの神を信じるなら、自分をごまかして、まあこのくらいでいい、これでも一応信じているのだという自己満足に我慢ができなくなるはずだ。(p.139)

4.「隠れキリシタン」のような生活では信仰は滅びる
教会の中でどんなに熱心に活動し伝道していても、教会の外で「隠れキリシタン」のように生活していたら、なし崩し的に信仰は滅んでいく。自分の信仰をはっきり言い表して、信仰について恐れず語ることができる信徒でありたい。このように決心して信仰に生きるとき、必ずあなたのすべての問題に希望と喜びと感謝が与えられる。(p.159)

5.甘ったれた信仰
今のわたしたちの教会生活は、甘えの教会生活である。牧師には自分の都合と要求を満たしてくれることを期待し、信徒同士では、自分の信仰はだめだが、相手に対しては完全なキリスト者像を要求する。少しでも期待に反すれば、あれでも牧師か、これでもキリスト者かと言っている。 甘ったれた信仰、甘ったれた教会生活がある。信仰の訓練を受けるということが、今日のキリスト者に最も大切な事柄である。訓練はつらいし、きびしい。逃げ出したくなるが、その訓練に汗を流し、涙をぬぐってやっていくときに、本当の自立したキリスト者が成長してくる。(p.161)

6.自分自身を問われているか
説教を通して、御言葉に厳しくせめられ、自分自身を問われる時、それを一番強く共感し、自らの痛みとして受け取る人たちは、もっとも誠実に信仰に生きている人たちである。ほんとうに聞いて従わなければならない人たちは、しばしば、それは自分のことではないと考えている。(p.201)

7.厳しさを通しての成長
人が成長していくには、様々な蹉跌に会うし、挫折に出会う。蹉跌や挫折に会うごとに、今まで知らなかった自分に出会っていく。(p.217)

8.実際の生活の上で信じているか
理屈としては、主イエスはどんなことでも可能であるお方だと信じている(ヨハネ11:22)。しかし、実際の生活においては、その信仰とはまったくかけ離れた生活をしていないだろうか(ヨハネ11:39)。今ここにいる主イエスが復活であり、命である(ヨハネ11:25)。わたしたちは、マルタと共に、死人のよみがえりを現在のこととして示すイエスの前に立って生きる。(p.229)



祈りについて

1.己の無力さを知る
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)。このことが分からないと、祈り求めても、自分で少しはできるという気持ちになってしまう。しかし、どんなにすばらしい知恵も力も、神の前には無力である。わたしには何もないという無力を自覚したとき、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という偉大な全知全能の神のすばらしさを知る。(p.34-35)

2.できる限り大きな夢を持て
どうしたらすばらしい信仰生活ができるか、どうしたら自分の家庭をしあわせにできるか、どうしたら仕事や勉強をよりよくしていくことができるか、という夢を毎日、新しく持つ。すると、これを実現するための具体的な祈りをすることができるようになる。そのように、神のために、主イエスのために、教会のために、たくさんの大きな夢を持て。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・」(1ヨハネ5:14-15)。この御言葉に信頼して、できる限りの大きな夢を持つことが大切である。(p.36-37)

3.祈りのはじめに神を賛美する
神を礼拝し賛美するときに、中心は自分から神へと変えられていく。自分中心のままで神を賛美することはできない。神への賛美が祈りのはじめに出てくるとき、わたしたちはまことの祈りの場所に立っている。(p.38)

4.神にすべてを打ち明ける
神にすべてを打ち明けることは、祈りの中で一番つらく苦しいことである。しかし、まず自分の弱さと罪を率直に神に打ち明けるなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハ1:9)。それだから、神にすべてを打ち明けるために、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。・・・どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と祈るのである(詩編139:23-24)。(p.39-41)

5.聴かれない祈り
(内村鑑三「聞かれざる祈祷」(娘ルツ子の死の直後に語られたもの)から)
わたしたちは、ただひたすらに、神の御心に従順になり、イエス・キリストによってのみ、祈りのすべてが聴かれることを確信しなければならない。聞かれない祈りは、神が御自身へとわたしを引きつけようとして設けられた、恵みの手段である。祈りが聞かれるかどうかを神に対してためすのではなく、むしろ、恵みに与るため、恵みのもとにあることが明らかになるために、聞かれない祈りがある。霊自らが、わたしたちのために取りなしてくださる(ローマ8:26)。これを知っている者は、祈りが聴かれないことがあったとしても、ひたすら祈り求め続けることを忘れない。(p.126-127)



伝道について

1.証しの訓練
教会は、主を証しする訓練を教会員にしなければならない。そして、一人ひとりの信徒が証し人となって、他の人々をキリストのもとに導くのである。このことを忘れた教会は成長せず、この主の招きに答えない信徒は、自分ひとりの信仰にとどまってしまう。(p.49)

2.伝道的のための捧げ物
伝道のためには、時間も生活も、わたしたちが考えるよりはるかに多くのものを捧げなければならない。そうしなければ、一人の信仰者を得ることができない。(p.51)

3.伝道の困難
伝道には困難がある。仕事でも勉強でも、苦労しなくてできるものはない。まして、一人の人を導いて神を信じるに至らせるには、もっとも大きな苦労と困難がある。(p.162)

4.伝道的に生きる
伝道は、計算したり、損得を考えたりしたら何もできない。伝道するのだとかまえないで、日常的に伝道的に生きる生活をするほかない。自分の生きている姿勢を変えることだ。それは、いつも聖書をぶら下げ、人に会えばキリストの話をするということではない。いま、このときに、このわたしにだけできること、このわたしがしなければならない生き方を真実にし続けることによって、証しされるような伝道をすることはできないだろうか。(p.165)



続きは、「石井錦一『教会生活を始める』2」で。



エウセビオス『教会史』2 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)、講談社学術文庫、2010年。

前回のブログ「エウセビオス『教会史』1」で書誌的な面から紹介した。今回はわたしにとって関心のある箇所のメモ。

主な箇所
(特に、正典成立史への関心から)

● Ⅰ,3,8(p.43)
(キリストの三職)
「預言者たちの中にも聖油を受けて型においてキリストになった者がいる(列王紀上19:16参照)。この者たちはみな、全〔世界〕の唯一の大祭司、全被造物の唯一の王、父の預言者たちの中の唯一の主預言者である神的にして天のロゴス、真のキリストを予示するものにすぎない。」

「キリストの三職は、エウセビオス「教会史」第1巻第3章9節で言及されて以来、多くの人が論じて来た。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』、新教出版社、2007年、p.538。)


● Ⅱ,15,1~2(p.113-114)
(マルコ福音書の成立)
「神への敬虔の光は、ペテロの〔言葉〕を聞く者の精神〔の内奥〕をかくも〔深く〕照らした。そこで彼らは、神からの教えを一度聞くだけでは、あるいは書かれていないその教えだけでは満足せず、ペテロの同伴者だったマルコに――その福音書は現在残されている――、言葉を介して自分たちに伝えられたその教えの要約を文書にして残してくれるようあらゆる手だてを尽くして頼み、その嘆願をマルコが承知するまでやめなかった。・・・使徒〔ペテロ〕は、霊の啓示を受けて〔マルコの〕業を知るや、・・・その文書が教会で朗読されるのを承認したと言われる。クレメンスは『ヒュポテュポセイス』の第6巻でこの話を引き、そしてヒエラポリスびとの監督でパピアスという者も同じくそのことを証ししている。」

● Ⅱ,25,5~8(p.138-139)
(パウロとペトロの殉教)
「彼〔ネロ〕の時代にローマでパウロが斬首され、ペトロも同様に串刺しの刑にされたと言われる。・・・二人が同じときに殉教したことは、コリントびとの監督のディオニュシウスがローマ人に〔送った〕説教文書の次の一節によって知ることができる。・・・この二人は、・・・イタリアでも同じ所で一緒に教え、同じときに殉教した。」

● Ⅲ,2(p.143)
(第二代教皇リヌス)
「パウロとペテロの殉教の後、リヌスがローマ人の教会の監督職に任命された最初の者になった。」

「誰がペトロの後継者であるかについて、・・・或る者はリヌスだと言い、或る者はクレメンスだとする。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第4篇』、新教出版社、2009年、p.120。)


● Ⅲ,3,1~2(p.143)
(ペテロの第二の書簡)
「わたしたちは、第二の書簡と呼ばれるものが正典には含まれないと教えられてきた。だが、それは多くの人びとに有益であると思われたし、〔事実、〕他の文書とともに熱心に読まれてきた。」

(ペテロの他の文書)
「しかし、わたしたちは、彼の名を冠した『事蹟』や、ペテロによる福音書とされるもの、彼の作とされる『教え』、『黙示録』と呼ばれるものなどが公認された〔文書の〕中で伝えられてきたことを全く知らない。なぜならば、初代の教会著作家や現在の教会作家の中には、それらの証言を使用した者が一人もいないからである。」

● Ⅲ,23,1~2(p.176)
(使徒ヨハネ)
「この頃、イエスの愛した使徒であり福音伝道者だったヨハネは、アジアでまだ生きており、そこの教会を監督していた。・・・ヨハネがその頃まで生きていたことは、二人の証人の言葉によって十分に証明されるだろう。その二人とは他ならぬイレナイウスとアレクサンドリアびとのクレメンスである。」

● Ⅲ,24,2(p.181)
(ヨハネ福音書)
「『ヨハネによる福音書』を認められたものとしよう。なぜならば、それが天が下のすべての教会で読まれているからである。初代〔教会〕の人びとがそれを他の二つの〔福音書の〕後の四番目においたのは、それなりの理由があり、・・・。」

● Ⅲ,24,17(p.184)
(ヨハネの書簡)
「第一の書簡が、現在の人びとや初代〔教会〕の人びとによって、議論の余地なく彼の作とされているが、他の二つは否定されている。」

● Ⅲ,25,1~2(p.185)
(新約正典の文書と順序)
「四福音書の聖なる四つ組が最初におかれ、『使徒たちの事蹟』の文書がそれに続く。その後にパウロの書簡がおかれる。さらにその後に、ヨハネの第一〔の書簡〕と呼ばれるものが来るが、わたしたちは〔その次に〕ペテロの書簡を同じように認めねばならない。それらの後に、『ヨハネの黙示録』をおくのが望ましいと思われる・・・。」

● Ⅳ,25
(オリゲネスの旧約、新約正典の目録)
旧約正典目録はⅥ,25,2。新約正典のリストについてはⅥ,25,3~14。
中でも、ヘブライ書についての有名な「一体、この書簡の著者はだれか。真実を知るのは神である。」はⅥ,25,14。

● Ⅳ,26,14(p.272)
(サルディスの司教メリトの旧約正典目録)
エステル記が除外されていることで知られている。

メリトは、「どんな文書が旧約聖書に含まれていたかを知るためパレスチナに旅行し、そこで得た知識をもとにしてエステル記を聖書から除外した。」
(F.V.フィルソン(茂泉昭男訳)『聖書正典の研究――その歴史的・現代的理解』、日本基督教団出版局、1969年、p.7。)


● Ⅵ,14,1~2(p.42)
(クレメンスの正典への言及)
「彼は『ヒュポテュポセイス』の中で、すべての正典文書の内容を簡潔に語り、疑わしい〔文書〕、すなわち、ユダの書簡や他の公同書簡、バルナバ〔の書簡〕、ペテロの作とされる『黙示録』なども素通りしていない。彼は、『ヘブル人への手紙』について次のように言う。すなわち、それはパウロの作であるが、ヘブル人のためにヘブル語で書かれ、ルカが注意深く訳し、ギリシア人のために公刊した。そこで、翻訳の結果、この書簡と『事蹟』(『使徒行伝』)には〔文体上〕同一の色あいが認められる。」

● Ⅵ,25(p.58-64)
オリゲネスの旧約正典目録とヘブル人への書簡などの正典性についての発言。

● Ⅶ,18(p.127)
(長血をわずらった婦人の像)
「わたしたちが聖なる福音書〔の記述〕で知っている、長血をわずらい、わたしたちの救い主によってその苦しみから解き放たれた婦人はこの地の人(カエサリヤ・ピリピ)であったと言われる。そして、彼女の家はこの町にあるとされ、救い主が彼女にされたよき業のすばらしい記念碑がまだ残っている。・・・わたしたちはその市に滞在したときわたしたち自身の目でそれを見ている。」

● Ⅶ,25(p.140-148)
ディオニュシウスがネポスに反対してヨハネ黙示録の執筆者問題について論じた書からの紹介。

黙示録の正典性については、ディオニュシウスは、「わたしは多くの兄弟がこの小冊子を尊重しているので、それを斥けるような大胆なことはしません。ただし、わたしは自分の理解力の乏しさのためにそれに関しての考えを表明するには至らないことを認めます・・・。私は自分の理解できないものを価値のないものとして斥けたりはせず、・・・。」(Ⅶ,25,4-5)(p.140-141)

「わたしはこの二つ(『ヨハネによる福音書』と公同書簡)の性格や、言葉遣い、そしてその小冊子(『黙示録』)の一般的な傾向と呼ばれるものなどから、〔著者が〕同一人物ではない、と判断します。」(Ⅶ,25,8)(p.142)

● Ⅹ,5,2~14(p.289-292)
エウセビオスがラテン語からギリシア語に翻訳した「ミラノ勅令」


エウセビオス『教会史』1 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)(講談社学術文庫2024、2025)、講談社、2010年。
上:508頁、下:533頁。

元は、山本書店、1986~88年、三巻本。

文庫化にあたって、上に第1~5巻を収録、下に第6~10巻を収録と、二分冊になった。

また、人名や地名はギリシア語の原音表記から一般的な表記に変更、左註は本文中に小活字で組み込むなど。

巻はⅠ、Ⅱ、・・・、章は(1)、(2)、・・・、節は文中に〔一〕、〔二〕、・・・と表記。


巻末の解題、あとがきなど
上巻の巻末に、訳者による「エピレゴメナ〔解題〕」あり。エウセビオスの生涯についてと『教会史』について。エウセビオスのギリシア語のひどさについても。

エウセビオスが真正な資料とそうでない資料を吟味せずに引用しているとか、典拠としたものから自分に都合のよい結論を性急に引き出そうとしている点について、「エウセビオスは教会史のヘロドトスであって、ツキディデスではない。」(p.489)

下巻の巻末に、
  訳者あとがき
  学術文庫版へのあとがき
  ローマ帝国の皇帝一覧
  教会管区の一覧
  各管区の監督一覧
  殉教者の一覧
  異端の一覧
  引用されている文書の一覧
あり。どれも、『教会史』の中で言及されている箇所が明示されている。

さらに、聖書引用索引、事項索引、人名索引、地名索引あり。

「ヨセフスを読んだ者はまちがいなくエウセビオスに進み、そしてエウセビオスを読み終えた者は、ヨセフスを読み返すであろう。」(「訳者あとがき」p.414)


内容について

「わたしはこの物語の進行にしたがい、各時代の教会著作家のうちのだれが、〔真正性の〕疑わしい〔文書の〕中のどれを利用したか、また正典に含まれ〔教会で〕認められた文書について彼らが何と言っているか、そして、そのように扱われなかった〔文書〕についてどのように言っているかを、〔使徒の〕継承とともに示そうと思う。」
(Ⅲ,3,3)(p.143-144)

第6巻はオリゲネスの伝記的記述や著作とその時代の迫害・拷問・殉教、同時代の人物について。


続きは、「エウセビオス『教会史』2」で、わたしの関心のある箇所のメモ。



山内進編『正しい戦争という思想』 [読書メモ]

山内進編、『「正しい戦争」という思想』、勁草書房、2006年、14+270+32頁。

一橋大学21世紀COE「ヨーロッパの革新的研究拠点――衝突と和解」の研究成果。

これまで日本になかった、「正しい戦争」あるいは「正戦」に関する基本書としての位置づけで発行された。

第1部は歴史的視点から、ヨーロッパの内と外での正戦論を考察。
第2部は宗教的視点から、キリスト教とイスラム教の正しい戦争論を考察。
第3部は現代思想的論点から、ヨーロッパ(特にドイツ)とアメリカの知識人の議論と国際法理論とを検討。


目 次

はしがき――「正しい戦争」という思想 山内進

序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か 山内進

第1部 ヨーロッパの内外から見た「正しい戦争」

第1章 異教徒に権利はあるか――中世ヨーロッパの正戦論 山内進

第2章 ≪征服はなかった≫――インカ帝国征服戦争――正戦論に対する敗者の異議申し立て 染田秀藤

第2部 キリスト教とイスラームの「正しい戦争」

第3章 キリスト教の正戦論――アウグスティヌスの聖書解釈と自然法 荻野弘之

第4章 イスラームにおける正しい戦い――テロリズムはジハードか 奥田敦

第3部 現代の「正しい戦争」論――ヨーロッパとアメリカ

第5章 20世紀における正戦論の展開を考える――カール・シュミットからハーバーマスまで 権左武志

第6章 最近のアメリカが考える「正しい戦争」――保守とリベラル 阪口正二郎

第7章 国際法から見た「正しい戦争」とは何か――戦争規制の効力と限界 佐藤哲夫

結びにかえて――「正しい戦争」の道徳性 森村進


巻末に文献表(本文の章ごとには分けられていない)と事項索引、人名索引。



以下、「はしがき」と「序論」を読んでのメモ(p.41まで)。


はしがき

・ 戦争が良いか悪いかという判断とは別に、正しいか正しくないかという判断基準がありうる。

「正戦」(justum bellum, just war)は西洋精神史の中で培われてきた神学的・法学的概念である。これに対して、「正しい戦争」(justifiable warとかrighteous warとかgood war)はより一般的に、思想として戦争の是非を論じたり、他文明圏を含めて議論する場合の表現である。

・ 西洋は古代ギリシア・ローマ時代から正戦論を発達させてきたので、現代においても欧米的発想では正しい戦争と正戦が一体的に論じられることが多いが、これらは区別すべきである。正しい戦争がありうるとしても、それは西洋的正戦と同一のものとは限らない。



序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か

正しい戦争は、①神との関係で正当化される聖戦、②ヨーロッパ的観念である正戦、③国際法的な意味で合法とされる戦争に分けられる。

1.正しい戦争
・ 戦争に対する態度は、大きく①肯定派、②否定派、③条件派に分けられる。

・ 肯定派は戦争を賛美する立場、否定派はいかなる戦いも認めない立場である。「正しい戦争」論は、戦争は本来行うべきでないし、避けなければならないが、決して戦わないという選択は非現実的であるとして、条件付きで戦争を認める立場に含められる。

・ 「正しい戦争」の論点は、戦争を行うか行わないかではなく、それが正しい武力行使か否かである。そこでは、事情によっては許される戦争があるというという考えを前提としている。

・ 「正しい戦争」論は、自衛戦争すら認めないというわけではないが、すべての戦争を認めるのでもない。武力行使の必要な事態があることを認め、しかし、その原因と方法に「正しさ」という条件を付すものである。この点で、「正しい戦争」論は、時として「緩やかな平和主義」と重なり合う。


2.聖戦
・ James T. Johnson (1997) による分類:
①神の命令のもとに戦われる戦争――古代イスラエルやイスラームのジハード。これはまず武器への特殊な呼び掛けではなく、信仰への熱意に対する命令である。
②正しく権威づけられた神の代理人により、神のために戦われる戦争――十字軍、スンニ派の指導者の呼びかけによるものなど。
③神自身によって戦われる戦争――旧約聖書。
④内外の敵から宗教を守るための戦争――古代ユダヤ、ジハード。
⑤正しい宗教を宣伝するか神の権威と一致する社会秩序を打ち立てるために行われる戦争。
⑥宗教的一体性を強調し、かつ(あるいは)逸脱者を処罰するために行われる戦争――異端に対する戦い。ドナティウス派に対して、アルビ派・カタリ派への十字軍など。
⑦参加者自身が儀式的にかつ(あるいは)道徳的に「聖」的になる戦争。

・ 十字軍は正当な神の使い、代理人によって訴えられて遂行された聖戦(praelia sancta)である。宗教性を絶対的要因とする聖戦は、正戦そのものではない。

・ 20世紀後半から21世紀にかけて、再び十字軍的とも思える正戦論や聖戦的ジハードが語られることが多くなり始めたが、まず聖戦と正戦を論理的に区別しなければならない。


3.正戦――古代・中世
・ 正戦はあくまでヨーロッパ的な概念であり、聖戦が宗教的であることを決定的要素とするのに対し、正戦は、祖国の防衛など正当な理由を根拠とする戦争である。(ただし、正戦が根拠とする理由は多岐にわたり、そのなかに宗教的理由を含む場合もある。この場合は、聖戦は正戦の一部と言うことになる。)

・ ヨーロッパ中世においては、宗教的社会であるゆえに正戦と聖戦はしばしば重なり合っていた。しかし、近世初頭のヨーロッパの国際法学者たちによって、聖戦と正戦は切り分けられた。

・ アウグスティヌスは、「神の意思」「神の命令」を重視し、その意味で聖戦論を語ったが、言葉は正戦を用いた。ここから、ヨーロッパキリスト教世界に正戦という言葉が流布し、キリスト教といえども場合によっては武器をもって戦うことが許されるという思想が根付いた。

・ トマス・アクィナスの正戦論は、『神学大全』2.2.40「戦争について」に示されている。正戦であるには、①正当な権威、②正当な原因、③正当な意図の三つがすべて必要である。このいずれも、神の意思と関係づけられるわけではない。この点で、アクィナスの正当戦争論は後世に多大な影響を与えた。


※p.19「キケローの正戦論は世俗的なもので、キリスト教の教義とは何の関係もなかった」って、あったりまえじゃん。キケロは紀元前の人間だよ。


4.正戦――近世・近代
・ トマス・アクィナスは聖戦的要素を正戦論の基本的要素から排除し、異教徒との共存の可能性を認めていた。これは中世から近世に到る一つの重要な思想的系譜である。

・ グロティウス(「国際法の父」と呼ばれる)は、スペインの近世スコラ学者たちと同様に、宗教の違いを理由とした攻撃を認めず、自然法を論拠として、徹底して世俗的な正戦論を展開した。

・ ヨーロッパの拡大と理性的普遍主義の中で、人肉嗜食などの人道に反する行為に対して戦争を行使することは合法とされるという主張が出て来た。これは、自然法に基づく普遍的規範を根拠にした刑罰戦争であり、普遍的正義・権利のための正戦であった。

・ ヨーロッパが洗練された文明的存在として意識されるようになると、ヨーロッパは一個の共同体であって、諸国家はその一員と考えられるようになった。その中での主権国家間の争いは、バランス・オブ・パワーの回復の争いに過ぎず、相手もまた主権国家であると尊重されるとされた。

・ エメリッヒ・ヴァッテル(1714-67)は、主権国家は平等であるゆえ、一方が正しく他方が不正であると決めることはできないとした。したがってもはや正戦論ではない。すべての戦争は、主権国家がその最高の意思に基づいて推進するものであるから、主権国家が戦争をすると決断すれば、それを止めるものは何もない。しかし、ヨーロッパは諸国家間の諸関係と種々の利益とによって連結されている集団を形成しているので、主権国家は、相手の殲滅や吸収、奴隷化、植民地化を目指してはならないという一定のルールのもとに戦わなければならない。

・ 戦争は、単に紛争に決着を付ける最終手段に過ぎないものとなった。殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって戦争は終結する。戦争の正しさとは、フェアプレーを行うこととなった。そのルールを定める規則が戦時国際法である。


5.合法戦争
・ 二つのハーグ平和会議(1899、1907)で、戦時の国際法が成文化された。それは、文明国間の条約で定められたものだった。また、それは戦争の防止を図るものでも、戦争の正・不正を図るものでもなく、交戦方法や手段の規制、中立制度の確定を目指すものだった。

・ ヴォレンホーヴェンは、ヴァッテル以後の、主権国家による独断的な戦争の自由を批判して、そのような侵略行為は諸国家の連合軍で撃破すべきだとし、国際的な協力のもとで平和を構築することを主張した。これによって、「違法な戦争」という概念が国際法思想の中に取り入れられた。こうして、グロティウスの刑罰戦争論が再び浮上し、正戦論が復活した。

・ 現代における「正しい戦争」とは、個々の国家や集団が自らの判断で正当性を主張する聖戦や正戦ではなく、国際法に照らして正しいとされる戦争のことであり、国際社会が実定国際法または国際機関または国際世論によって合法とみなす戦争のことである。





以前のブログで関連の文献紹介記事:千葉眞編『平和の政治思想史』おうふう、2009年。




タグ:戦争と平和

辻学『偽名書簡の謎を解く』 [読書メモ]

辻学、『偽名書簡の謎を解く――パウロなき後のキリスト教』、新教出版社、2013年、233頁、2200円+税。

読書メモ、その他。

課題について
「第2パウロ書簡は、パウロの書き遺した内容をどう理解し、実践するべきなのかという課題の前に、パウロなき後のキリスト教徒たちが立たされた状況から生まれてきた文書である。・・・そうだとすれば、これは私たち現代のキリスト教徒が抱える課題と同じではないか。」
(pp.6-7)

先行研究について
「〔第2パウロ書簡は〕真正パウロ書簡と比較すると神学思想が希薄だとか、創造性に欠けるとか、パウロ思想をきちんと継承していないといった批判があちらこちらの注解書や神学書には見られる。」
として、土屋博『牧会書簡』(日本キリスト教団出版局、1990年)について、
「土屋(1990)の牧会書簡注解はその典型例である。」とし、具体例を挙げて「著者の主観が十分に反映していると思う」と記している。(pp.7-8)

内 容
第1章
「パウロ学派」なるものは想定できるのか?という問題について。

第2章
他人の名を語って書くことは古代においてもはばかれた。それで、不自然にならないように記述が工夫され、意図的に曖昧な状況設定になっている。このことを各書について示す。

そして、第3章~第6章で、各書ごとに、より詳細に、なぜ偽名だと判断できるのか、真筆らしく装っている工夫点や状況設定、執筆の意図や時期について論じる。

その際、第2パウロ書簡の取り上げる順序は、Ⅱテサ、コロサイ、エフェソ、牧会書簡の順になっている。コロサイを最初とする通例と異なりⅡテサから始めるのは、それが第2パウロ書簡の典型であり、また、もしかしたらⅡテサが第2パウロ書簡の中で最も早く作られた可能性も否定できないからとする。(p.63)

牧会書簡について、なぜ個人宛なのかについては、「もはや新たな教会宛書簡を造り出すには危険が大きすぎるので、個人宛書簡集が見つかったという体裁」がとられたとする。(p.189)

第7章は「まとめ」。
第2パウロ書簡は、パウロ思想の修正であり、しかし、これこそ正しいパウロ理解だと提示しようとしている。

では、新約正典として第2パウロ書簡をどう読むか? 福音書間に矛盾や対立があるのとおなじく、パウロ書簡についても、立体的に多様なパウロ理解を読み取ることができるはず。(p.206あたり)

書 評
・『本のひろば』(キリスト教文書センター、2013.12)に永田竹司による書評(pdf)あり。

・日本基督教学会編『日本の神学』53(2014)に前川裕による書評(pdf)あり。専門的な書評というよりも内容紹介的だが、このぐらいがわたしにはありがたい。

・『新約学研究』(43号、2015)に三浦望による書評あり。 日本新約学会のサイトには、現在第41号(2013年)までしか掲載されていない。



辻学による主な注解書や緒論
(広島大学の辻学研究室のサイトを参考)
1.『新共同訳 新約聖書略解』(日本基督教団出版局、1999年)の、ヤコブ、ⅠⅡペトロ、ユダを執筆している。

2.『ヤコブの手紙』(現代新約注解全書)、新教出版社、2002年。著者研究室のサイトによると、今となっては、修正を加えたい箇所もあるとのこと。

3.緒論的内容は、『新版 総説新約聖書』(日本基督教団出版局、2003年)で、牧会書簡とヤコブを担当している。

4.『福音と世界』2016年3月号から、Ⅰテモテの釈義の連載開始。

5.日本基督教団出版局から刊行予定の『NTJ ─新約聖書注解』のシリーズでは、ⅠⅡペトロとユダを担当。


というわけで、NTJでペトロとユダが出たら、あとは、『福音と世界』の連載がまとめられて牧会書簡の注解が出るのが期待される。


おまけ:辻学のブログあり




山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』 [読書メモ]

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書839)、文藝春秋、2011年。

マタイの八福をはじめ、4福音書だけでなくその他の箇所からもケセン語訳で御言葉を紹介し、聖書の信仰を独特に語る38話。
4福音書以外では、創世記2:16~17、11:4、ローマ3:28、ヤコブ2:24~26。

漢語を使わないで表現し、聖書特有の用語も避け、世の人々に具体的に通じる訳語を考え、辞書的意味や語源はほぼ無批判に取り入れる。

以下は、ケセン語訳でおもしろかったところではなく、解説で目にとまったところ。

(愛については、前回の記事「「愛」は自己本位的」に記した。)


●善悪の知識の木の実
「善悪の知識」とは、何が善で何が悪かということを判断する力のこと。ことの善悪を判断するとき人は、「俺は絶対正しい!」と信じて、絶対者になってしまう。神に対して人間の側が絶対に正しいなどと言うことはできず、また、人との間で自分は絶対に正しいと信じて突き進むと、その先に滅びが待っている。すべての戦争は双方とも正義を振りかざす旗のもとに行われ、正義と正義がぶつかり合うところに破滅がある。

しかし、人間は正しさに忠実であろうとするほど、自分の信じる正義この、抜け道のない悲惨から人間を助けるのが神であり、そこに救いがある。
(p.34~37あたりを参考にかなり言い換えた)



●幸せと幸いの違い
幸いは、自己中心的な都合の良さを喜ぶのであって、運まかせの好都合という側面がある。一方、幸せは人と人との交わりにおける温かくほのぼのとしたうれしさである。


●マタイ5:4
親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いている人を、イエスはそばに引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれる。ここに幸せがある。


●マタイ5:5「柔和な人」
支配者の搾取に抵抗せず言われるままに従う人が、為政者からみれば「柔和な人」であり、そのような財産もない人に、イエスは相続財産をくださる。


●マタイ5:8「神を見る」
顔と顔を合わせ、目と目を合わせて微笑みかわす幸せをいただく。「かたじけなくも神さまにお目通りがかなう」とでもいうべきだ。


●「裁くな」
「裁くな」とは「人の善し悪しを言うな」ということである。人間はどうしても、自分のものさしで他人を測る。自分のものさし以外のものさしがあるかも知れないということを考えたくもない。

人間は常に自己修正の余地を自分の中に持っている必要がある。絶対に正しい人などどこにもいないからである。

これこそがエデンの園で「善悪を知る木」の実を食べた人間の姿であった。人が自分の信じる正義に徹底的に忠実であろうとすれば必ず陥ってしまう救いようのない悲惨な結末、それを聖書は「闇」と呼んでいる。この「闇」から抜け出すにはどうしたらいいのか。それが、「敵であっても大事にしろ」「人の善し悪しを言うな」である。
(p.128-129)



●治療と治癒
治療と治癒は全く異なる。生活習慣の改善を指導し、薬を与え、手術をし、病気が平癒するように手を尽くす。これが治療である。しかし、いくら治療しても治癒しない場合がある。テラペウオー(治療)することはイアオマイ(治癒)させるための手段であり、イアオマイさせることはテラペウオーすることの目的であって、両者は同じではない。

「テラペウオーする」は「治療する・いやす」の両義を持ち得るが、しかしその過去形「テラペウオーした」は、治療に成功した場合にだけ「いやした」と訳せるのであって、失敗したら「いやした」とは訳せない。しかし、失敗したとしても「治療した」とは訳せる。
(p.175~176)





「愛」は自己本位的 [読書メモ]

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書839)(文藝春秋、2011年)のpp.112-119あたりから、私なりの言葉でのまとめ。


「愛」という語について


日本語の「愛」は自己本位的
愛とは相手を好きになることで、特に今の日本語では、男女の恋愛感情について言うのがほとんどである。このような愛においては、自分の気に入ったものは愛するが、気に入らないものは愛せない。すなわち、愛とは自己本位的な感情である。


「愛する」とは上の者が下の者に言う言葉
もともと、愛という言葉は上の者から下の者に対して使われた。主君は臣下を愛すると言うが、臣下が主君を愛するとは言わない。下の者が上の者に対していだく好意は「慕う」と言う。臣下は主君をお慕いするのである。これが元来の日本語の使い方である。


敵を大切にする
ドチリイナ・キリシタンでは、アガパオーを「大切にする」と訳した。「大切にする」なら、上下関係も好き嫌いもない。上杉謙信は、塩不足で困窮していた宿敵武田信玄に塩を送って助けた。これが「敵を愛する」、いや「敵を大切にする」ということだ。          


愛とは大事にすること
大事なことは、憎い相手に対しても、あいつも人なのだと思って大事にすることだ。大事にするということは、自己本位の感情とは関係がなく、あくまでも相手本位の行動を指す言葉である。

アラン・コルバン編『キリスト教の歴史』 [読書メモ]

しばらく前の4月27日に、C.リンドバーグ(木寺廉太訳)、『キリスト教史』(コンパクト・ヒストリー)(教文館、2007年)を紹介したが、今度はこれ。

Corbin『キリスト教の歴史』アラン・コルバン編(浜名優美監訳、藤本拓也、渡辺優訳)、『キリスト教の歴史――現代をよりよく理解するために』、藤原書店、2010年、534頁、4800円+税。

原著はフランス語、sous la direction de Alain Corbin, "Histoire du Christianisme: Pour mieux comprendre notre temps," 2007.

アラン・コルバン他55名のフランスの歴史研究者たちが、キリスト教史の中の約80のテーマごとに執筆を担当して、知的好奇心はあるがキリスト教を知らないフランス人向けに、大まかなキリスト教史を、どちらかというとカトリックの歴史を中心に、編んだもの。

「この共同の著作は自分の持っている知識を深めたいと思っているキリスト教徒の読者の興味を引くと思うが、それ以上に、単なる知的好奇心から、あるいは自分の身の回りの環境と他者の文化をよりよく理解するために、これまで不透明であり続けた一つの宗教の歴史を知りたいと願うすべての人の関心を引くことになるだろう。」
(「まえがき」p.24)


1項目平均6頁弱。

目次は、藤原書店のページにある。

構成は標準的で、古代、中世、近代、現代の4部構成。


第Ⅰ部
第Ⅰ部は1~5世紀。

第1章~第3章は、ナザレのイエスからパウロの伝道、ローマ帝国による迫害からテルトゥリアヌス、ローマ帝国のキリスト教国化。

第4章は「信仰を規定する」として、異端と正統、グノーシス主義とマニ教、4~5世紀の教義の形成。

第5章は「キリスト教組織の構築」として、使徒言行録以降の職制の発展、洗礼準備教育、聖餐、教会建築、週と暦、貧者への慈善活動、禁欲と修道院。

第6章は、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリウス、クリュソストモス、ヒエロニムスと『ウルガタ』、アウグスティヌス。

第7章は、ローマ帝国内外のキリスト教の広がり。


第Ⅱ部
第Ⅱ部は中世(5~15世紀)。

「暗黒伝説でも黄金伝説でもなく」という副題のもとに、「安定化と拡大」、「肯定、異議申し立て、司牧の応答」、「救いに向けての尽力」の3つの大きなカテゴリーを立てる。

第1章「安定化と拡大」では、聖ベネディクトゥス、大グレゴリウスから、東方と西方の一致と差異、聖ベルナルドゥスとシトー会、そして、大聖堂について。

第2章では、十字軍、カタリ派(「善き人びと」とカギ括弧付きで表記)などの異端、異端審問、中世の歴史観・終末への関心、第4ラテラノ公会議、アッシジのフランチェスコ、托鉢修道会、トマス・アクイナス。

第3章「救いに向けての尽力」では、煉獄の概念、聖人崇拝・聖遺物、巡礼、聖母マリア(ノートルダム)、慈善事業の急増、聖体崇敬、ヤン・フス、神秘主義、『キリストにならいて』。


第Ⅲ部
第Ⅲ部は近代(16~18世紀)。

第1章は宗教改革で、エラスムスとルター、急進派、カルヴァン、英国国教会のわずか4項目というごく簡単な記述。

第2章は「敵対と闘争」で、イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会、異端審問所の変化、典礼、ジャンセニスムなど。

第3章はアメリカ、アジア、アフリカへの宣教、キリスト教教育、トリエント公会議、ローマとジュネーヴの比較など。

第4章はバッハ、聖書批評学の誕生(「聖書考証」という訳語はないだろう)、プロテスタントの敬虔主義や大覚醒など、守護聖人、ロシア正教。


第Ⅳ部
第Ⅳ部は現代(19~20世紀)

第1章の「聖書註釈の展開と信仰の諸形態」というのはなんだかわけわからん。

第2章は、ピウス9世、レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」、第2ヴァチカン公会議、自慰と避妊と産児制限に対するカトリックの見解など。

第3章は、オスマン帝国時代の東方教会、北米のプロテスタンティズム、エキュメニズムと宗教間対話など。



というわけで、特徴をまとめると、
・通史と言うよりは、項目ごとの読む事典という感じかも。

・古代と中世は割と主要な項目を取り上げている感じがする。

・中世は、主要な項目を三つに区分する観点が面白い。

・近代・現代はカトリック中心だが、かなり独特の限定された項目に絞っている感じ。

・「現代をよりよく理解するために」という副題が付いていて、バッハの項目とか産児制限に関するカトリックの見解などの項目が立てられてはいるが、特段、政治や経済、文化などの領域における現代の諸状況とキリスト教(カトリック)との関係を述べているという感じではないように思う。



というわけで、結論としては、
・日本のプロテスタントの信徒がキリスト教史を学ぶのに最初に読む本ではない。

・ある程度、勉強した後で、項目を選んで知識の隙間を埋めるのには役立つかもしれないという感じ。

・必読とか推薦とかではなく、まあ別に読まなくても良いだろう。



リンドバーグ『キリスト教史』 [読書メモ]

リンドバーグ『キリスト教史』コンパクトヒストリーC.リンドバーグ(木寺廉太訳)、『キリスト教史』(コンパクト・ヒストリー)、教文館、2007年(原著2006年)、297+35頁、2000円+税。

わずか300ページ弱でキリスト教の歴史全体をざっと、しかし要所要所を押さえながら、見通す。初心者向けではなく、伝統とはとか教理とはといった議論を挟みつつ、また、敬虔主義と啓蒙主義についてまるまる1章を割いて語るなどから、欧米の教養人向けという感じ。


目 次

第1章 記憶すべき責任――キリスト教史学方法論序説

第2章 祈りの法は信仰の法

第3章 兄弟喧嘩――異端信仰、正統信仰、公会議

第4章 天上の国――アウグスティヌスによる聖書の宗教とヘレニズムの総合

第5章 中世キリスト教の展開

第6章 知解を求める信仰――アンセルムス、アベラルドゥス、初期スコラ学

第7章 中世教会

第8章 十六世紀の宗教改革

第9章 敬虔主義と啓蒙主義

第10章 挑戦と応答――十九世紀の教会

第11章 第一次世界大戦以降のキリスト教会

補遺――キリスト教の歴史記述
pp.271~280。古代、中世、近代という時代区分をめぐって。


用語解説

読書の手引
おそらくFurther Readingで、ほとんど英語圏のもの(邦訳のあるものは邦題等も記されているが)。


索引
日本語だけでなく英語表記も添えてあって親切。




読んでみて、わたしなりのメモ。

●伝統と信仰
「伝統とは死んだ者の生きた信仰のことであり、伝統主義とは生きている者の死んだ信仰のことである。」
(ペリカン(鈴木浩訳)『キリスト教の伝統――教理発展の歴史 第1巻 公同的伝統の出現(100-600年)』教文館、2006年、45頁からの引用)
(p.20)


●記念によって過去を現在化する伝統
イエスが死の前夜に弟子たちとなさった食事は、「わたしの記念として(憶えつつ)」なされ続ける。この「記念して行うこと」は、そのひな形を出エジプトの記念としての過越祭の中にもっている。すべての参加者が、伝えられたものを記念することによって出来事の同時代人となるように、過去の出来事が現在化される。伝統とは、過去に固定されず、過去を現在化することによって新たな未来に対して意義をもつものである。
(p.21)


●信仰告白の歴史的相対性
「諸信仰告白の形態は、・・・特定の時代の言語・概念・文化を表し、当時の教会のもっとも強い関心事であった問題や論点も表していた。・・・それ故、教会が信じ教え告白することは、無時間的な真実の集成ではなくて、教会の確信の歴史的な表現である。」
(pp.41~42)


●歴史の中で繰り返されるドナトゥス主義
ドナトゥス主義は、聖職者の道徳的な面での聖性に強く関心をもった運動だったので、同様な考え方は教会史の中で、グレゴリウス改革(11世紀)、宗教改革急進派(16世紀)、近代のカリスマ運動のような信仰復興運動との関わりにおいて、絶えず現れてきた。
(p.79)


●シュペーナーの敬虔主義と万人祭司性
シュペーナーは、敬虔な人々の養成をとおして教会を改革しようとした。なかんずく彼は、万人祭司性の復活と教会における信徒の活動の自由とを求めた。信徒は共同の聖書研究のために牧師と一緒に集まる機会をもつべきであり、また、彼らは説教と牧会の客体ではなく、キリスト教的実践に携わる主体となるべきである。そのために、信徒が聖書全体を瞑想することが奨励された。
(p.200あたりのことをだいぶ言い換えた)


●敬虔主義と啓蒙主義
啓蒙主義は、敬虔主義が強調したいくつかの点を受け継いだ。すなわち、個人の経験に根ざした宗教への人間中心的な態度、より良い未来を志向する態度、教育を通して教え込まれうる道徳性への関心である。
(p.207)


●バルメン宣言とシュトゥットガルト宣言
「バルメン宣言は教会とその信仰告白のアイデンティティにとって記憶と歴史がいかに重要であるかを証言した。バルメン宣言の主要な起草者であるバルトは、宣言本文の明白な特徴をユダヤ人と共有しなかったことをのちに後悔した。」
(p.254)


「バルメン告白は教会と国家の対決と政治的抑圧の領域におけるひな型的な信仰の宣言であり続けている。その告白は南アフリカでのアパルトヘイトへの反対を示す神学的分岐点となった「カイロス文書」(the Kairos Document)(1985年)にも、アパルトヘイトを非難した「改革派教会世界連盟」や「ルーテル世界連盟」にも影響を及ぼした。
(p.255)


「戦後すぐに、ドイツ福音主義教会会議は、「シュトゥットガルト宣言」(Stuttgarter Schuldbekenntnis、1945年10月)において次のように認めた。「私たちは永年の間、イエス・キリストの御名において、ナチズムという恐ろしい形で現れた霊と戦ってきた。しかし、私たちはもっと大胆に告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜んで信じず、もっと激しく愛さなかったことに対して、自らを非難する」。
(p.256-257)


●資本主義か共産主義か(ダレス vs. フロマートカ)
世界教会協議会の第1回総会(1948年、アムステルダム)で、ジョン・フォスター・ダレス(アメリカの長老派の代議員でのちに合衆国国務長官になった)は共産主義を世界平和への最大の障害だと評し、ヨゼフ・フロマートカ(チェコ人神学者)は教会と西欧文明が代表してきた多くの社会的趨勢を具現する一勢力として共産主義を共感を持って理解するように訴えた。総会は、どんな文明も神の御言葉の徹底した裁きを免れえないことを主張して、資本主義と共産主義のどちらかが唯一の有効な選択肢だという仮定を明白に否定した。
(p.263)




マルティン・ルター(岩波新書) [読書メモ]

徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』.JPG徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書1372)、岩波書店、2012年、183頁、720円+税。

これまでは、日本人による、簡便で、読みやすく確かな評伝は、清水書院の人と思想シリーズの『ルター』しかなかったが、ついに、現代の日本におけるルター研究の第一人者によるルター評伝の決定版が出た。



読んでみて、わたしなりのメモ。

「神の義」における「行為者の属格」用法
「神は「義(正しさ)」を、イエス・キリストというかたちで、罪深き人間への「贈り物」として与える。その結果、「義」はそれを贈られた人間の所有するものとなり、人間は救われる。」
(p.39-40)


十字架の神学
「ハイデルベルク討論」(1518年)において掲げられた「神学的命題は、次の四つをもってルターの「十字架の神学」の核心を示している点で重要である。
一、律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。
二、罪に墜ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり、人間は罪を犯すほかはないこと。
三、神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。
四、神の救いの啓示は、キリストの十字架によってのみ与えられること。」
(p.59-60)


悔い改めと福音
「イエスが「悔い改めなさい」と言ったのは、自分たち人間に日々時々刻々、悔い改めを望んでいるからだ・・・。心の中の本当の悔い改めがなければ、どれほど一生懸命に罪の償いを果たしても無駄である。・・・教会の行いは、ただ神の御心にのみ添うものであって、人間の我欲や利得とは一切関わりをもたないもののはずである。「教会の宝」とはひとえに、聖書の中に示されるイエス・キリストのことばと働き、すなわち福音ではないのか。」
(p.67-68)


破門の大教勅
1521年1月3日、
「教皇からついに破門の大教勅が発せられた。この破門の大教勅は、二一世紀の現代に至るも、いまだ解かれていない。」
(p.83)


ヨーロッパの近代とルター
「ヨーロッパの近代は、思想的には、個人の人格、主体性、信念や信条を尊重することを基本に発展したが、ルターのこの発言〔1521年のウォルムス議会での喚問に対する答え〕はその先駆けとなった・・・。」
(p.85)


「大胆に罪を犯しなさい」の文脈
〔メランヒトンへの手紙の中で〕
「あなたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みではなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われはしない。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」
 ともすると、「大胆に罪を犯しなさい」という言葉だけが独り歩きし、誤解されることがあるが、これは決して罪を犯すことを奨めているわけではない。私たち人間は罪を犯さざるをえない存在である。それは認めなくてはならない。しかし、それ以上に、キリストが共にいることの救いに感謝すべきであるという趣旨を言っている。」
(p.94)


民衆の魂の救いのために
「九五箇条の提題でルターが聖職者や神学者たちに問いかけ、訴えようとしていたことは、単なる教会批判ではなく、民衆の魂の救いのためには何が必要かということであった。」
(p.68)

「ルターが指摘し、批判したのは、教会組織や聖職者たちの堕落や腐敗そのものではない。・・・ルターは教会の教えが民衆を誤った信仰に導いていることに強い憤りを感じていた。」
(p.121-122)


リフォームではなくリフォーメイション
「リフォーメイションを日本語にするならば、やや生硬な表現だが、「再形成化」という言葉がふさわしいのではないか・・・。すなわち、それまでキリスト教的一体世界であった西欧が、ルターの始めた運動をきっかけにして細分化し、キリスト教世界であることに変わりないものの、従来のあり方とはまったく別の、多様なキリスト教世界に再形成された、ということである。」
(p.116-117)

「ルターの宗教改革が、たんに教会の堕落を正すのを目的としていたなら、それは文字どおり「改革(リフォーム)」であり、「リフォーメイション」と呼ばれることはなかったであろう。それが「改革」を超えて、歴史を画するものにまでなったのは、人びとの信仰のあり方を根本的に変えるものだったからである。ルターが、あらゆる苦難と困難を乗り越えて成し遂げようとしていたのは、人びとの魂を支える「信仰の再形成」だったのである。」
(p.122)


ルターは歴史上はじめて賛美歌を作った
「礼拝改革を進めるなか、ドイツ語による説教につづいてルターが導入したいと考えたのは、民衆が歌うドイツ語の賛美歌であった。中世の伝統的な聖歌ではやはり、もっぱらラテン語が使われていた。礼拝に際して歌う典礼歌や教会賛歌は形式が厳格に整えられ、教会に所属する音楽家や聖歌隊が歌うものであった。・・・ルターはそれを改め、普段つかうドイツ語で歌うことを通して、民衆を礼拝に参加させようと試みた。」
(p.141)

「民衆が歌う賛美歌は、やがて「コラール」と呼ばれるようになっていった。」
(p.143)





加藤隆『旧約聖書の誕生』 [読書メモ]

加藤隆、『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫 カ-30-1)、筑摩書房、2011年。
(2008年単行本の文庫化)


なお、加藤隆によるNHKテレビ「100分de名著」のテキストで、
 『旧約聖書』(2014年5月)
また、
 『集中講義 旧約聖書――「一神教」の根源を見る』(2016年1月) 
が出た。


『旧約聖書の誕生』について、せっかくざっと目を通したので、いくつかメモっておく。


●旧約聖書の中心

聖書はたいへんに複雑な書物である。旧約聖書の中心的な箇所を、無理を承知で挙げるとすると、申命記6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は、唯一の主である」だ。
p.42-43あたり。


●文学ジャンルについて

「エジプト脱出という緊迫した状況の中で、祭りの儀式のあり方についてのかなり詳しい指示が行われているのは奇妙なことではないだろうか。・・・除酵祭とエジプト脱出の結びつきに関しては歴史的事実の報告ではなく、イスラエルがカナンに定着して以降の時期におけるイスラエル民族にとっての出エジプトの出来事の意味づけが問題になっている。つまり聖書のテキストは、表面的な体裁(過去の出来事の報告)と、実際の内容(過去の出来事についての、後の時代における意味づけ)が重なりあっていて、・・・。これはつまるところ文学ジャンルの問題だ・・・。」
p.88-89、93。

「江戸時代を背景にしたギャグ漫画に、学問的な歴史書のような歴史的正確さがないと非難しても、・・・的はずれである。同じように創世記一章の創造物語に科学的正確さがないと非難するのは、文学ジャンルの問題についての理解の欠如からの的はずれな議論である。」
p.101。

江戸時代を背景にしたギャグマンガって、いったい何?


アダムとイヴの「二人が歴史的に存在したかを問うことは、文学ジャンルについてまったく無理解だということになる。・・・すべての人間が根源的にアダムとイヴだということが示されている。」
p.159。



●聖書は環境破壊の元凶か

「環境問題は自然に対する人の科学的アプローチが展開した結果生じてきた問題である。・・・創世記一章のエピソードで人は、「神に似ている」とされている。・・・そのような「神に似た人」による「自然の支配」は、「神による自然の支配」に似たものだ・・・。創世記一章のエピソードにおける神と自然との関係は「神が自然を創造する」ということである。つまり「神は自然を創造的に支配している」。神は、少なくとも、「自分に役立つように自然を利用する」というあり方で自然にかかわっているのではない。とするならば、「神に似た人」は、「自然を創造する」というあり方で「自然を支配」すべきだ・・・、少なくとも、「人が自分に役立つように自然を利用する」ように「自然を支配する」ということにはなっていない・・・。」
p.157-158。


●聖書を理解する

「聖書には相容れない立場が示されていることから、聖書は矛盾しているとして聖書を拒否することは、聖書が理解できなかったことを意味する。」
p.171。



●愛について

「愛とは何か。・・・恋がさめても捨てないのが愛である。・・・完璧な人はいない。相手も人間であり、不完全である。・・・しかし相手を捨てない。・・・愛には人間の理解を超えるところがある。・・・愛は、人間の合理的であたりまえの態度ではない・・・。とするならば、そこには神が働いている・・・。結婚が神の制度とされたりする場合があることも、このように考えると理解が可能かもしれない。・・・結婚は神の愛を二人の関係に制度的に介入させる企てだ・・・。」
p.202-204。


「「愛している」と宣言することは、相手に価値がなくても、相手がいい加減でも、相手を捨てないと宣言しているということになってしまう・・・。したがってみだりに「君を愛している」などと言うべきではない。」
p.205。

大学の授業で毎年、これを言っているのかな(笑)。


●神は岩

「自然科学者は神は岩ではないと考え、・・・このメッセージを無視する。宗教学の専門家は、メモ帳を開いて「聖書には<神は岩>と記されている」と書き込んで、メモ帳を閉じる。・・・しかし「神は岩」という言明がそれを読む者に神との関係のあり方を迫るものとして受け取る者にとっては、この言葉は自分にとっての神とのについての呼びかけになっている。呼びかけを受け入れないと、自分は呼びかけによって拒否されることにもなってしまう。岩を尊重しない者はその岩に自分が打ち砕かれる。しかしその岩に他の者はしっかりとした足場を築く。」
p.529。

けっこう、いいこと言っています。




ガブリエル・マルセルの問題と神秘 [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.24-27より。

フランスの哲学者で、「20世紀のソクラテス」と言われたらしい、アルフォンス・デーケンの恩師、ガブリエル・マルセルの「問題」と「神秘」について。

わたしなりの言葉でのメモ。


マルセルは、人間が直面する現実を「問題」と「神秘」の二つの次元で考えた。

「問題」は、客観的に見て、知識や技術で解決することができるもの。

「神秘」は、コントロールすることも把握することもできない深い領域。愛、自由、人間、自然、出会い、存在、誕生、生、死、悪などが挙げられる。


今の教育は、ほとんどが問題解決のための技術的な教育に偏り、「神秘」の次元に属するものを「問題」の次元で解決しようとする傾向がある。


人為を超えた「神秘」に対峙するときは、自分の限界を認め、素直な驚き、謙遜、畏敬、開かれた心を持って向き合うことが大切。


苦しみも神秘の次元に属するものであり、簡単な解答はない。しかし、どうしようもない苦しみにさらされたときも、事態をあるがままに受け入れて眺めれば、苦しみに埋没することなく、新たな段階へと踏み出してゆくことが可能となっていく。




赦す [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.77より。

「赦す」ということについて。

わたしなりの言葉でのメモ。



赦すとは、感情的なことではなく、意志の力による行動である。


感情に支配されてしまうこともある中で、意志によって、「赦す」という自由な決断ができる。


赦すとは、相手を一人の人間として全面的に評価しようとする自発的な行為である。


赦したと思っても、否定的な気持ちが残っていることもよくある。傷が深ければ深いほど、否定的な感情はなかなか払拭できない。それでも、意志のレベルから赦そうと努力する。すると、感情のレベルでも少しずつ変わっていく。



佐古純一郎「愛は応答である」(2) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。(その2)


社会の形成
わたしたちは、人と人とが応答的関係によって結びついている「責任社会」(responsible society)を形成する責任を負っている。

情報化社会の中で、伝達された情報に対して主体的にのぞみ、自己に対する問いかけとして聞き、誠実な応答をすべきである。そのようにして、わたしたちは責任社会に対して連帯し参加することができる。

人類の自滅を免れるために
自己中心性を原理とする利益社会は、人々をますます利己的にし、世の中を人と人とが互いにかみ合い食い合う世界にし、自然を破壊している。

もしわたしたちが、自己中心性を絶対化して、すべての存在を自己の欲望の充足の前に手段化し、利用するという生活態度から、根本的に生まれ変わらないなら、人類の文化はおそらく自滅を免れないだろう。

わたしたちが今しなければならないことは、クリスチャンになるということよりも、真実に神の前に立って、わたしがほんとうに「わたし」になり、あなたがほんとうに「あなた」になることである。

教育
人格的な応答としての「愛」が、わたしたち日本人の生活の中に欠けている。

まず自らを、何ものにも代え難い、かけがえのない「わたし」として深く自覚できるような教育が必要である。

そのために、わたしたちはまことの「言」(ことば)を聞かなければならない。根源的な「言」(ことば)に立ち帰らなければならない。

そのような真の「宗教」に根を下ろしている教育を真剣に考えなければならない。



佐古純一郎「愛は応答である」(1) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


他者の欠落
自己中心的に、自己の幸福と利益の追求という自己目的として自己の人生を捉えると、他者が欠落してしまう。

そこでは、他者の存在は「利用価値」という価値判断によってのみ計られ、人と人との人格的関係が成立しない。

自己認識
我々は、他者との関係の中でのみ自己を認識でき、他者との関係の中でこそ自己を認識できる。

他者と自分とが、何らかの価値によってではなく、「わたし」と「あなた」という人格的関係にあるとき、私たちは自分が「人格」であることに目を覚まされる。

そのために、他者からの問いかけを真実に聞き、誠実に応答することで、他者との応答的な関係を作り出すことができなければならない。

他者に応答的になれる場所
キルケゴールやマルティン・ブーバーが言う「単独者」でしかないこのわたしが、どこで、真実に他者からの問いかけを聞き、誠実に応答できるのだろうか。

わたしを「人格」として創造してくださった神は、わたしを人格的な「あなた」としてしか取り扱わない。そのような神の前に立つとき、わたしはほんとうに「わたし」である自己を知らされ、真実に自己を主体的な存在として自覚できる。

このような神を、わたしたちはイエス・キリストを仲立ちとして知ることができる。

自己を愛する
自分を愛するとは、自分を、人格的自己として、真にかけがえのない「わたし」として大切にするということである。

自分を真実に「わたし」として愛することができる心は、どこで取り戻すことができるか。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という言葉のもとに自己を連れ戻すことにおいてである。

それは、創造主との正しい関係の中に自己を置くことであり、キリストの十字架によって可能とされる。

隣人を愛する
自己を愛することができるとき、わたしたちは、他者をも自己と同じく「人格的存在」として、真実に「あなた」と呼ぶことができる。

他者との応答的関係を築くために、誠実に他者に耳を傾け応答することが、「あなた」を愛するということである。この意味において、愛は応答(レスポンス)である。

自己の存在の中に人格としての「わたし」を知ることのできる心だけが、他者の存在を人格的な「あなた」として認識することができる。これが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の意味である。



佐古純一郎「愛の力」 [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛の力」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


愛は「生かす力」である。

(1)
愛は、自己を生かす力にもなり、他者を生かす力にもなる。

自己を生かす力としての愛は、自己中心的な愛であり、「自己愛」である。

自己愛において、他者は人格的な存在として認識されておらず、物的な利用価値としてしか価値づけられていない。

これが絶対化されて私利私欲の充足に向かうと「利己愛」になる。

(2)
「自分を愛する」とは、利己愛ではなく、自己愛でもない。

自己の人間性を大切にし、自らの存在を人格的存在として深く自覚し、自らを生かそうとする。

そうしてこそ、他者をも、物的存在ではなく人格的存在として認めることができる。

ここに、他者を自己の幸福や利益の手段とするのではなく、よりよく生かす力としての愛が発動する。

(3)
しかし、我々は自己中心的な愛を捨てることができない。

そこで主イエスは、
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
と言って、わたしたちのために死んで復活され、自らわたしたちを愛によって生かしてくださっている。

他者を生かす主イエスの愛によって、このわたしはほんとうに生かされている。

この、他者を生かす力である愛に、自らの人生の根源をしっかり置いて、きょうを生きていく。

(4)
このような主イエスが、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
と言われるのだから、それは不可能なことなどとあきらめないで、主イエスの愛に誠実に応答して、他者を生かす力としての愛をわたしたちも持っていきたいと願う。



佐古純一郎 [読書メモ]

佐古純一郎
1919.3.7-2014.5.6

評論家だったり大学教授だったり牧師だったりで、いったいどういう経歴になっているのかと思い、わたしなりの関心からその生涯を区分してみると、次のようになる。

第1期(~1951年) キリスト教との出会い
1948年5月23日(ペンテコステ)受洗
1949年日本聖書神学校入学

第2期(1951~1961年)評論家としての出発
神学校へ通うも、牧師の道ではなく評論家としての道に進んだ。
1951年 最初の評論集『純粋の探求』出版。
1957年まで、創元社や角川書店に勤務。
1960~1961年 『佐古純一郎著作集』全8巻(春秋社)刊行。

第3期(1959~1967年)二松学舎大教員
第2期と若干重なるが、
1959年 二松学舎大文学部専任講師
1961年 助教授
1962年 教授

第4期(1967~1984年) 中渋谷教会牧師
1967年7月1日 日本基督教団中渋谷教会伝道師
1971年12月14日 受按、牧師になる。
1984年まで中渋谷教会牧師

第5期(1986~1989年)二松学舎大学長

第6期(1989年以降)執筆活動の晩年




 文芸批評や文学論ではなく、キリスト教的な著作として今の私(これまでの私)にとって関心のあるのは次の二つのみ。

『文学にあらわれた現代人の不安と苦悩』(教養新書)、日本YMCA同盟出版部、1957年。

夏目漱石『こころ』に始まり、石原慎太郎『太陽の季節』、三島由紀夫、大岡昇平、丹羽文雄などなどを取り上げて、孤独や人間不信による男女関係の歪みや自殺の問題をあらわにする。

最後に、おそらくキリスト教を押しつけられたくない今の人にとってはドン引きしてしまうほどに、イエス・キリストの愛を語る。

「私は自分が愛されている存在であることを、生の奥底から実感することができるのである。かつて生きることに絶望し、いくたびか人生を清算しようと決意した自分が、いまは自殺ということにナンセンスを感ずることができるのは、愛されている自分を知っているからである。私は誰に愛されているのか。ためらうことなしに告白しよう。キリスト・イエスにと告白しよう。・・・愛するということは、愛されるということの同義語でしかない。」(p.112-113)


「かつて青春の日に、人生無意味の虚無感に襲われ、もはや生きていることには耐えられない状況に追い込まれた私が、いまははっきりと人生は無意味でないと叫ぶのである。・・・人生は無意味ではない。人生には使命があるからである。・・・「神は・・・和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神は・・・わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。・・・」私はパウロの言葉によって示されたこのことのほかに、自分に与えられている人生の使命はないと確信している。」(p.116-119)


他に、「文学の倫理と信仰」、「性の反宗教的性格」、「現代における死」、「戦後文学における女性」を収録。


この本を読んで牧師になっ人が少なくとも三人はいるとのこと(『共助』第64巻第8号、2014年12月、基督教共助会出版部、p.19-24の佐古純一郎葬儀説教)。




もう一つは、

『キリスト教入門』、朝文社、1989年初版、1992年新装版、295頁。

「第一部 キリスト教入門」は『信徒の友』に連載されたもので、求道中の人向けに自由に記された全12章。

「第二部 信仰によって救われる」は、ガラテヤ人への手紙を読み進めることを中心に様々な聖書箇所を紹介しながら信仰のエッセンスを語った、中渋谷教会での説教、全10章。

「第三部 祈りについて」も中渋谷教会での実際の学びから生まれた全7章。

「第四部 愛について」は、13頁ほどの「愛の力」と、『愛を問う』(女子パウロ会、1973年)に収録されていた「愛は応答(レスポンス)である」(46頁)の2編。


じっくり読み返したいのは「祈りについて」と「愛は応答である」。



オン神学 [読書メモ]

『福音と世界』2015年1月号で洛雲海(ナグネ)によって紹介されていた韓国のオン神学(Ohn Theology)について、興味深かったので、引用しつつ、私なりの言葉で言い換えつつ、まとめておく。


1.背 景
「オン」とは、「オングル(満月)」とか「オンヌリ(全世界)」のように欠けなく全体的で丸い様子を表す言葉。

韓国教会は、信徒の教会離れが進み、海外から多様な神学が流れ込んで混乱し、様々な教派・教団が乱立している。

そのような混乱状況の中で、オン神学は、全世界のための穏健かつ全体的な神学を志向するもの。


2.成り立ち
長老会神学大学校の金明容(キム・ミョンヨン、Myung Yong Kim)が提唱。

韓国長老教会統合派(PCK)の中で形成されてきた、これまで統全的神学と呼ばれてきたものを発展させた神学。

「改革神学の伝統上にあって福音主義(福音派)神学とエキュメニカル神学ならびにペンテコステ神学を合流させた神学」


3.特 徴
(1)プロセス神学や宗教多元主義などに対して、三位一体論を重視

(2)歴史に対する自由主義神学的楽観主義に反対して、神の主権と恵みの強調

(3)魂の救いのみを強調する行き方に対して、穏健かつ全体的な福音の主張

(4)天上におけると共に地上における神の国を強調

(5)世の至るところにおける聖霊の働きを重視した対話的神学

(6)祈りを軽んじる一部の哲学的傾向に反対して、祈りの重視

(7)世を破滅へと導く悪霊に打ち勝つ愛の力に信頼した倫理


文献
洛雲海「韓国教会通信7」、『福音と世界』2015年1月号(第70巻1号)、新教出版社。




さて、記事中に出てくる「統全的神学」というのは、holistic theologyの訳語だろうか。

Myung-Yong Kimのholistic theologyに関する英語の記事がある。

http://www.christianitydaily.com/articles/2030/20150206/holistic-theology-seminar.htm

あるいは、書籍を紹介しているfacebookの記事もある。




しかし、アメリカではどうもholistic theologyというと、キリスト教神学ではなく、なんだかニューエイジっぽい雰囲気の感じられる世界の用語のようである。
http://www.universityofholistictheology.com/
http://www.aiht.edu/

そうすると、これらとは全然別物よという意味で、区別して"Ohn Theology"と言う意味もあるということか。


テルトゥリアヌス、埴谷雄高、上野千鶴子 [読書メモ]

2010年11月14日のブログで、「不条理なるが故に、我信ず」(Credo quia absurdum)に近い言葉がテルトゥリアヌスの著作のどこにあるかについて記した。

現存する著作にはまったく同一の記述は見当たらないが、これに近い表現はあるということである。

テルトゥリアヌスの著作からの直接の引用ではないとしても、幾人かの方々からご指摘いただいたように、テルトゥリアヌスの思想をよく現している言葉として、いつしか広まったものだと考えることができるだろう。


評論家・小説家の埴谷雄高(はにや・ゆたか)に『不合理ゆえに吾信ず』という本がある(現代思想社、1961年)。

この本について、本人は「アフォリズム集」と言っている(巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」)。谷川雁は「作者への手紙」で「詩というよりは短い形而上的メロディ」と表現している(p.115)。

もともとは1939年頃に同人誌『構想』に連載。その後、1956年に月曜書房から出たらしい(松岡正剛の千夜千冊のページからの情報)。

1961年に現代思想社から出た後は、河出書房新社や講談社の作品集にも収録されているが、やはり、正方形(しかし実測してみたら縦181×横186mm)で“Credo, quia absurdum.”としか書かれていない布張りの装幀でないとインパクトがないだろう。

もちろん、内容にインパクトがあるのだが、現代でもこういうのにあこがれる人がいるようだ。

「サルトルが『嘔吐』を書いたのが1938年、そして、この『不合理ゆえに吾信ず』が私達がその頃やっていた同人誌に出されたのが1939年ですが、それらの仕事は、互いに相知らぬ遠い世界のここかしこで、社会の課題がまだ十分に果たされてもいないにもかかわらず、しかも、すでに新しい大きな存在論の課題に直面しなければならなくなった私達の位置の恐ろしい同時性を物語っているかのごとくです。」

巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」、p.128-129。


タイトルについては何も記されていない。したがって、テルトゥリアヌスへの言及もない。


埴谷雄高が、自殺することと子供をつくらないこと、この二つを人間の「最も意識的な行為」だと考えていたことはよく知られている。

そして彼は、「寛大になれない過ち」として「子どもを生むこと」を挙げた。しかし、彼は何度も妻に中絶させている。

これに上野千鶴子が怒っている。

寛大になれない過ちは子どもを生むこと、と平然と答えつつ、妻とセックスを続けて避妊もせず、何度も中絶させておきながら、どの面(つら)下げて言うか!・・・そういう人間の思想は、それだけで信用できない・・・。

上野千鶴子「死ぬための思想/生き延びるための思想」 in 上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(岩波現代文庫/学術270)、岩波書店、2012年、p.283。


1.
上野千鶴子の上の言葉は、これまでの思想はほとんど「死ぬための思想」であって、「生きるための思想」が必要なのにそれがなかったというような議論の中で出て来た話である。

思想は生き方になってこそ思想であるし、それこそが生きた思想だといえる。

「生きるための思想」を築いたとしても、その人がその思想に生きていなければ、死んだ思想になってしまう。

2.
もっとも、その人の生き様は脇に置いて、書物なりの公にされた文献に限定して、そこに記されていることのみを思索や学問の対象とする方法もあり得る。

しかし、社会学の専門家からすれば、その人の生き様が伴っていなければ信用できないということになるのだろうか。

3.
では、神学と神学する者の生き様の関係はどうだろうか。

神を認め、いや、知的に認めるのみならず、心から神を誉め讃えることが、その人の人生の根幹になっていなければ、ほんとうの神学の営みは不可能であろう。

その一方で、神に対する罪を謙虚に認め、人の罪がいかに深いかを知るならば、とても理想通りの生き方はできず、神の御心に適う生き方からはほど遠いことも自覚される。

この相矛盾するような狭間で、しかし、イエス・キリストによって罪を赦されて、神との関わりの中を生きる者へと恵みによって召されていることを感謝しつつなされるのが神学だということになろうか。




ミルトン『言論・出版の自由』2 [読書メモ]

ミルトン(原田純訳)、『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫赤206-1)、岩波書店、2008年。

各種(書誌的?)情報、その他は前回の記事で。


――自分のためのメモ――

●検閲制度の起源
「この検閲の企みが、実はカトリック教会の異端審問所から這い出て、わが国の国教会監督制度によって採用され、このたび長老教会のある人たちに見込まれるまでの経緯を示しましょう。」
(p.14)

書物の検閲は、古代の国家や社会あるいは教会から出たものではなく、また、宗教改革を行った外国の都市や教会の最近の慣行からでもなく、「最大の反キリストの宗教会議および歴史はじまって以来もっとも非道な異端審問所から出て来たもの」だ。(p.22)

●悪い書物も真理のために必要
悪い書物であっても、「思慮分別のある読者には、良いことが多くわかり、論破し、前もって警戒し、例証するのに役立ちます。・・・誤っているものさえ知り、読み、対照することにより、最も真なるものにはやく到達できる・・・。」(p.27)

「あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の論述に耳を傾けずして、罪と虚偽の国をより安全、危険すくなく偵察することはできません。」(p.30)

●自由な学問のために
「学問を研究し愛するために生まれてきた、自由にして誠実ある人たち・・・の判断や誠実を信用せず、教師や試験官なしで考えを出版する資格はないとするのは、自由にして学問を知る人に対する最大の不快事であり、侮辱である」(p.45)

●教派分裂について
「悪魔は言う、「やつらが各派、各党に分裂したときこそ、時機到来だ」と。愚か者よ、われわれは枝分かれしているが、すべてが成長してきた元の堅い根は悪魔にはわからない。細分化された小隊が、・・・悪魔の旅団を、あらゆる角度から切り進んでいく」のだ。「分派、分裂と思われているものから、より良いものが生まれるのを希望すること」が大切だ。(p.68)

「私は分離がすべて良いとは考えません。〔しかし〕、人間は良い麦を悪い麦から・・・完全に区別できません。それはこの世の最後に天使たちがする仕事・・・。すべての人が強制されるより、寛容に遇されるほうが明らかに有益であり、思慮があり、キリスト教的である。」(p.75-76)

●言論の自由こそすべて
「自由はすべての偉大な知識の乳母である。」(p.70-71)

「あらゆる自由にまさって、知り、発表し、良心に従って論ずる自由をわたしに与えよ。」(p.72)



ミルトン『言論・出版の自由』 [読書メモ]

ミルトン(原田純訳)、『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫赤206-1)、岩波書店、2008年。

John Milton 1608.12.9-1674.11.8(キリスト教人名辞典による)

この邦訳が出た2008年は、ちょうどミルトン生誕400年にあたる。

次の2つを収録:
「言論・出版の自由――アレオパジティカ」(Areopagitica, 1644)

「自由共和国建設論」(The Readie and Easie Way to Establish a Free Commonwealth, 1660)

これらは、原田純訳編『イギリス革命の理念――ミルトン論文集』(小学館、1976年)に収録のものを全面的に改訳したもの。(訳者「解説」、p.195)




岩波文庫には旧版がある。

上野精一、石田憲次、吉田新吾訳、『言論の自由――アレオパヂティカ』岩波文庫、1953年。
最初は4943、白181、後に赤(32)206-1。

元は新月社、1948年。岩波文庫化に当たって、石田憲次が全面的に推敲した。翻訳の底本はコッテリル(H.B. Cotterill)の注釈書、随時ヘールズ(J.W. Hales)の注釈書も参考にしたとのこと。

ただ、この旧版のことには、原田純訳の新版ではまったく触れられていない。




『言論・出版の自由』はこれまで読み継がれてきたし、これからも読み継がれるであろう。議会多数与党によるマス・メディアへの介入、資本、人事、広告元の圧力、メディア側の異常警戒と自主規制、公安庁や自衛軍による個人の発言の隠密調査と監視、司法判断の不充分による言論の自己抑制、学校教科書と学習指導要領への政治的介入と不断的監督など、山積する今日の様々な課題に『言論・出版の自由』が深いところで答えてくれるからである。

(原田純「解説」、p.176。)




聖書の記事への言及や聖書にある言い回しの使用に関しては、注は十分とは言えない。

たとえば、

「ソロモンは多読は体を疲れさせる・・・」(p.28)はコヘレトの言葉12:12。

「目を上げれば田畑はすでに実りはじめている」(p.66)はヨハネ4:35。

「ミカヤがアハブの前でしたように・・・」(p.74)とは、列王記上22章あるいは歴代誌下18章の記事。

「人間は良い麦を悪い麦から、よい魚を悪い魚から完全に区別できません。それはこの世の最後に天使たちがする仕事・・・」(p.75-76)はマタイ13:29-30、39の毒麦のたとえ話。

などなど。

こういった個所のいくつかは、岩波文庫旧版ではちゃんと注に記されている。




ネットで見ることのできる英語の注付きの"Areopagitica":

米国ダートマス大学(Dartmouth College)の"The John Milton Reading Room"のサイトの中のAreopagitica

Notes by J.W.Hales, Oxford: Clarendon Press,1874. (Google Books)

Notes by T.G.Osborn , London: Longmans, Green, and Co.,1873. (Google Books)



『憲法の想像力』と聖書 [読書メモ]

奥平康弘『憲法の想像力』.jpg奥平康弘『憲法の想像力』、日本評論社、2003年。

さまざまな雑誌や新聞などに発表・掲載された、『憲法の眼』(悠々社、1998年)以来の論考・随想集。1995年~2002年7月までの『法学セミナー』、『書斎の窓』、『法律時報』や朝日新聞の記事などから選択された19編を、書き下ろしの「法と想像力――なぜ「想像力」か」をプロローグにして収録。


奥平康弘は、1929.5.19 - 2015.1.26。


だいたい引用しつつも、私なりに文章を整理して再構成、また、漢字表記などを改めた。


憲法の「想像力」について
たとえば「死刑は廃止すべきだ」という現状変革的な考えには、「想像力」を働かせなければならない。既存の制度の存在理由に、「反省的」(reflective)な契機をともないながら「想像力」を働かせること自体、並々ならぬエネルギーがいる。

「想像力」をかもし出し、誘い、それへの同調の輪を広げてゆくのには、理論作業だけではとても無理である。「想像力」は、認識した諸事実を積み重ねて有無を言わさぬ形で論証する種類の精神作用であるよりも、より多く感性に訴え、そのレベルから納得へと迫ってゆく心の働きだからである。
(p.4-5)

テクストの実践としての憲法
どんな成文憲法も、現実の社会関係に適用するためにあるのであり、そして適用するためには現実のコンテクストと憲法上のテクストと睨み合わせながら解釈しなければならない。つまり、テクストとしての憲法とは別にプラクティスに基づく憲法(あるいはプラクティスとしての憲法)があるのであって、この意味で憲法とは、解釈と実践を通して現実のコンテクストに適合的なものとして鋳直されたものである。
(p.75-76)

憲法は世代を越えた"未完のプロジェクト"
したがって、「成文憲法としての日本国憲法は、それを起草制定した者たちが属する世代と、その憲法を解釈し自分たちのために活かそうとする現代の人びとの世代とのあいだに取りかわされる高い感度を要する共同作業がもとめられる、世代を越えたプロジェクトなのである。」
(p.40、85)

憲法は実践を通して選びとったもの
そうすると、文書に過ぎない成文憲法を人間の営為・実践の中でどう生かすかが重要である。憲法というものは、実定的なるものとして日々解釈され適用される。その意味で常に「選び直されてきている」。憲法はいかなる意味でも「押しつけられ」たものではなく、市民が日々の実践を通じて「選びとったもの」である。
(p.27、66)

表現の自由について、シフリン(Steven H. Shiffrin)という憲法学者の説の紹介として、
「表現の自由なるものは、19世紀中葉以降の詩人R.W.エマソンやウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべき・・・。こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、、人々を生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意見表明を自由闊達におこなわせるためにこそ、表現の自由の憲法保障はあるのだ」(p.22-23)

ハンセン病患者の処遇に関してあげている文献:
藤野豊『「いのち」の近代史』、かもがわ出版、2001年。
小畑清剛『法の道徳性(下)』、勁草書房、2002年。
(p.12)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


感 想

憲法が常に解釈され、選び直されていくという点は、聖書が決して固定化したテキストではなく、生きた御言葉として解き明かされていくものであり、66の文書を正典として受け取るのも所与のこととして機械的に過去から受け取るのではなく、その歴史の中で現代のわたしたちも確かにこれらこそ神の言葉だとして常に受け取り直されていくことと似ているなあ。



タグ:憲法・人権
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